①女性客宛の電話
社会人になったばかりの頃、最も嫌いな業務が他所からかかって来た電話に出ることでした。
社内での業務も覚束ない時分に、社外の人間からの答えのわからない問い合わせへの対応を強制されるのは、なんとも形容しがたい緊張というか、目に見えない恐怖があるのです。
このお話は、上記とはまた違った恐怖を孕む『電話にまつわる怪談』ですが、
実際にこの電話に対応しなければならなかった新人の女性従業員が可哀想で、誕生日が近いことにかこつけて、後日スタバのドリンクチケットを贈りました。
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この作品は著作者本人の体験をもとに制作されました。
人物名、地名、来歴等は全て仮名を使用し、一部脚色を加えています。
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2024年11月30日 亜岳
22時42分。
客の夕食が終わり締め作業を行う仲居たちを尻目に、出勤した私は事務所で情報の引き継ぎを受けていた。
夜勤をするにあたり必要な情報(施設や客、料金やシステムに関する注意点)を、事務所に詰めていた従業員から聞いてメモを取る。
このお客様は待たされるのが嫌いなタイプだから気をつけるように、とか、温泉の温度が少しぬるいので必要であれば朝までに調整するように、とか、そういったことが主である。
ただ、その日の引き継ぎ内容は、なんとも不思議なものだった。
宿泊客宛に、不審な電話がかかって来たという。
電話がかかって来た時刻は20時過ぎ。
昼番の事務員が退勤した後は、事務所で作業をするスタッフがいなくなってしまうため、新卒で入社したばかりの若い女性従業員が電話番をしていた。
(旅館業にはありがちなことで、オフィス、サービス、清掃、経理、総務といった区分はあまり機能していない。人手が足りないので、皆が皆できることを増やして穴を埋めようといった具合)
以下がその晩、私が引き継いだ情報である。
20時を少し回った頃。
携帯の番号から、外線電話があった。
19時をまわると、客室からの内線はともかく、他所からの外線は珍しい。
新人の女性従業員は「料金の問い合わせなどの難しい内容でなければいいけれど」と少し緊張しながら受話器を取った。
電話をかけて来た主は「今晩宿泊している、山崎に急用があり連絡しました。つないでいただけますか」と言う。
女性従業員は「少々お待ちください」と外線を保留にして、宿泊者名簿を確認した。
しかし7組ほどの宿泊客の中に、山崎という客はいないようだった。
女性従業員は「山崎様という方は宿泊されていない。他の宿泊施設と間違えてはいないだろうか」と伝えた。
相手はそれにたいして「そうですか」と引き下がり、電話を切った。
これは後からわかることだが、不思議なことに電話を取った彼女は、通話した相手の声質や年齢、性別すらすっかり忘れてしまったそうだ。
その後、夕食の配膳に出ていた先輩スタッフにこのことを伝えると、藤本洋介様の名前で予約している男性の連れが、山崎かな様という女性であることがわかった。
女性の誕生日祝いで2泊3日の予約をしているカップルで、20代後半の物静かで礼儀正しい宿泊客だった。
山崎様の存在に気がついた時には既に22時を回っており、追って電話での問い合わせもなかったことから「山崎様には朝食の席で、電話があったことをお伝えする」ということで話はまとまり、私に引き継ぎがあったのだった。
さて、肩透かしを食らわせるようで申し訳ないが、その晩は特に変わったことは起こらなかった。
私は朝になり出勤して来た事務所の先輩に、軽く引き継ぎを行い退勤した。
事態が変わったのはその次の晩のことだった。
23時前。
夜勤の私が出勤すると、オフィスの様子が少々おかしかった。
その晩も電話番を担当することになった若い女性従業員が、デスクで項垂れるようにして座っていた。
元気で笑顔の多い愛嬌のある子だったので「クレーマー気質の客でも来ていて、不運にも絡まれてしまったのか」と私は思った。
やはり、値段の高い旅館というのは、上品な客も多い分、気難しい客も多い。
すでに転職してしまったが、私の直接の先輩にあたる前夜勤スタッフも、堅気ではない客に夜中呼び出されて土下座をさせられた経験がある、というのだから何が起こるかわからない。
しかし、遅番の従業員から共有された情報は、予想とは全く異なるものだった。
以下に記すのが、その晩私の受けた引き継ぎ内容である。
まず、昨晩あった電話について、朝食の席で山崎様へお伝えしたところ、山崎様は酷く取り乱した。
2泊3日の予約の二日目、まだ中日だというのに、今すぐにでも帰ろうかと悩むほどだったという。
山崎様とともに宿泊していた、男性客の藤本様がなんとかなだめ、予定通りもう一泊して帰られることになったのだが、山崎様からは「もしまた同じような電話があったとしても、決して取り次がないでほしい。私が宿泊していることも、絶対に伝えないでほしい」と強く念を押された。
藤本様は困っているような様子ではあったが、事情を理解しているようで、神妙な顔で黙っていた。
山崎様のあまりの様子に、従業員の誰も、何も聞くことができなかったという。
さて、その晩。
20時を過ぎたあたりに、また外線電話が鳴った。
件の番号からだった。
電話の主は「宿泊している山崎に取り次いでください」という。
電話番をしていた新人の女性従業員は言いつけられていた通り「山崎様という方は宿泊されていない」と伝えた。
しかし、昨晩とは異なり引き下がることなく「山崎かな、という女性が宿泊しているはずです。彼女の妹のことで連絡をしました。命に関わる内容ですので、すぐに取り次いでください」と言う。
命に関わる内容、と聞き、電話番の彼女は悩んだ後に「宿泊者名簿を改めて確認いたしますので少々お待ちください」と電話を保留にした。
藤本様と山崎様はちょうどその時間、夕食を取っていたので、電話番はインカムを通じて食事係に情報を伝えた。
白朗荘は古めかしい旅館らしく、一部屋ごとに仲居がつき、夕朝食ともに客室まで運び給餌をする。
食事を食べるスピードの共有や、サプライズケーキの用意、ドリンクの注文を円滑に行うために、仲居と事務所スタッフ、それから厨房の責任者がインカムを使いやりとりをしていた。
インカム越しに、
おそらく、昨晩と同じ方から山崎様に電話が入っている。
山崎様は宿泊していないと答えたが、引き下がってくれず、妹さんのことで命に関わる、とおっしゃるので「改めて確認します」とだけ伝えて保留にしている、と話すと、ややあって責任者と担当の仲居から返事がきた。
「山崎様と言うお客様はやはり宿泊していない、と伝えて電話を切るように」電話係は言われた通りにした。
電話口の相手は、なかなか引き下がらなかったが、電話番は半ば強引に電話を切った。
山崎様という方は宿泊していないと伝えても、食い下がらない様子が、どこか不気味に思えたからだ。
一度目の電話で「しっかりと通話相手の名前を伺うように。万が一忘れたとしても、どのような方だったが情報を残すように」ときつく言い含められていた電話番だったが、やはりこの時も、なぜか通話相手の名前を伺うことは愚か、性別すら記憶しておくことはできなかったそうだ。
一方で、山崎様は朝食からずっと調子が悪い様子で、コースはもういいので直ぐに夕食の献立を全て客室に運んだら、仲居にはすぐに部屋から出ていって欲しい、と希望された。
かかってきた電話が、親族の命に関わる、なんて内容が内容であっただけに食事係は、今晩も電話があった、と男性客の藤本様にのみ伝えた。
親族の命に関わると言ってしつこい様子だったため、気をつけて欲しい、と。
この時、藤本様の様子に特に変わったところはなかったという。
事態が急変したのはそれから数時間後。
22時を少し回った頃だった。
本館2階の客室、老夫婦が宿泊している部屋から内線がかかって来た。
隣の部屋から女性の叫び声が聞こえる。
とても尋常な状況とは思えないため、様子を見て欲しい、と。
そこは藤本様と山崎様の部屋だった。
その日の責任者が部屋の前まで行くと、廊下からでも聞こえるほどの女性の泣き叫ぶ声が聞こえる。
どうやら、藤本様と山崎様がもめている様子だった。
ドアをノックしたが中にいる2人には聞こえないようで、直接部屋に内線電話をかけることにした。
事務所にインカムで「部屋前に責任者が控えているので、もし問題が起きているのなら直接話を伺いたい」と内線電話で伝えるように指示を出す。
責任者が部屋の前で待機していると、やがて室内から内線電話の呼び出し音がなった。
すると、それまで聞こえ続けていた叫び声がピタリと止んだ。
しかし電話を取る様子はない。
それまで騒がしかった室内が突然静かになり、辺りに響くのは内線電話の呼び出し音だけ。
責任者には、室内で何が起きているのかさっぱりわからなかったし、異様な空気感に気味の悪さすら感じたが、意を決して客室の扉をノックした。
一度叩いても反応はない。
二度目にノックをしながら「藤本様?大丈夫ですか?」と声をかけると、やっと男性の声で「はい」と返事があった。
木造の引き戸越しに、誰かが近づいてくる気配があり、責任者は扉の外から声をかけた。
「遅くに申し訳ございません。とても大きなお声が部屋の外まで漏れていらっしゃいましたので、確認で参りました。なにかございましたか」
少しの間返事がなかったが、やがて引き戸がすっと開いた。
中にはやつれた様子の藤本様が困ったような、疲れ切った顔をして立っていた。
「うるさくしてすみません。いえ、その…」
男性は責任者の顔と室内を交互に見つめ、やがて一つ大きなため息をついた。
「彼女の体調が優れませんので、帰らせていただきます」
「今からでございますか?」
「えぇ、はい。もちろん宿泊料は支払いますので」
「ですが、今の時間このあたりの病院はやっていませんし、恐れ入りますがお住いはどちらでしょうか」
「…千葉ですが、大丈夫なので」
白朗荘のある地域は、決して千葉からは近くない。
「今晩はご宿泊いただいて、明日の朝出られてはどうでしょう。症状を教えていただければいくらかお薬もございます」
「いえ、結構です」
「…かしこまりました。門の前までお車を回しますので、お運びする荷物がございましたら、フロントまでお声がけください」
部屋の中からは、女性のすすり泣く声が聞こえてきていた。
そうして藤本様と山崎様の二人は、私が出勤する数十分前に宿を出ていった。
「ほんと、あっという間に出てっちゃったわ」と年配の仲居さんがポツリと漏らしていた。
そうして、山崎様の事情はわからないにせよ、自身がとった電話でお客様を帰らせてしまった新人の女性従業員は、通話相手の名前を控えなかったことも含めて、ひどく落ち込んだ。
***
その晩のこと、時刻は1時を回った頃。
私以外の従業員は全員退勤し、オフィスには私一人。
ところどころ古い木造建築なので、時折風に吹かれて木が軋む音がする。
外線・内線どちらも取ることができる社内用端末を手に、そろそろ館内の巡回に行こうと考えていた時だった。
プルルルルルル…
プルルルルルル…
外線が鳴った。
急に鳴りだした呼び出し音は、私の心臓を大きく跳ねさせた。
深夜、無音の事務所に鳴る無機質な通知音は、なんとも言えない不気味さがある。
「はい。白朗荘でございます」
自分でも情けないほどの細い声で電話に出ると、相手は名乗ることはなく不躾に本題を話し始めた。
「山崎かなさんのことで連絡しました。代わっていただけますか」
来た、と思った。
恐怖か興奮か、よくわからないながらも逸る心臓の音を感じながら、私は努めて冷静に、毅然として聞こえるように返事をした。
「申し訳ございませんが、山崎様と言う方はご宿泊されておりません。お掛けになる場所をお間違いのようです」
失礼いたします。と続けて電話を切ろうとすると「待ってください」と呼び止められた。
「山崎かなに繋いでください」
「いえ、ですから、その方は当旅館にお泊まりではありません。他のお客様にもご迷惑になりますので、直接ご連絡なさってください」
「お願いします。代わってください。山崎です。山崎かなです。代わってください。いますよね。泊まっていますよね。代わってください。今度こそ」
「いません。泊まっていません」
「嘘つかないでください。います。代わってください。知ってるんです。命に関わるんです」
「ですから、その方の連絡先に直接かけてください。当旅館にはいませんから」
「います。代わってください」
「いらっしゃいません」
埒が開かなくなって来た。
そう思いながら、私は電話を切ることができずに、ぼんやりと相手の声を聞いていた。
返事をする気力がなくなったというか、これ以上何をいっても焼け石に水だと諦めてしまったというか。
「代わってください。死んでもいいんですか。死にますよ。代わってください。代わってください。山崎かなに、代わってください」
私が返事をできなくなった後も、そのようなことをずっと話していたと思う。
チリンチリンチリン
突然、フロントの呼び鈴が鳴った。
従業員の人数が減る夜中から朝方にかけては、フロントに呼び鈴を置いておく。
お客様はその呼び鈴を鳴らして、事務所にいるスタッフを呼び出すことができる仕組みだ。
その音を聞いて私はハッとした。
靄がかかったような脳内が、急にはっきりとした。
冷や水をかけられたような感覚。
或いは、微睡みの中時計を確認して、遅刻ギリギリの時間であることに気がつき、急速に覚醒する感覚に近かった。
私は慌てて手元にあったペンで、メモ用紙に走り書きをした。
『1じ、Tel、女』
そう、電話口で会話している相手は、女性だった。
年齢まではわからない。
少し低い声は、若いようにも歳をとっているようにも聞こえた。
年寄りでなかったことだけは確かだと思う。
私が『女』と書き終えるのと同時。
「だかあら、だせふってついったってるんぐじゃんなああああい!」
電話口の女が野太く低い声で叫んだ。
大型犬が威嚇するような、気味の悪い唸り声だった。
突然の大声と気味の悪さに、私は頭が真っ白になった。
過ぎた混乱と恐怖に脳みそが一切働かなくなったし、情けないことに受話器を握る手は震えており、よく取り落とさなかったなと、今となっては思う。
私の口からは「え」とか「あ」とか、言葉になりきらない声が漏れていた。
その時に電話口の女が何を話していたかは覚えていない。
軽くパニックに陥っていたので記憶が曖昧なのだ。
怒鳴り続けていたような気もするし、笑っていたような気もする。
チリンチリンチリン
「すみません」
再び、フロントの呼び鈴が鳴った。
今度は、年配の男性の声もした。
表でお客様が待っている。
やっと日常に引き戻されたようで、私は弾かれたように、空いていた右手で電話のフックボタンを強く押した。
「はい、はい、すぐに参ります」
外へ向かって声をかけながら、私は事務所からフロントへ出た。
***
読んでくださっている方からしたら釈然としない終わり方だろうが、これ以降奇妙なことは起こらなかった。
結局フロントで呼び鈴を鳴らしていた男性は、髭剃りと専用のジェルを取りにいらっしゃった普通の宿泊客であったし、男性客のお相手をした後に事務所に戻っても、私が放り出した受話器がデスクの上に転がっているだけで、普段と変わった様子は何もなかった。
藤本様と山崎様からその後連絡がくることもなく。
念のため、深夜の1時ごろに山崎様宛に女性から電話があったこと、電話口の様子が尋常ではなかったことを先輩の事務員に伝えたが、そのことを藤本様たちに連絡することはしなかったという。
ご帰宅された後に、追ってこんな連絡があっては気も休まらないだろう。
この件も含め、深夜にかかって来た電話に対して夜勤が一人では対応しきれないこともあり、深夜は営業時間外として外線電話は音声アナウンスを流すこととし、一切の対応をしないこととなった。
私としては、日本時間を完全に無視した海外からの新規予約や宿泊料金、その他諸々の問い合わせ(こういう客ほどアジア訛りのきつい英語を使う)を取らなくて良いことになって万々歳である。
***
なぜ山崎かな様宛に、不気味な電話がかかって来たのか。
電話口の女性は一体誰であったのか。
私の持ち得ない視点から、是非とも気付きや考察をいただきたいがために、この話を文章に起こすにあたり、できる限り、私個人の考察や推測は省略している。
もしもご質問や気付きがあれば、いつでもどうぞ。
ただ一つ、どうしても私の中で消化しきれずにいることは。
電話口で女に叫ばれた時。
ちょうど私がメモ用紙に、『女』と走り書きした時。
これが同時に起こったのは、たまたまだったのだろうか。
もしかしたら、私が通話相手の正体に迫るような記録を残したことを、何らかの形で悟られてしまったのではないか、と。
そんな風に感じてしまう。