嘘2
神様。
バカなことを願ってしまった罰なら、それを願った僕がいくらでも受ける。
これでは、あまりにも彼女が、彼女が、
「ごめ……ん……、僕、松嶋さ……あ、天音ちゃんに、なんてことを……」
自分のやったことの、あまりの残酷さに、今更全身の震えが止まらなくなる。
天音ちゃん。
そうだ、僕は彼女をそう呼んでいた。
本当の、最初の、繰り返しなどどこにも存在しなかった「出会い」の時。
飛んできた麦わら帽子を拾って、差し出した後。
近くの、できたばかりのカフェでお茶をして。
色々な話をして、そして。
次の休みに、一緒に遊びに行く約束をして。
呼び方が「松嶋さん」から「天音ちゃん」に、「城谷くん」から「櫂くん」に変わった。
お父さんにも会った。自宅に呼んでくれようとした天音ちゃんに、頑として「最初は外で会う」と言い張ったお父さんが、あのファミリーレストランでむすっとした顔をして、僕を待ち構えていたことを覚えている。
しかし、水すら喉を通らない僕のガチガチの緊張ぶりを見て、可哀想になったのかおかしくなってしまったのか、しばらくするとお父さんは「まあ、気持ちはわかるから。少し落ち着きなさい」と、くすくす笑いながら声をかけてくれたのだった。
「ほら、だから外じゃなくて、お家に呼んでお父さんの手料理振る舞ってあげて欲しかったのに」と呑気な発言をする天音ちゃんに、
「お前は娘を持つ父の気持ちをもう少し理解しようと試みてくれないか」
と、お父さんが頭を抱え、
「そうだよ天音ちゃん、これはお父さんが正しいよ」
と、うっかり続けてしまった僕にすかさず、
「君にお父さんと言われる筋合いはない」という、世のお父さんの持つ天下の宝刀を低い声でするりと向けられて、ど肝を抜かれたこととか。
こんなに。
こんなにささやかで、素敵な思い出がいっぱいあったんだ。
だったら、その人生で終わりにしてあげることのほうが、どれだけ結果として彼女を幸せにすることができただろう。
僕のやったことは。
彼女を幸せにするどころか――――。
「ねえ、櫂くん。違うんだよ。違うの」
震えの止まらない僕の肩に、彼女が隣から、遠慮がちに手を伸ばす。
「わたしが、触っても大丈夫かな……?」
ごめんね、櫂くんを傷つけたくなかったら、このことは絶対に言っちゃいけないことだってわかってた。そう呟いて、彼女はそっと僕の肩口にコツンと額をつけた。
「いろんなこと、あったよ。本当に。最初のやり直しから、いろんなパターンの人生を過ごしたの。あの日までの」
小さな声で、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それでね。人生を繰り返すたびに、櫂くんがなんとかしてわたしから離れようとするのがわかるの。それがわたしのことを思ってくれているからだって、ちゃんと知ってた。でも」
彼女の体温が伝わる肩に、ぽたぽたと小さな雫が落ちてはにじむ。
「そうやって繰り返すたびに、わたしと櫂くんはどんどん距離が遠くなって、一緒にいられなくなって、下の名前を呼び合う関係性にすらなれなくて、最後にはわたしはあなたのいない場所で死ぬことになって。わたしが辛かったのは」
そこで一度、天音ちゃんは涙まじりの言葉を切った。
顔を上げるのを感じる。そして、僕の頬を、優しい、柔らかい手がそっと包んだ。僕は申し訳なさと恐怖でぎゅっと目を閉じたままだったけれど。
「あなたのいない世界が終わって、また新たにあなたのいる世界に戻ってこられても、前の人生よりもさらに、あなたといる時間が短くなってしまうことだったんだよ。もしかしたら、本当にもう二度と、出会えないかもしれない。そう覚悟を決めながら、あの場所に毎回戻った。交差点の向こうに、櫂くんの顔を見つけるたびに、わたしがどれだけ理由のわからない嬉しさに舞い上がっていたかわかる? そして、この後ずっとあなたから避けられることがどうしてだかわかっていて、どれだけ悲しかったか」
その言葉に、僕の固く閉じられた両瞼は、こじ開けられて。
泣き濡れた瞳で、でも笑顔を見せてくれた天音ちゃんの、僕の両頬を包むその手が、僕と同じように小さく震え続けているのを感じて。
今度は、僕が恐る恐る、天音ちゃんを抱きしめた。僕にそんな資格があるのかわからないけれど、今だけでもいい、資格が欲しい。天音ちゃんの周りの空気ごと、彼女の震える体と心を、潰してしまわないように、そっと。祈りを込めるようにして。
「櫂くん」
「なに?」
「覚えてる? 本当の、最初の時。あの交差点であったこと」
「うん、覚えてるよ」
あの日、風に飛ばされたあの帽子を僕が拾った。
ありがとうございますと言いながら、小走りに近寄ってきた彼女に帽子を手渡そうとして。
「そのときに、あなたはわたしに一目惚れした。そう何回も、何回も聞かせてくれたじゃない」
そうだよ。何度も話した。その度彼女が照れて、耳が真っ赤になって、僕の肩を、今彼女の涙で濡れているその場所を、思いっきりグーパンするまでがセットだった。だから。
「ねえ、もう二度と、一目惚れしてくれないの?」
そんなの、するに決まっていた。
今回だって、したよ。
僕は絶対、天音ちゃんに一目惚れする運命なんだよ。
繰り返したやり直しの人生の中で、天音ちゃんを好きにならなかった人生なんか、一度もなかった。たとえ僕が天音ちゃんを振っても。天音ちゃんが他の男と結婚しても。大学を卒業して、その後一切の付き合いがなくなっても。それでも。
「あなたが、わたしとの出会い自体を失くそうとすることを、きっとやめないのはわかってた。だからお願いしたの。わたしも、死ぬ、最後に」
「なん、て……?」
「もう一度、必ず出会わせて。そうお願いした」
それを聞いて、僕は。
「ねえ、だから」
――もう、わたしのことを、あなたの人生から消さないで。
涙声で続ける彼女を、さっきより幾分強く抱きしめる。ここに未だある彼女の体と心を、僕なんかよりもずっとずっと強くて、ずっとずっと辛かった彼女を、もう一人にしないように。
「わたし、あなたといちばん長く一緒にいられた、最初の人生が本当に幸せだった。櫂くんは、そうじゃなかった?」
幸せだった。幸せだったよ。だから、取り戻せないなら、最初からなかったことにしたかったのかもしれない。
「お願い、その幸せまで、なかったことにしないで」
誰よりも大切な天音ちゃんからのお願い。
今度こそ、間違えてはいけない。彼女の願いを叶えるために。
「ごめんね、もしこれを櫂くんが受け入れてくれるとしたら、あなたに本当に辛い思いをさせることはわかってる。あなたの目の前で、わたしが死ぬところを、今度こそはっきりと見せてしまう」
どんな未来を選んでも、彼女に必ずやってくる「あの日の死」。
それを受け入れることになる。僕も、彼女自身も。
繰り返しが起こらない未来を、僕一人では選び取れなかった。どうしても、諦めきれなかったから。
でも、僕が本当に彼女の幸せを願うなら。もうこんな辛い経験を、彼女に繰り返させてはいけない。だからきっと選べる。
僕はもう、繰り返しを望まない。
「本当なら、私もここであなたと最初から出会わないことを選べば、あなたにあんな思いさせることもないかもしれないって思った。でも」
――どうしても嫌。
あなたのいてくれたこの人生は、私にとってかけがえのないものだった。
だから、どうしても消してほしくない。
わがままかもしれない。
あなたに苦痛を強いる、最低な人間なのかもしれない。
でも。でも……――。
そうして再び涙をこぼす彼女の両目を、僕はしっかりと見つめた。
今言えることなんて、もうこれしかない。
「苦痛を強いたのは、僕も同じだよ……。ごめん、今まで本当にごめん。ごめん、ごめんなさい、天音ちゃん」
これからも、ずっと一緒にいる。約束する。
もう一度繰り返すことになった、僕たちのこれが最後の人生。
「ねえ櫂くん、今日のお昼はラーメン食べたい」
「いいね、今日は何ラーメンにする?」
「とんこつめんたいたかなふぐちり」
「えらいとっ散らかった……そんなのあるの?」
「あるんだよ、駅前のラーメン屋さんあるじゃない?」
「あれ? あのお店って確かにぼし系のラーメンじゃなかったっけ?」
「そうだよ。だからこれは裏メニュー。しかも、うちの学生に代々受け継がれてきたメニュー名の略称を知っている人しか頼めないの」
「メニュー名の略称」
「うん。通称『呪文』。一年生の時に先輩から教えてもらったんだけど、なかなか一緒に呪文唱えてくれる友達見つからなくて。恥ずかしいって」
「恥ず……どんな呪文なの?」
あのね、と耳打ちされた「呪文」の内容に、僕は思わず頭を抱える。
「ごめんそれは……口に出して言えないわ……」
「えー! だから一緒にチャレンジしてよー! わたしも一人じゃ恥ずかしいもん」
「いやこれ、二人でも恥ずかしいよ」
「でもでも、この恥ずかしさを乗り越えたら、ラーメン手帳に金のスタンプが押せるんだよ!」
そう言って、最近ハマっているらしい「ラーメン食べ歩きスタンプラリーアプリ」の画面をほれほれと僕の鼻先にかざす天音ちゃんの、ちょっとだけ尖らせた口元も可愛いな、などと本人にバレたらそれこそ恥ずかしいようなことを思いつつ、僕は「わかったよ、一緒に唱えるよ、呪文……」と呟いた。
「やったー」と隣で無邪気に喜ぶ天音ちゃんの笑顔も、やっぱりとても可愛かった。
以前、「北海道のラーメン」を希望された時は、どうしても躊躇した。飛行機に乗らなくても、都内で電車移動で食べに行くのだとしても、あの映像が頭の奥でちらついた。
他のメニューにしないか。そう提案した僕に、彼女はこう言った。
『ねえ、わたしが死ぬって知らなかったら、どっちを選ぶ?』
確実に来る死に怯えて、その瞬間の希望から目を逸らすことを、今度こそ止める。
それは、僕と彼女が交わした、今生での多分一番大きな約束だった。
あの日を迎えてしまうことを覚悟した上で、彼女が一番楽しかったといった、最初の、素直に一目惚れをして、素直に好きだと言い合い、そして結婚の約束をするというその人生を。かけがえのない二人の時間を、僕たちはときどき怯え、でも心底慈しんだ。そして。
「あなたの目の前で、わたしが死ぬところを今度こそはっきりと見せてしまう」
そう彼女が言った意味を、僕は今日知ることになる。