出会い6
「車で自宅まで送る」という申し出を固辞して(その後の会話で、松嶋(父)さんも、うちの大学の卒業生だということが判明し、大先輩にそのようなことはさせられません! という体育会系のノリを真似して押し切った)、僕は一人暮らしの狭いアパートまで帰り、安っぽいパイプベッドの上に転がり、ようやく一息をついた。
「なんだったんだ、今日……」
仰向けの目に、蛍光灯の光が眩しい。閉じた瞼の上に、右腕を乗せた。マイルドな暗さが、少しだけ今のこの頭の中の混乱を宥めてくれるような気がする。
幸せな夢を見て、それが最悪の結末を迎えて。目が覚めたらすぐに、夢で見たのと同じような帽子と、同じような女性が現れ、あまりに驚いてそこから全力で逃げようとして、結果失敗した。
あんな夢を見なければ、別に帽子に怯える必要も、彼女に近づいてはいけないなんていう謎の脳内の声も生まれなかっただろうに。
「くっそー、教授のワイフ溺愛エピソードさえ聞かなければ」
休講連絡の後に、その話を送ってきたクラスメイトにまで腹が立ってしまう。勝手なものだ。勝手なのはわかっている。だけど。
目の上を覆う腕を外し、ゴロリと横を向く。床に放り出したままのスマホを、手探りで拾い上げる。そこに表示された時間は二十三時二十七分。
ため息をついて、メッセージアプリを開く。
追加されたばかりのうさぎのアイコンを見つめる。
「これとも、あと三十分でお別れか」
このアイコンも、どこかで見たことがある気がする。
ミッフィーやピーターラビットのような有名なキャラクターなら、僕でもわかる。でもこのうさぎは、多分そういう類のものではない。ちょっとだけ片耳の先が垂れた、小さな……多分、ぬいぐるみのマスコットか何かで見たことが。
――あ。
『わー、クレーンゲームって本当に中のもの取れるんだね!』
『すごい、すごい可愛い! もらっていいの? ありがとう!』
そんな声が、聞いた覚えのない台詞が、不意に脳裏に浮かぶ。
なんだ今のは。しかもこの声、松嶋さんじゃないか。
あれか、そのマスコットは、デート中に僕が松嶋さんにとってあげたもので、それを彼女が喜んで大事にしてくれている……という妄想を、僕は瞬時で脳内で作り上げたのか。医者からは「頭は打っていない」と言われたけれど、やっぱりどこか派手にぶつけているんではないだろうか。思考回路がおかしい。というか、思考回路が正直気持ち悪い。自分でも思う。完全にストーカーじみている。これはあの夢から覚めてから聞こえる「もう一つの声」に言われなくてもわかる。もしもこのまま彼女と知り合いのままでいたら、僕は彼女にとって相当気色悪い存在になってしまうのではないか。それなら確かに「彼女から離れなければ」は大正解だ。そう。
――離れなければいけない。
一人になったからか、その「もう一つの声」がより鮮明に聞こえるようになった気がした。
――出会ってはいけない。
出会ってはいけないと言っても、もう出会ってはしまったけれど。
――その出会いは、消さなければならない
出会いを消す? ってどういうことだ? ああ、そういえば。
「家族構成とか、別に変わっていなかったな……」
前回までと。母親が亡くなっているというのも、変わらなかった。
それ以外に、彼女を初め、知っている人間がいきなりいなくなっていたり、知っていた建物がなくなっていたり、それまでの世界の歴史が変わっていたり、ということもなか――――
「……は?」
僕は今、何を考えた?
たった今。脳裏をよぎった「明らかに何かおかしい考え」に、僕は目を見開く。
「前回」?
変わっていない?
何と? いつと比べている?
――だから、消さなければいけない。
――消さなければ。消すんだ。
――――消せ!
「あああああ! もうなしなしなし! やめやめやめ!」
これ以上考えていたら、恐ろしいことになってしまいそうだった。
いいじゃないか、今日は偶然ちょっと好みのタイプの先輩に出会って、ついでにちょっと変わった経験ができた。もうそれでいいじゃないか。
スマホを握りしめたまま、僕はぎゅっと目を瞑った。
――ここは、どこだ。
蒼く暗い、酸素の濃い、けれど光のあまり届かない場所。
不意に足元を取られて転ぶ。見ればそれは、ゴツゴツとした太い木の根の絡み合ったものだった。
僕は履き古したスニーカーに、どこかくたびれたパーカーとデニムをはき、その場所をどうやらしばらく歩き続けているらしい。転んだ足に、疲れのような鈍い痛みが走るのを感じた。
ここは、どこだ。
とりあえず現在位置を探ろうと、デニムのポケットからスマホを取り出そうとして、それが壊れていることに気づく。画面がバキバキに割れて、筐体もところどころ歪んで泥がついている。これは、落としたのか? いや違う。割れた画面に残るこれは、スニーカーの靴底の痕だ。踏んで壊した? 誰が?
慌てて電源を入れようと試みるも、やはり電源は入らない。
ならばと、背負ったリュックを下ろして、中身を確認する。これは授業用に使っているリュックだ、きっとタブレットが入ってるはず。スマホが使えなくてもそれが使えれば、せめてここがどこくらいはわかるのでは。
中を漁る。しかし。
普段よりも荷物の少ないその中に入っていたのは、一缶のビール、睡眠導入剤の小瓶、サバイバルナイフ、そして太めのロープだった。
――思い出したか。
――今度こそ、成功させなければならない。
――彼女を幸せにしたいなら。
――彼女を幸せにしたいから。
「ああ、そうか……」
僕は、ここで命を絶つつもりだったのだ。
――何をどうしても、出会いの運命を変えられないなら。
――彼女をあの死ぬ運命から少しでも遠ざけるために。
――僕が、先に。
そうか、そうだった。
僕は決めたんだ。
彼女との出会い自体を消すことができないなら。
彼女と出会った僕を「先に」消してしまえと。
「……!」
目を覚ました僕は、スマホを握りしめたまま、愕然としていた。
なんなんだ今日の夢見の悪さと来たら。否。
そんな言葉で誤魔化せるようなものではないことを、多分僕は。
知っている。
今のは、僕は自殺場所を探して彷徨っている夢だ。
そして。
これは、かつてあった「事実」だ。
ここではないどこかの世界に、時間軸に、
かつて。
「……っ」
頭が酷く痛む。喉がカラカラだった。
病院の帰りに、多めに買い込んでおいた経口補水液のキャップをひねると、細かく震える手から、少しだけ中身が溢れた。
――もしかして、僕は。
これまで、何回も何回も。
同じことを繰り返している。シチュエーションこそ少しずつ変えながら、それでも変わらない「彼女の死」を迎える、その日を。
――そういうことなのか?
その時、スマホが一度ぶるりと震えた。
「遅くにごめん。明日、少し話せる?」
時計を見る。午前〇時を回っている。
それは、松嶋さんからのメッセージだった。