出会い5
そして僕は今、病院のすぐそばにあるファミリーレストランで、彼女――松嶋さんと対峙している。
いや、正確には「松嶋さんと」だけではない。
「ええと、君が、城谷くん。と」
「あ、はい、そうです、初めまして……」
もう一人の松嶋さん、つまり。
「初めまして。天音の父の松嶋陽介です」
四人がけのボックス席で。僕の前に座る、松嶋父と松嶋娘。
どうしてこうなった。
「病院出て、すぐに親に連絡入れたの。事情を話したら、それはきちんとお詫びするべきだろうって。それで……でも、もしかしてまだ吐き気とかあったりする……? それだったらすぐにお家まで送るよ、車で。あ、車酔いとかする? あっ! お家バレとか嫌だよね、だったらご近所までとか最寄駅までにするし」
「いえ、あの、大丈夫です、吐き気も車酔いも」
このシチュエーションも、目の前の松嶋(娘)さんの、さっきまでよりもかなり早口なテンションもどこかおかしいような気がするが(自宅バレが嫌だったらなんて気を遣われたのは人生で初めてだ)、何より僕は。
「飲み物は、もう飲めるかな? 何がいい?」
いぶし銀の人気俳優のような深みのある声、プラスソフトな物腰でソファを立ち上がりドリンクバーへと向かいかける松嶋(父)さん(この娘にしてこの父ありなビジュアルの良さ)を、僕は慌てて押し留める。いくらなんでも初対面の先輩のお父様に、そんなことをさせられない。というかさせる度胸も度量もない。
「僕取ってきますんで、あの、お二人とも何がいいですか、飲み物」
「いや、病人にそんな、君」
「あのね、わたしが行くから。何がいい?」
これはいつまで経ってもここから何も会話が進まないのでは、と思ったのは僕だけではなかったらしく、松嶋(娘)さんが「お父さんはアイスコーヒーだよね、城谷くんは何にする?」と立ち上がり、いやそれでも僕が、とは言い出しづらく、また「じゃあ僕も一緒に取りに行きます」と立ち上がるには松嶋(父)さんから「娘と一緒にだと? 父の目の前で?」と思われるのではと思わず怯え、同じ針の筵なら、松嶋(父)さんと対面でドリンクが運ばれてくるのを待つ方が幾分マシかもと、「僕もコーヒーで……」と呟いて、大人しくソファに座り直した。
松嶋(娘)さんがドリンクバーの元に向かう後ろ姿に「すみません」と頭を下げた後、目の前にいるのは、なんとも言えない、若造の僕からは全く「読めない」表情をした松嶋(父)さん。
ああ、今僕が座っているのは、完全に針のソファだ……。
「ああ、そうだな……そんなに緊張しないでくれと言いたいところだが」
無理だよな、と松嶋(父)さんが笑ってお冷やを口に含む。
僕はとりあえず松嶋(娘)さんが帰ってきてくれることを待ちつつ「はあ……」と、あやふやな返答をした。
「娘から連絡が来た時はびっくりしたよ。どうもよほど焦っていたのか、全く要領を得ない説明をされてね」
さっきの話し方では、随分と理路整然と親御さんに事情を説明したような雰囲気だったが、どうやらそうではなかったらしい。先輩……。
「とりあえず車で迎えに来いというのはわかったので、慌てて来てみたんだが」
「ええと、なんかすみません……?」
思わず謝りつつ、ん? でもこれは僕が謝ることなのか? とちらりと疑問を感じると、松嶋(父)さんは「いやいや、君が謝るようなことではないよ」と笑った。
「つまり、うちのあのトンチキ娘が、無実の君を泥棒扱いした挙句に熱中症になる原因を作ったと。本当にすまなかったね」
「トン……いや、あの」
あれ、僕がその前に、彼女の帽子を持ったままうっかり走って逃げたことは、目の前のこの方には伝わっていないのだろうかと、ドリンクバーの前にいる松嶋(娘)さんにちらりと目をやれば、彼女はアイス用のプラスチックグラスに、氷を丁寧に入れているところだった。その氷がやたらと透き通ってキラキラと輝いて見えるのはきっと気のせいだ。店内の照明がいい感じに反射しているだけだ。
落ち着こう。手元の水を飲む。
「それで、城谷くんは、うちの娘の彼氏なのかな?」
ぶほっ。
人間、本当に不意を突かれると、その時口に含んでいた液体は全て勢いよく外に排出されます。皆様ご注意ください。
「いやあのすみません! かかりませんでしたか?」
「こちらこそすまない、私は大丈夫だが」
「大丈夫ですかお客様、どうぞこちらを」
素晴らしい迅速さで店員さんがおしぼりを運んできてくれる。それで慌てて机を拭き椅子を拭き、ついでに胸元を拭き、口周りは同じく追加で運ばれてきた紙ナプキンで拭い。
「大変失礼しました……」
新しく運ばれてきたお冷やを改めて飲む。
どこか楽しげな口調で、松嶋(父)さんが続けた。
「いや、娘が中高と女子校だったからか、こういう話とは私は縁遠くてね。ついにこの日が来たかと、父親としてある程度覚悟を決めてここまで来たんだが」
「いやいやあの」
いや待て。ここでお付き合いだなんてとんでもないですと全否定するのは、それはそれで「ウチの娘では不満とでも?」みたいに取られたりするものなんでしょうか!? 誰か教えて、世の中のこういう場面を潜り抜けてきたであろう諸先輩方!!! せんぱ……そうだ、先輩! 松嶋(娘)さん、とりあえず早く戻ってきてください、尻の下の針の痛みにそろそろ耐えられそうにないのですが!?
と思ってちらりとドリンクバーの方を見やれば、何やらコーヒーマシンの前で、店員さんを呼んでいる松嶋(娘)さん。
どうやらコーヒーが切れたらしい。なぜ!? このタイミングで!? ちょっと、何してくれてんですか神様!?
「あの」
なんでこんな誤解が生まれてしまっているのかは皆目分からないが、とりあえず僕は誤解を解くことを試みる。
「いえ、お付き合いどころか、……」
待て待て、この後の言葉も問題だ。こういう場合、松嶋(娘)さんのことはなんて呼ぶのが正解なんだ? 娘さん? お嬢さん? いや、違う、これなら正解か?
「松嶋先輩とお会いしたのは、今日が初めてです……」
「せんぱ……。そうか、君は一年生だったな」
へえ、天音が先輩か、一年経つのは早いもんだと松嶋(父)さんは微苦笑を浮かべた。よし、この呼び方はとりあえず正解だった。
「しかし、娘があんなに舞い上がっているのを見るのは、私は初めてな気がするのだが」
うわわわわ、まだ可愛い娘を持つ父からの「こいつは大切な娘を父から攫う〈彼氏〉とかいう全父親にとっての不埒極まりない輩」的な誤解が解けていないようです。どうしたらいいですか諸先輩方。
「多分、ですが。先輩、罪悪感満載になってしまわれているのではないかと……。先ほど、病院で以前陸上部と演劇部にいたという話を伺いました。上下関係というか、規律みたいなものの厳しそうなイメージありますし」
「ああ、確かに結構しっかりやってた感じではあったかな」
「だからだと思います。僕が後輩だって知った時も『後輩になんてことを』って仰ってましたし。よりによって後輩に迷惑かけたって無茶苦茶責任を感じてくださっているんだと思います」
この数時間で得た数少ない彼女に関する知識から、僕は話を作る。
頼むから、そういうことにしてほしいという願望を込めて。
もし、彼女まで、僕を単なる後輩以上に気にかけているのかもなどという要素が、ちょっとでも生まれてしまったら。僕は。あの声を、彼女を幸せにしたいなら、というあの声を。
――振り切ってしまうかもしれない。
「そうか。すまないね、妙なことを聞いてしまって」
しかし、天音はドリンクを取りに行くだけでどれだけ時間が掛かっているんだ、と自分の後方にあるドリンクバーを見やり、松嶋(父)さんは再び微苦笑を浮かべた。
「あの子は、小さい時に母親を亡くしていてね」
さらりとされた告白に、僕は再び衝撃で口から水を噴きそうになるのを全力で堪える。初めて会ったばかりの人間が、そんな深刻な内輪の話を聞いてしまってよいのだろうかと、含んだ水をこぼさないように無理やり飲み込むと、水の塊にこじ開けられた喉の奥が、抉られるように痛んだ。
「育休制度やらシッターさんやら、私や妻の母や……使える助けは全部使ってなんとか育ててきたんだが。色んな人の手で伸び伸びと育てられすぎたせいなのか、若干あの子は他人との距離感が……なんというか、バグっている、とでもいうんだろうか。気持ち近すぎるような、そういう部分があって。君にも今回は迷惑をかけたね。改めてすまなかった」
目の前で、先輩の父という存在に頭を下げられて、僕はもうどうしていいか分からず、途方に暮れる。
「いやあの、全然すまなく……」
すまなくなんてないですから、頭を上げてください? いや、明らかに目上の人に向かって「頭を上げて」なんて言い方はしていいものなのか? もうだめだ、バイトくらいしか社会経験のない僕に、誰か正しい所作振る舞いを教えてください、今この瞬間に……!
「お待たせしました、ねえ、コーヒー出来立てだって!」
そんな僕たち二人の前に、ニコニコの笑顔で(やっと)戻ってきてくれた松嶋(娘)さんは、軽く首を傾げた。
「ん? お父さん何やってんの?」
「娘の不始末の詫びをしているに決まっているだろうが」
「あ、そうか……」
コーヒーどうぞ、と僕の目の前にグラスをとん、と置いた後、松嶋(娘)さんは、松嶋(父)さんの隣にそそくさと座り。
「本当にごめんなさい」
松嶋父娘二人に頭を下げられて、もう僕は本当に身の置きどころがない。