出会い3
その後、先生と看護師さんに簡単な診察と処置をされ、新たな点滴を追加された僕を、彼女はずっと両の眉を下げた、どこか情けないような心許ないような表情のまま見つめていた。
「ごめんなさい。なんでわたし、あんなこと言っちゃったのか」
そう言って、コメツキバッタか赤べこのように何度も頭を下げて謝る彼女の手元には、僕が持ったまま逃げてしまった麦わら帽子がしっかりと握られていた。
「いや、僕がそれ持ったまま走っちゃったから、あなたが泥棒って言ったのは間違いではないです……それに、こちらこそさっきはお見苦しいところをお見せしてすみ、ま、せ……うっぷ」
吐きすぎて疲れた喉を搾り上げるようにして言った台詞の後に続いた小さなえずきに、彼女はまた慌ててトレイを僕に差し出そうとする。
「あ、大丈夫です、もう出るものないです……」
「あ、そうなんですか、ええと、なら、よかった……」
なんだ、この会話は。
なんとかゲロから話題を変えたい。というか、僕が吐いたことをもう忘れてもらいたい。僕はまだ若干込み上げてくる微かな気持ち悪さを飲み込みつつ、彼女に尋ねた。
「あの、僕、熱中症で倒れたって」
「あ、はいそうです。ごめんなさい、あんな炎天下で追いかけ回したりしたから」
あの状況下ではどっちかというと彼女の方が先に熱中症になりそうだったが、という僕の思いに気づいたのか、「わたし、実は中高と陸上部出身で……人様より炎天下に多分慣れてて、体が……」と小さく言った。
「僕がここに運び込まれてから、ずっと付き添ってくれたんですか?」
「……はい、救急車の方が付き添いますかと聞いてくださって、一緒に載せてもらいました」
あなたを一緒に追いかけてくれた方達には、泥棒はわたしの勘違いでしたと平謝りして許してもらいました、と彼女はますます情けない角度に眉尻を下げた。
付き添ってもらったことに改めてお礼を述べて、僕は言った。
「あの、声……」
「え?」
「声、すごく通りますよね」
あの時、響いた彼女の声。
それを聞いて一気に、夢の中の幸せなシーンに引き戻された。
『一緒にラーメン食べに行こうね、櫂くん』
そしてその後の、悲鳴すら聞こえない最期。
あれは夢だ。そうだ、夢だ。
それなのにどうしてこんなに、彼女の声に、自分の中の何かが引きずり起こされるような気持ちになるのだろう。
「声……ああ、ええと、実は演劇部にもいて……無駄に腹式発声が……」
陸上部プラス演劇部。結構アクティブ派なのかな。中学は園芸部、高校は帰宅部だった僕は、そんなことを思いながら彼女を見ると、ますます小さく申し訳なさげに縮こまってしまっている。ゲロからは話題が逸れたことにはホッとしたが、そのあまりに恐縮した姿に、次にかける言葉に迷う。
「わたし、あの、どうしてもあの時、引き止めなきゃって思って……」
「よっぽど大切な帽子だったんですね。こちらこそすいません、なんかパニックになって、持ったまま走っちゃって」
「いえ、あの、そういうわけでもない……んですけど……なんでなんだろう、自分でもよくわからなくて……」
話しているうちに、どんどん混乱してきたのだろうか、軽く涙目になっている彼女を見て、いや、ゲロから話を逸らしたかったのは事実だが、だからと言って泣かせたいと思ったわけではない、と焦りまくった僕は、そうだ、話題を変える時の鉄板のフレーズがあるじゃないか、と点滴が効き出したのか若干まともに回り始めた脳みそで必死に次の言葉を捻り出した。
「すみません、今って何時ですか?」
「え、時間?」
ああ、ええと、お昼の二時四十五分ですね、と病室にかかる時計を見上げて答えてくれた彼女に、僕は言った。
「あの、うちの大学の学生……ですか」
「あ、はいそうです。すみません、名乗ってなかったです。松嶋天音、文学部二年です」
まさかの先輩だった。
「あ、ご丁寧にすみません……城谷櫂、教育学部一年です」
「え、一年生? うわ、後輩にわたしってばなんてことを」
しまった、今の発言で、彼女の先輩としての罪悪感にまでうっかり火をつけてしまった。違う、そういうことを狙っていたんじゃなくて。
「あの、授業は大丈夫ですか? もう四限始まってますけど」
「え? ああ、大丈夫です、今日はもうわたし、授業終わっているので。ええと、城谷……さんこそ」
「僕も大丈夫です。もともと休講だったんで。あと、さん付けじゃなくていいですよ、後輩ですし」
「え? あ、ええと、じゃあ、城谷、くん……?」
点滴の針を刺されたままの左腕に、ぞわっと鳥肌が立った。
いや、正直に言って、目の前の松嶋「先輩」は、とても可愛いと思う。そんな可愛い先輩女子から、名前を呼ばれてちょっとときめいた、そんな「ぞわっ」かと問われたら、やはりどこかに……いや、どこかに、どころではない。異様なほど強烈な、違和感がある。
あの夢の残滓が、僕の健全な心臓の鼓動の高まりを、全力で邪魔をする。
なんなんだ。
また不自然に途切れてしまった会話を、今度は彼女……松嶋さんが繋ぎ直す。
「そうだ、あの、病院の方がご家族と連絡取りたいみたいで。連絡先と……何か身分を証明するものって持ってませ……、持って、ない? 学生証とか免許証とか」
ベッドのそばに置かれていたリュックを手元に持ってきてもらい、自由のきく右手でその中を探る。教科書、ノート、ペンケース、タオル、タブレット、スマホ、鍵、あれ?
「財布……忘れてる……?」
車の免許は、まだ取得していない。保険証は、多分一人住まいの家のどこかに放り込んである。そして学生証は、財布の中。
「やっべ、病院ってスマホ決済できるのかな」
ぼそっと呟いた僕の言葉に、松嶋さんがあららと口を押さえた。
「あ、あのっ、わたし、病院の方に報告してくるっ!」
え、何を? という顔で彼女を見上げた僕に
「お財布忘れたそうなので、とりあえず私が立て替えるって!」
いやいやいや待って待って待って。
駆け出しそうになった彼女を、なんとか自由な右腕一本で押し留める。
「とりあえず、僕の家族は九州在住なので、すぐこっちに出てこられたりもしないし、僕も死にかけてないし、連絡する必要ないです。僕の身元は、学校に学籍番号を伝えて問い合わせてもらえれば、とりあえず在籍している証明にはなるかと思うんで。住所と電話番号も伝えていきますし、支払いをぶっちぎるなんてことはしないですから。保険証は後日持参しますし」
いくらなんでも、今日会ったばかりの見知らぬ先輩に、そこまでしてもらうわけにはいかない。
でも……と情けない顔を続ける松嶋さんに、なんとか笑って。
「この点滴が終わって、体調が元に戻ったら帰っていいって、さっきお医者さんも仰ってましたから。大丈夫ですよ。その時にちゃんと受付で話します。だから」
だから。
その後に続けようとした言葉を、僕はなぜか躊躇する。
これでさようなら、でいいのだろうか。
救急車を呼んでもらって、さらにここまで付き添ってもらったお礼をしたい? いやでもまた「あなたの熱中症は自分のせいだから」って言い出して、彼女に気を遣わせそうだし。
もしよかったら、この後お茶でもどうですか。これも彼女の罪悪感に付け込む発言になってしまうだろうか。というか、会ったばかりの先輩にチャラチャラと手を出すナンパ野郎みたいに思われてしまうのではなかろうか。いやそもそも、熱中症になった直後に、人間は普通に気になる異性とお茶なんてできるのか? 純粋に体調とか体力的な意味で。実はこれが人生初熱中症なので、よく分からない。
何にせよ。
僕は、このちょっと不思議な出会い方をした、本人もまたちょっと不思議な感じもある彼女と、もう少し話がしてみたかった。
でも、僕の中の、あの夢が。その残滓が。
「ここでさようならが正しいんだ」と、囁き続けている気がする。
どういうことなんだ。
「……城谷、くん?」
不意に黙り込んだ僕を、遠慮がちに覗き込んだ彼女の顔をあまり見ないようにして。
「あの、点滴終わったら僕も家に帰りますんで、松嶋さんも早く帰ったほうが。あんまり帰り遅くなっても申し訳ないですし」
「え、あの」
よし、言い切った。僕は寂しさと一抹の安堵を覚える。
これが正しいはずなんだ。なぜそう思うのかはよくわからないけれど。――でも。
「そ、そんなのダメ!」
僕が絞り出した正しさを、目の前の彼女は綺麗に一刀両断した。
「ダメだよ、本当に、すごい倒れ方だったんだよさっき!? 頭打ってないのが奇跡ぐらいの……! そもそも、ちゃんとご飯とか毎日食べてる?」
いや、最近の酷暑のおかげでろくに食べていなかったおかげで、さっきのゲロ事件でも被害が最小限に抑えられていたんですよ先輩、と思いつつ、僕は「ダメ」発言の真意が分からず呆気に取られて松嶋さんの顔を思わず見上げた。視線がバッチリと合ってしまう。
うわ、やっぱり可愛い……と先輩に対して思ってしまったことは内緒だ。
「あの、そうだ、お詫び! お詫びに、ご飯奢らせて」
「いや、流石に今食欲は……」
「じゃ、じゃあ、体調が良くなったら」
そこで、はっと我に返ったような顔になった彼女は、狼狽えたように視線を彷徨わせて。
「また改めてってことで、どう、かな……?」
最後の方の声は聞き取りきれないほどか細い声だった。
そして、次第に顔が真っ赤になっていく。
「あの、そのえっと、ナンパとかじゃないです」
「え、いや、そんなこと思ってないです」
思わぬ彼女のセリフに、さっきの自分の妄想を見透かされた気がして、僕の頬まで熱くなるのを感じる。
「あの、これ」
差し出されたメッセージアプリのQRコードと彼女の顔を、僕の視線が行き来する。
「え、うわ、彼女の方から連絡先出してくれるとかラッキー!」と思う自分と。
「ダメだ、これを受け取ったらいけない。繋がりを作っちゃいけない」と思う自分と。
でも、僕の右手は、リュックの中から恐る恐る取り出したスマホで、しっかりとそのコードを読み取っていた。
「あ、あのそれじゃ、また。本当に今日はごめんなさい。お大事に」
そう言って、真っ赤な顔のまま病室を飛び出していく彼女を、呆然と見送りつつ。
「いいねえ、青春だねえ」という隣のベッドで寝ていたおじさんからの揶揄う声に、僕は思わず布団の上に突っ伏した。