出会い1
「!」
はっ、と目を覚ます。僕は、乗り慣れた地下鉄車内のシートの片隅で、どうやら熟睡していたらしい。膝から滑り落ちかけた荷物を、慌てて両手で押さえ込んで、
――ひどい、夢を、見た。
首筋に嫌な汗がびっしり浮かんでいた。寒いくらいに効いている冷房が、その汗からどんどん熱を奪う。つたい落ちる生ぬるい雫は不快なことこの上ないが、それでも今まで見ていた夢の恐ろしさに比べたら、可愛いものだ。
僕の知らない僕の奥さんとの幸せな旅行と、その終わり。旅行も、人生も。
まさか予知夢じゃないだろうな。いや、僕にそんな力なんてかけらもないはずだし。
どうせなら、これから出会うのかもしれない僕の未来の奥さんが、夢の中の彼女くらい可愛い子だったら、それはそれで嬉しいのだが。とはいえ、夢の中であれだけ未来の僕が愛おしげに見つめていた彼女の顔は、もうすでに輪郭すらもぼんやりと曖昧だ。まあ夢なんてそんなものか。第一、実際には僕は未婚だし、そもそも彼女どころか好きな子すらいないわけだし。あれか、逆夢ってやつかな。だとしたらどこが逆さまになるんだろう。将来愛する奥さんを持つことはない? これは嫌だな。北海道旅行に行くことはない? 未来の奥さんはラーメンが好きじゃない? 爆死しない? これは本当にそうであって欲しいものだよ。痛いのもグロいのもマジ無理。などと考えるうちに、少しずつ、現実へと感覚が戻ってくる。
膝の上の荷物を、もう一度抱え直す。大きなリュック。中身は大学の教科書と文房具。タブレットにスマホ。今年のあまりの酷暑に買った、人生初日傘。そして汗を拭くための夏の必需品、タオルハンカチ。そんなところか。
今日は、夏休み前最後の授業だったが、学校へ向かう途中、「本日休講」の連絡が入ったのだ。教授の体調不良は表向きの理由で、その後情報通のクラスメイトから「いや、うちのワイフがどうしても、私と一緒に一日でも早く夏のバカンスに出かけたいと急かすものでね」という、愛妻家魂を爆発させたというのが本当のところらしいという追加情報が入った。結構なことだ。もしや休み明けの提出課題を先週の授業内で早々に発表したのは、今日大手を振って休むためだったのか先生よ。一日でも早く夏をバカンスしたいのは、奥さんだけでなく僕たち学生もだ。ありがとう。愛妻家万歳。
……なんてことを、電車の中で考えていたせいで、あんな夢を見たのだろうか。
揺れる電車の中で、もう一度ため息をつく。まだ少し眠気の残る頭を軽く振って、立ち上がる。次の駅が、大学の最寄駅だ。
授業もなくなり、バイトもない。ということで、とりあえずサークル棟にでも向かおうと、地下鉄の改札を抜け、地上へと出た。
地下鉄の入り口側にあるドーナツ店から、強烈な甘い匂いが流れてくる。七月末の太陽の熱で溶けた砂糖が、辺りの空気を丸ごとコーティングしたかのようだ。そんな濃度百パーセントの甘さが地下鉄で冷やされた体を焼いて、一度は収まった汗を再び首筋から滲み出させる。
「あっついな……」
という、至極当たり前な感想しか出てこないくらいのこの暑さは、六月中旬くらいから今年はずっと続いている。夏本番を迎える前に、僕ら人類はこのリハーサルでもうぐったりだ。さあ、出番だよマイ日傘。とリュックの中を探るが。
ない。
思いっきり忘れてきた。多分さっきの地下鉄の中に。
なんだよもう、くっそーあんな夢さえ見なければ、それでリュックを引っ掻き回して汗拭きタオルを出したりなんだりしなければ、傘を車内で取り出す(そして置き忘れる)こともなかったのに。と自分の脳が作った夢に八つ当たりしたところでどうしようもない。
目指すサークル棟までは、徒歩十分以内。歩こう。日差しに脳天を焼かれるこの痛みは、もう自業自得だ。
信号待ちをしていると、ふいに右手から風が強く吹いた。
風圧に眇めた視線の先、どこかから帽子が吹き飛ばされていくのが見える。薄いベージュのようなあれは、麦わら帽子か?
さっきの悪夢が蘇る。夢に出てきたものより、だいぶんオシャレな雰囲気のもののような気はするけれど。
未来の奥さんが飛行機の座席で眠りにつく前に、僕が預かったあの帽子。その後、爆風と共に自分と彼女の体が機外に吹き飛ばされたとき、あの帽子は一体どうなったのだろう。思い出そうにも思い出せないし、そもそも自分が爆死するところなんて思い出したくもない。麦わら帽子なんて、《――母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?》でお馴染みの西条八十の詩かよ。そんな中。
強風と眩しく照りつける日差しに眇めたままの目に、淡いベージュの軌跡がすうっと横切り……横切り……あれ?
再び強い風が吹いた。今度は方向を変えて。正面から。つまり、僕の方に向かって。
一直線に。
ぼすっ。
そんな音とともに、僕の視界は塞がれた。何に? 飛んできたその帽子に。
「あっ、すみません!」
塞がれた視界の向こう、慌てたような女性の声が聞こえる。
あれ?
「あの、ちょっと待っててください!」
どうやら、横断歩道の向こう側から聞こえるこの声は、きっとこの帽子の持ち主のものなのだろう。そして。
あれ?
この声。どこかで。
『麦わら帽子なんて久しぶり。いつぶりだろう』
『え、覚えてないんですか?』
幸せすぎるひとときを彩った、夢の中の彼女の声。その後に訪れたのは、地獄のような別れと死。
え、まさか。まさか、な。
視界を完全に奪い去ってくれている、顔面にすっぽりかぶさる帽子を恐る恐る取れば、やはり道の向こうからこちらに手を振っている、小柄な女性の姿が見えた。
紺色の袖なしシャツワンピースの裾と、肩より少し長いベージュ味のある明るい栗色の髪の先が、先ほどの一陣の風の名残に揺れている。
きれいだな、と思った。その、立ち姿と、こちらを一心に見つめる強い眼差しが。
だけど。
「すぐとりに行きます、すみません!」
いやいやいやいや。
嘘だろ。
『やっぱり子供っぽいかな? 帽子』
そして、上目遣いで見上げる「奥さん」の顔がふいにはっきりと脳内に蘇る。
目の前の、こちらを見つめる初対面の彼女と、完全に一致。
そう、僕の脳みそが告げるのを感じた。
嘘だろ。
嘘だ。
その言葉だけがしばらく脳をくるくると高速で空回りする。
彼女って実在の人物だったのか?
ということは、あれって。
逆夢じゃなくて、正夢?
え、つまり? この後、彼女と僕が出会えば?
――二人して空中爆発デッドエンド確定?
「い、いや、いやいやいやいや」
太陽に焼かれた頭蓋骨の中で、パニックが暴走する。
さすがに僕はまだ死にたくないです。十八歳、青春はこれからです。ねえ、神様、そうですよね、神様!? ……そんなふうに。
一人、頭の中身が勝手に暴走した結果、僕は。
逃げた。全力疾走で。
背後から「ええええええ!?」という彼女の声が聞こえてくる。いやもうごめん。なんかごめん。僕も突然の逃走劇を始めた自分にとんでもなく驚いている。驚きながらも、走り出した足は止まらない。三十六計逃げるに如かず。これも何かの授業で出てきた言葉が頭の中でぐるぐるする。教授、授業内容をあなたの生徒は意外と忘れていませんでしたと、今頃ワイフとのバカンスに浮かれているであろう御仁に脳内で報告しつつ。
「いやちょっと待って、ねえってば!」
いけない、彼女の帽子を手に持ったままだった。どこかに置かなければ。
走りながら、たまに行く学生向け洋食屋の前のつつじの植え込み、割と綺麗に刈り込まれているやつ、の上に、帽子を飛ばされないように、うまいこと葉っぱの隙間にひっかけるようにしてそっと置く。
さよなら、見知らぬ僕の奥さん。僕と関わりのないところで、どうか幸せな人生を。この時の僕は完全に先ほどの「彼女と自分が死ぬ」瞬間の映像に囚われきっていたと思う。バラバラになる肉体。空から散らばって落ちていく自分の意識。
僕がああなるのは絶対嫌だ。ごめん被る。
そして、チラリと振り返れば。
「ちょっ……まっ……」
サンダル履きで全力疾走はさすがに辛かったのか、もう多分追いつかれないであろう位置まで引き離された彼女は、両膝に手をついて、呼吸を整えている。
その体が、少しふらついているように見えて、その瞬間に僕は今この世界を覆い尽くしているこの灼熱の暑さを思い出し、青ざめた。
まずい。
こんな暑く日陰もない道を、日傘もささず帽子も被っていない見知らぬ女の子を全力疾走させてしまった。
熱中症にでもなってしまったらどうしよう。
ある程度距離ができたことで、脳内のパニックも少し落ち着いたのか、逃げなければという意識より、大変なことをしてしまったという罪悪感が芽吹き始める。
何をやっているんだ、僕は。
そうだよ、逃げる必要なんかどこにもないじゃないか。帽子を渡して、それでさようなら、でなんの問題もない。彼女の声が夢の中の「奥さん」のそれに似ていたからってそれがなんだ。あれは夢だ。ただの夢だ。そんなものに怯えて、リアルの、全く知らない他所様の体を危険に晒すなんて。
いま、つつじの上に置いた帽子を、もう一度そっと取り上げる。そして、今にも倒れそうな彼女の方に向かって、一歩を踏み出した瞬間。
ギリっと、音を立てそうな勢いで、彼女が顔を上げる。その妙に鋭い眼光がこれだけ離れた距離にいる僕の全身を貫いた。
そしてゆっくりと、彼女が右腕を伸ばし、こちらへと向ける。
彼女が倒れそうなことに気づいた通りすがりの男――多分うちの大学の生徒――が彼女に「大丈夫ですか」と声をかけた――その瞬間。
「その人、捕まえてください! 泥棒です!!!」
僕をしっかりと指差し、彼女は声高らかにそう叫んだ。
そこから先のことは、もうあまり思い出したくない。
こちらを睨みつける彼女から「泥棒認定」を受けた僕は、ふらふらの彼女を手助けしようとする善意の通行人たちによって、炎天下の大通りを引き続き追いかけられた挙句、見事に熱中症で倒れて、病院行きと相成ったのだった。