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 今、彼女が眠っている。

 僕の目の前で。

 真っ白い花に埋もれて。



 それは、僕が二十三歳、彼女が二十四歳の春のことだった。



「まだ若いのに」

「お気の毒に」

「進行が早かったのね」



 そんな言葉がどこか遠くでくるくると、身勝手に吹き散らかされている。



 どうして。どうして。

 どういうことだ。これは。



「櫂くん」


 振り返れば、出会ったあの日と同じ、紺色のシャツワンピースを着て麦わら帽子を被った〈彼女〉がそこにいた。

 喪服を着た僕は、目の前の光景の意味がわからず、〈彼女〉に話しかける。


「ねえ、天音ちゃん、これ、どういうこと……? なんの冗談」

「ね、冗談みたいだよね」


 でもね。これが本当のことだったの。

 そう言って〈彼女〉は、自分の眠る棺の中を、そっと覗き込んだ。

 そして顔を上げる。


「ごめんね。わたしは、最後にあなたに嘘をついた」


 おそらく、今僕と話している〈彼女〉は、僕以外の目には映っていなし、その声も、誰にも聞こえていない。


「櫂くん、何か言ったかい?」


 僕の隣で、彼女の父――後数ヶ月で僕の義父にもなる予定だった

 その声に振り向けば、彼は、もう棺の中の娘の姿をじっと見つめていて。

 その目は、棺の側に立つ、もう一人の〈彼女〉を見ることはなく。


「普段通り、寝坊しているようにしか見えないのにな」


 聞き慣れたはずのその低い声は、別人のように掠れていた。

 その間も、次々と弔問客が棺の中に、そっと白い花を入れていく。その彼らの体が、棺の側に立つ〈彼女〉の体の中を、なんの抵抗もなくするりと通り抜けていく。まるで、〈彼女〉が陽炎かホログラムでもあるかのように。

 時が止まったようだ。静かで。啜り泣きの音だけが空間にしらじらと満ちて。

 どういうことなのか、わからない。

 わからない、けれど。

 白い花は粛々と降り注ぐ。

 横たわる自分の体が、花で覆い尽くされていくのをじっと見つめながら、〈彼女〉が口を開く。


「わたしの死ぬ日はね、あなたの記憶にある飛行機事故の日じゃない。わたしね、わたし……。本当はもっと早く、あなたの前から姿を消していたんだよ」


 こうやって、とワンピース姿の彼女は、棺の中の自分をもう一度見る。


「あの飛行機の中でした会話、覚えてる?」

「会話……」


 ラーメン行脚したい、と言った彼女に、「こんなに元気になってよかった」と確か僕は安堵して――そうだ、彼女は割と長い間、体調を崩して、入院を――。


「ねえ、」


 目の前の〈彼女〉は静かに続ける。




 あなたの「もう一度」が失敗したから、私は何度も死に続けたわけじゃない。

 あの時点ではもう、わたしはいない人間だったの

 そして、わたしが死んだのは、病気のせい。あなたのせいでは全くないの。

 あなたに、わたしを病気にする力なんてないでしょう? だからそういうこと。

 あなたが本当に願ったのは、この、今ここで眠っている「わたし」の生き返り。

 わたしが本当に死んだ日。こうして白い花に囲まれて眠るわたしを見て、あなたは祈ったの。

 でも、わたしは生き返らなかった。当たり前だよね、一度死んだ人間は、二度と生き返ることはない。だけど。その代わり。

〈わたし〉は。今、あなたの目にだけ映っている、この〈わたし〉は。

 あなたの中でだけ、生き返った。

 あなたが記憶している「わたしが死ぬ事故の日」まで、あなたと一緒にいたのは、「生きていたわたし」じゃないの。

 ううん、それは少し語弊があるかもしれない。〈わたし〉ではあるけれど、それはあなたの想いがこの世界に生み出した、幻。

 だから。〈わたし〉は、なんとかして。いつか。

 本当のわたしが死んだこの日から、あなたを解放してあげたかった。




 そんなことを。

 そんなことを言われたって。

 僕は。僕は一体。

 それならば、どうしたら。

 どうしたら――?




「ねえ、天音ちゃん」

「ん、なあに?」


 いつもと変わらない、聞き慣れた優しい声が、耳朶を震わせる。


「その格好、まだ寒いんじゃない? 夏にはまだ早いよ」


 やっと口に出せた言葉は、そんなどうでもいいような内容で。


「だって」


 それを聞いた〈彼女〉が、ちょっとだけ照れたように笑う。


「あなたが一目惚れしてくれた時の姿だから。今度こそしっかり目に焼き付けて欲しかったの」

「焼き付けて欲しいって、これ以上焼き付けられるところなんかないよ……」


 焼き付けられてなかった人生なんて、この繰り返しの中で一度もなかった。


「それにね」


 僕は続ける。


「毎秒毎秒更新するんだよ。知らなかった?」

「……何が?」

「最初の出会いから、ずっとずっと。好きが」


 愛しているという気持ちが。

 どこまでもどこまでも、空いっぱいに広がるみたいに。高い空を突き抜けるみたいに。


「だから、天音ちゃんのその姿も、白い花に囲まれた今の天音ちゃんの姿も。変わらないよ、変わらないんだ。ただ、」 


 どんな姿でもいい。

 僕のそばからいなくなってしまわないで。

 そう思っただけなんだ。

 頬を、涙が伝う。

 それに気づいた〈彼女〉が、僕へそっと手を伸ばし、頬に触れる。

 確かにその温かい指の感触が、感じられるのに。


「わたしを愛してくれるあなたのこと、もちろん好き。でもね」


〈彼女〉の声は、優しくて、包み込んでくれるようで。


「でもね、わたしと同じくらい、あなたのことを愛してほしい」


 これが、最後のお願いだよ。

 彼女はそう言って、僕の頬を両手でそっと包み直した。


「わたしの愛したあなたを蔑ろにするあなたは、嫌いだよ。わたしに、あなたを嫌いにさせないで。――あなたを愛したまま、逝かせて欲しい」


 誰よりも大好きな人の、最後のお願い。

 今度こそ、間違えずに、叶えなくては。

 それでも僕は、素直に頷くことができなくて。

 この止まらない涙だけでも、それを拭おうとしてくれる〈彼女〉の指先に染み込んで、永遠に一緒にいられればいい。そう思った。


「嬉しかった、あなたがここまでしてわたしと一緒にいたいと思ってくれたこと。でも、それを嬉しいと思っちゃいけないと思った。だから」


 これはチャンスだったの。

 あなたがもう一度、私との出会いの場面に戻るなら。

 あなたに、わたしがすでに死んでいることを、あなたの目の中に生きる〈わたし〉を消して、あなたにもう一度自分の人生を歩んでもらうことを、〈わたし〉はうまく誘導できるかもしれない。そう思ったの。

〈彼女〉の目からも、涙がこぼれ落ちた。

 思わず、手を伸ばす。けれど、僕の指を、その涙は濡らすことがなかった。


「ねえ、死んだものを生き返らせることはできない。それでいいの。それでいいんだよ」


 あなたと一緒に生きることが、できなくてごめんね。

 大好きだよ。

 ――愛してる。







「櫂くん、そろそろ棺を閉じるよ。それは入れなくていいのかい?」


 傍から、遠慮がちな彼女の父の声が聞こえた。

 ふっ、と我に返る。

 辺りを見回す。〈彼女〉の姿は、どこにもない。

 そして、僕の手に残されていたのは、この最後の「やり直し」の人生で、彼女に取ってあげたクレーンゲームのうさぎの小さなぬいぐるみで。

 彼女が死ぬ直前に、病院のベッドで僕に手渡してくれたそれには、出会った日の彼女のものとよく似た、小さな麦わら帽子を被せられていた。

 僕が、幻の最後の日まで、ずっと〈彼女〉としてともに過ごすことになるはずだったそれを、眠る彼女の手に返して。

 棺が閉められるその瞬間まで、彼女と〈彼女〉の姿を目に焼き付ける。




 思い出す。

 最初の「あの日」。

 一人で飛行機に乗った僕に向けられた「可愛らしい奥さんですね」という誰かの声は、労りに満ちていた。

 



 天音ちゃん、今まで本当にごめんね。

 僕も大好きだよ。愛してる。

 ずっと。永遠に。




 でも。


 本当に、もう二度と、繰り返せないのだろうか。

 天音ちゃんと僕の間を隔てる、銀色の扉を見つめて僕は思う。

 僕自身を大事にするってなんだろう。

 もう何もわからない。

「わたしの愛したあなたを蔑ろにするあなたは、嫌いだよ」というのは、「僕が勝手に作り出した〈天音ちゃんという素敵な妄想〉」が、僕に告げてくれた言葉だ。

 本当の天音ちゃんが、今、まさに僕の目の前で体を失っている最中の天音ちゃんが、僕がそばに居ないことを選ぶなんて。そっちの方が、ずっと。ずっと。


 天音ちゃん。

 僕にとって都合の良い、妄想の天音ちゃん。

 僕の本心を、みくびってもらっちゃ困るんだ。


 天音ちゃん。

 少しだけ待っていて。

 すぐにそばに行く。必ず。必ず。

 カバンに忍ばせてきた十徳ナイフをロザリオがわりにして、僕は君のそばに行く。




〈了〉

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