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始まり


「お土産、ちょっと買いすぎたかな」


 夏も終わり……というよりも、暦としては秋のはじめ、北海道からの空の復路便。

 座席上のボックスに、北海道限定何々と銘打たれたもの(しかもほぼ食べ物)ばかりでぱんぱんに膨らみ切った大きな紙袋をを苦労して押し込んでいる僕を、目の前の座席からつやつやぷりぷりとした笑顔で見上げながら、彼女が言った。


「この帽子とか?」


 スーツケースに入れたら型崩れしてしまいそうだからと、紙袋のいちばん上にポンと乗せてあった麦わら帽子。大人のおしゃれなストローハットというよりは、本当に昔ながらの素朴な味わいのものに近いそれを、目の前のさらさらの髪が覆う小さな頭に被せれば、彼女はくすぐったそうな笑い声を上げた。

 荷物を詰め終わり、彼女の隣に座った僕に彼女は言った。


「麦わら帽子なんて久しぶり。いつぶりだろう」

「いつぶり?」

「え、覚えてないんですか?」

「覚えてないと思いますか?」

「思いません。ねえ(かい)くん、この会話さ」


 恥ずかしいね、と耳と頬の頭を赤く染めて、彼女は言った。頭に乗った帽子をぎゅっと深く被り直して、僕の方をちらりと見る。


「やっぱり子供っぽいかな? 帽子」

「大人っぽくはないかもだけど、ちゃんと可愛いから安心してください」

「よし」

「よしってなんだよ」

「ん? ちゃんとわたしの顔を見て『可愛い』って言えるようになったから。しめしめ的な?」

「しめしめかい」

「うん」


 本当に、側で聞いていたらなんというアホな会話というか、バカップル丸出しというか、僕たちの前後の席の人たちに聞こえていたら流石に恥ずかしいです、すみませんというか。

 やっと、休みが取れたのだ。僕と彼女の休みが。揃って。

 結婚して三年。新婚当時、彼女が体調を崩して行けずに終わってしまった新婚旅行のリベンジ……にもならないようなささやかな、でも久しぶりの、二人だけの移動時間。

 僕が北海道出張となり、そのまま溜まっていた有給休暇をまとめてとって良いことになった。会社からのささやかな慰労だと、上司は笑っていたっけ。

 北海道でバターたっぷりのラーメンを食べたいと常々言っていた、彼女のリクエストをとりあえず叶えることができて、僕はちょっとほっとしている。


「次は、博多でラーメン食べよう、櫂くん」

「ラーメンで全国行脚したいの?」

「うん! ラーメンはさ、やっぱ大事だよ。人生において」

「大きく出たね、人生とは」


 僕もラーメンは大好きだ。ただ「人生において大事だ」と、目の前の彼女ほど、たっぷりのラーメンのおかげでいつもよりも相当につやつやが補給された笑顔で言い切れるかと問われると、そこまでの愛はない……かもしれない。


「人生だよう。だってずっと食べられなかったからさ。普通に食べられるのが本当に嬉しいの」


 ちょっとした風邪から肺炎を拗らせて、しばらく入院する羽目になっていた彼女のことだ。退院してから幾分健康的になってきたとはいえ、まだまだ細い腕をさすりながらそんなことを言うものだから、僕は心配になって「寒い?」と羽織っていた薄手のカーディガンを彼女にかけようとするも「暑いからやだ」とあっさりお断りされた。うん、寒くないならいいんだ。こんな薄着でも、寒いと思わないくらいに健康になった君を、ラーメン行脚しようと思えるくらいに食欲の戻った君を見ることができて嬉しい。僕の好意を軽く無碍にした後、ちょっと悪かったかな……と言う表情で僕の顔を覗き込んだ彼女は、自分に向けられる僕の締まりのない笑みを見て、「どうしよう、櫂くんのMっ気が炸裂している……」と困ったようにぼそっとつぶやいた。


「まあ、櫂くんのMっぷりは今に始まったことじゃないもんね」

「うん? なんか言った?」

「うん? なにも言ってないよ? ていうか、流石にちょっと欲張って食べすぎちゃったかも」


 くわあ……っと堪えきれなかったようなあくびを小さく漏らした彼女に、僕は思わず笑う。


「飛行機乗る直前に『追いラーメン』とかするからだよ」

「だって、麺といいスープといい具といい極上すぎたんだもん。もう帰る前までに嫌になるほど味わい尽くしてやろうと思って」

「そんなに気に入ったならまた来ようね」

「ん、でもその前に次は博多……」

「はいはい」


 美味しかった追いラーメンの消化タイムに突入したのか、一気に眠気に襲われているらしき彼女に、今度はいつでも膝掛けを拒絶されることなくかけられるようにスタンバイする。彼女が被りっぱなしだった帽子をそっと脱がせて預かり、その下から現れたやわらかいベージュ色の髪を軽く撫でた。

 幸せだ。

 こんな、ものすごく普通の会話が、いつでもできるようになったことが。マスク越しでなく、医療手袋越しでなく、彼女にこうして触れられることが。

 僕は体の奥底から、サイダーの泡のようなしゅわしゅわとしたくすぐったい幸せが沸き起こってくるのを感じて――。




 そうだ、間違いなく幸せだった。――この瞬間までは。




 その次に記憶にあるのは、天井から降りてくるたくさんの救命マスク。

 驚きと恐怖で顔色が真っ白になった彼女の口元に、それを当てるのを手伝おうとしたとき、

 大きな音と、異様なほどの爆風が、

 彼女を、外へ、機体の、外へ、外へ、外へ――

 ぅぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!

 喉の奥から声にならない何かを叫び散らして、僕は、彼女へ、手を――――


 一瞬だった。

 バラバラになった機体から、彼女とは真逆の方向へ僕は吹き飛ばされて。

 もう、その瞬間から感覚など、この体のどこにもない。そもそも体が、多分、もう、ない。

 ただ視界が一面、青かった。透き通る水色が広がる。これは空の色だろうか。もし空の色ならば、まだ僕の目だけは、生きているということだろうか。

 こんなふうに。

 少しずつ積み重ねてきた、愛おしいささやかな日常が、あっという間に踏み躙られるくらいなら。

 彼女に、こんな終わりを迎えさせてしまうなら。

 僕が彼女を一緒にいた意味なんて、価値なんて。

 一体どこにあったというのだろう。


 手を伸ばしたい。

 そう思っても、伸ばすための僕の手は、掴むための彼女の手は、もうどこにもない。存在しない。ちぎれて、焼けこげて、霧散した。


 ――神様。

 こんなことになるのなら。

 いっそのこと、あの日に僕を。

 彼女と出会ったあの日に。

 その出会いを「失くす」ために。

 彼女の人生から僕を消すために。

 そして彼女を、こんな運命に巻き込まないために。











 ――戻してください。



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