Hello, my friend
ユーミンの名曲とは関係ありません。タイトルだけお借りしました。
長いトンネルを抜けると、そこには山々に囲まれた田園風景が広がっていた。
無人駅の改札口を通り抜け、廃車寸前の古いバスに揺られること五時間。やっとのことでその学校にたどり着いた。
水野愛美は、校舎を見ながら深い溜息をついた。
建てられて百年は経っているだろうその木造に校舎は、そのままでもホラー映画の撮影ができるような古びた建物だった。
中学教師の愛美は、新しい赴任先が地方の廃校寸前の学校だと告げられ、憂鬱な気持ちになったが、ある理由から、泣く泣く引き受けたのだ。
愛美は、ギシギシと軋む廊下を歩きながら、職員室に行くと、そこに一人の老人が待っていた。彼は、町田と名乗り、自分がこの中学校の校長をしていると自己紹介をした。
「東京から遠いところご苦労様でした」
町田は恵比寿様のような優しい笑顔で笑い「こんな田舎に申し訳ないと思っとります」
愛美もこんなところに来たくはなかったが、教師の仕事もこれを最後にするつもりだったので、半分は諦め、半分は開き直り、残りはヤケクソという気持ちだった。
「都の教育委員会から私のことを何か聞いていますか?」
愛美は、廊下を歩きながら町田に訊いた。町田は、その件については知らされていると言った。それを聞いた愛美も安心した。なぜこんな場所に赴任させられたのかその理由を、自分の口から説明するのは少々辛いものがあったのだ。
それは、東京のある中学校での出来事だった。
愛美の受け持つクラスで、イジメの問題が起こり、イジメる側の男女八人の内、中心的な役割をしていた男子生徒を愛美はつきとめた。
愛美は、その男子生徒の両親と後日ゆっくりと話すつもりだった。しかし、若さゆえの教育熱心さから、その男子生徒の態度に愛美はカッとなり、勢い余って彼の頬を、クラス全員の前で平手で叩いてしまったのだ。
しかし、ただそれだけならば、よくある教師の暴力事件、新聞の記事にもならなかったろう。だが、こともあろうかその男子生徒は、頬を叩かれたショックのあまり、その場で四階の校舎の窓から飛び降りてしまったのだ。
愛美は、コンクリートの歩道に大の字に倒れた男子生徒を見下ろし、悲鳴を上げた。
そして、飛び降りたその男子生徒は翌日亡くなり、学校側と教育委員会は愛美に地方への転任を命じ、亡くなった男子生徒の両親には担任教師を懲戒解雇したと告げ、この件は幕引きとなったのだ。
「先生には三年生を受け持っていただきたいのです」町田が言った。
「ということは、来年は受験ですか?」
愛美は頭が痛かった。都会だろうと田舎だろうと受験は教師にとっては責任重大だ。最後の教師生活をのんびり過ごそうかと思っていた愛美は、少し拍子抜けした。
愛美は、生徒は何名ですかと訊いた。町田は、人差し指を一本だけ立てた。
「10人ですか?」と愛美。
「いいえ」と町田。
「まさか100人ッ!」
「まさか、一人ですよ」
「一人‥‥受験する三年生はたった一人ですか」
「三年生どころか、この学校の全校生徒が、その三年生ひとりだけなんです」
愛美は町田の言葉を聞き、思わず足を止めた。
教室に行くと、一人の男子生徒が待っていた。生徒の名前は森山孔太といった。
一緒にいた町田は、それじゃあヨロシクと言い残してとっとと帰ってしまった。
愛美と森山孔太は二人きりで広い教室に残され、しばらく呆然と見つめ合ってしまった。
「こ、今度、新しく来た担任の水野です、よろしくね」
愛美はそう言いながら、黒板にチョークで自分の名前を書こうとした。その時、森山孔太が言った。
「先生って独身ですか? 恋人いるんですか?」
書こうとしていたチョークが、ポキンッと折れた。
「それ、なにか授業と関係ある?」
「別に関係は無いけど、気になるし」と孔太が言った。
「二十八歳、独身よ」愛美が言った。
「結婚の予定なんかは?」
「だからそれは森山君と関係あるの?」
「関係は無いけど、なんていうか‥‥」
「なんていうか?」
「先生って‥‥すごくキレイだから」
孔太が、窓の外を見ながら恥ずかしそうに言った。
「それじゃ現国の授業を始めるわね」
教壇に立った愛美は、教科書を開いて言った。教室には生徒は孔太以外誰もいない。教師一人に生徒は森山孔太たった一人だった。まるで放課後の居残り勉強をしているようだったが、こんな日々が毎日続いていた。
「じゃあ誰かに読んでもらおうかしら」愛美は教室内を見回した「誰か読んでくれる人はいる?」
森山孔太が、自分以外誰もいないガランとして教室内を見回した。
「誰かいない?」
愛美は、教室全体を見回して言った。
「誰かって‥‥先生‥‥」
孔太がポカンとした表情で愛美を見ている。
「誰かいないの?」
「誰かったって、ここには僕しかいませんよ」
「いいのよ。少しでも生徒がいっぱいいる雰囲気をだしたいの」
孔太は肩をすくめ、仕方なくゆっくりと手を上げた。
「はい、じゃ森山君に読んでもらいわ」
「バカバカしい‥‥」孔太は、渋々立ち上がった。
「なんか言ったッ!」
「い、いえ、別に」
愛美と孔太は、月日が経つにつれ、まるで年の離れた姉と弟のように不思議と慣れ親しんだ。二人だけの授業は、毎日が滑稽であり、愉快でもあった。
四月が終わり、五月になると、二人は河原でバーベキューをした。少しでも孔太との距離を近づけたいと思っての発案だった。
「先生、これも何かの授業ですか?」
フランクフルトを焼きながら孔太が言った。
「決まってるじゃないッ! 家庭科の授業よ」
愛美がカボチャを切りながら言った。
「家庭科って、入試と関係ないでしょッ!」
「バカね、これからの男は料理くらいできないとダメよ。だいいち、料理のできる男って、女の子にモテるわよ」
それを聞いた孔太は、呆れた顔で愛美を見た。
六月は雨が続いたので遅れた学力の挽回をした。
東京の中学でも、三年生を担任したことが一度だけあったが、愛美が考えているよりも、孔太の学力は少し遅れているような気がした。しかし、それは仕方がないと思った。塾へ通うのが当たり前、日々、受験地獄の都内と、こんなのどかな田舎町で同じはずはない。
七月になると、村の七夕祭りが行われたので、二人で行って金魚すくいや昔懐かしい射的をやった。
孔太が、お祭りへ来るのも何かの授業ですか? と言った。
「バカね、授業のわけないでしょ。今日は単なる息抜きよ」浴衣姿の愛美が言った「先月はずいぶんと勉強ガンバったから、そのご褒美って感じかな」
褒められた孔太は、照れくさそうに笑った。
八月になると、二人は、山の中の小川に泳ぎに行った。森の中にさらさらと流れる小川。膝までの深さしかなかったが、たまにある深みを見つけ、そこで泳いだ。木漏れ日と森の中を吹き抜ける風が気持ち良かった。
「先生、これは何の授業ですか? それとも今日も息抜きですか?」
孔太が、シャツを脱ぎ、水泳パンツになりながら訊いた。
「なに言ってるの、授業に決まってるじゃないッ! 体育の水泳の授業よ」
愛美は、木の陰に行って着ていたワンピースを脱ぎ、ブラジョーと下着姿になった。孔太に背中を向けたまま、ブラジョーとショーツを脱ぐと持ってきたワンピースの水着を手早く身に着けた。
二人は、さらさら流れる川の深みに飛び込んだ。
やがて二人は、さんざん水遊びをすると、木々の木漏れ日の中、濡れた岩場に並んで座った。
愛美が何気に孔太の穿いている水泳パンツを見ると、前の部分が盛り上がり、膨らんでいるのが分かった。孔太は、恥ずかしそうに下を向いていた。
「バーカ」
愛美はフフフッと笑い、冗談交じりに、握り拳で孔太の頭を叩いた。
秋になり、受験を意識し始めた二人は、猛勉強。
「違うわよ、何度言ったらわかるの、二つは同位角だから三角形の面積は同じってことになるの。こういうの受験に出るわよ」
愛美は、獲物を見つけたサメのように孔太の机の周りをゆっくりと回り、時に厳しく、時に優しく、根気よく熱心に教えた。孔太の志望校は工業高校なので、なんとしてもそこへ合格させなければならないと思った。
やがて年が明け、二月の受験日。愛美はレンタカーを借りて山道を二時間かけて走り、孔太を受験会場の高校まで連れて行った。
「いい、やるべきことはすべてやったんだから、自信をもって受験してね」
校門前で車を降りる時、愛美は孔太に言った。そして、ずっと不安そうな孔太を見ると、彼を運転席から呼び止め、
「ちょっと待って、おまじない」
と言いながら、愛美は、孔太のほっぺたに、チュッと軽いキスをした。
受験が終わり、合格発表の日。愛美の心配もどこへやら、孔太は希望していた工業高校へ合格。二人だけのお祝いを地元のうどん屋で行った。
「はい、これはアタシからの合格祝いよ」
愛美は、小さな箱をテーブルに出し、孔太に渡した。それはカシオのGショックだった。
卒業式は本当に短い時間だった。卒業生は孔太一人きりなのでそれも当たり前だ。
校長の町田が卒業証書を読み、担任の愛美が記念品を孔太に渡した。そして孔太両親からは本当にお世話になりましたと深々と頭を下げられた。
卒業式も終わろうかとしていた時だった。なんと、とんでもないサプライズが用意されていたのだ。愛美もそれには度肝を抜かれた。
なんと孔太が教壇に立ち、今度は愛美に当てた卒業証書を読み上げたのだ。孔太は、愛美が今日を最後に教師を退職するというのを知っていたのだ。
「卒業証書、水野愛美殿」
孔太が愛美に証書を両手で差し出し、愛美はそれを両手で受け取った。
卒業証書に愛美の眼からこぼれ落ちた涙が、ポトッと音を立てた。しかし、証書にはすでに涙の跡がついていた。それは、孔太の眼からこぼれ落ちた涙の跡だった。
THE END
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。少々、荒唐無稽な小説ではありますがお許しください。