起きられないモーニングコール、眠れない夜カフェ。
ある日突然、夜に良く眠れなくなってしまった。
浅くまどろむ程度ならなんとか出来るけど、深い熟睡が出来ないと日常生活での不都合が多い。
睡眠時間が短いと集中力もまるで続かないし、日々眠たくて堪らない。
入社して今年で二年目の会社員な私の生産性は、目に見えてガタ落ちした。
何かの病気なのかと思って病院に行っても、医師は特に数値には異常もないし良くわからないと首を傾げ、念の為にと処方された良く効くはずの睡眠薬は効かない。
前後不覚になるまでお酒を飲めば、まるで気絶するようには眠れた。
けど、これでは……単なる焼け石に水でしかない。
眠れなくて死んでしまう前に、酔いにくい体質の私の胃袋が、強いアルコール成分に侵されて悲鳴をあげて死んじゃう。
そして、はっと気がついたのだ……目を瞑って真っ暗な視界の中に居ても、どこからか届くかすかな光が、どうしても気になってしまっていることを。
もしかしたら、私は光に過敏な体質になってしまったのかもしれない。
花粉症だってある日突然アレルギー体質になってしまうらしいし、私は花粉がであるところが光になってしまったということだろうか。
背に腹は替えられないと高いお金を出して値の張る遮光カーテンを部屋のあらゆる所に掛けても、それでもわずかに漏れている光がどうしても気になってしまう。
二週間くらいあまりに眠れな過ぎて、思考力や判断力が普段より格段に落ちている私はふと思った。
待って。
密閉度の高い棺桶って……光は、漏れないよね……だって、必要ないもんね?
四方壁に囲まれた狭い箱の中でなら、もしかしたら私は眠れるのかもしれない。
藁にも縋る思いだった私は、持っていたスマホで即座に洋式の棺桶を注文した。
結構な大物なのに、翌日すぐに部屋に届いた。いくらこれが必要になるのが予測出来ないとは言え、ネットショッピングは本当に便利過ぎると思う。
助かったし丁寧な対応も素晴らしい運送会社で働く人の労働環境については、またいつか落ち着いたら考えてみたい。
人間は限界まで眠れないと、自分以外のことなんて一ミリたりとも考えられなくなるのだ。今回産まれて初めて知った。
試しに蓋を閉めて寝てみるかと思ったら、私は暗闇の中で横になった一瞬で眠りに落ちたらしい。
気がつけば酸欠になりそうで、慌てて起きて蓋を開け大きく何度か呼吸した。
ネットで検索して調べてみると棺桶の中の空気は、人一人だと約八時間は持つらしい。いや、待って。もしかして、それ以上になると酸欠になるの?
いやいや、怖いってば。
そんなこんなで、突然始まった良くわからない光過敏症は治っていない。
それでも私はどうにかこうにか工夫して、光が漏れない空気穴だけを開けた棺桶の中で、日々安心して眠れるようになったのだった。
◇◆◇
あっつう……何なの。
なんだか今日はやけに、ベッド代わりの棺桶の中が暑い。
もう秋も過ぎて冬が近付く季節だというのに、信じられない温度。
お酒を飲み過ぎてガンガンして痛む頭を片手で抑えながら、自分が今ひどく喉が渇いていることに気がついた。
それに……何故か、やたらとお腹がすいている。お風呂に入ってないし着替えても居ないせいか、やたらと何か美味しそうな匂いが鼻をくすぐるし。
……あれ?
昨日、そういえば会社の新人歓迎会があって……その後の記憶が、どうしても思い出せない。
だけど、こうして棺桶の中に居るということは私……記憶はないけど、自分の部屋まで無事に帰って来られたみたい。
帰巣本能の強い私はとても偉い。けど、記憶がなくなるほど飲んだ飲み会中、何かやらかしてないか心配になった。
誰かからの呆れた連絡が来ていないか調べようにも、便利なスマホは棺桶の中には絶対に持ち込めない。
スマホの画面は真っ暗で消えているように見えて、常にかすかに光っているからだ。
暑苦しい空気の中で蓋を開けたところで、私は驚きに動きを止めた。
……え。ここどこなの? まじまじと見ても、私の住んでいる部屋と天井が違う。
うちは単に白くて丸いLEDだけど、今目にしている天井には、どう見ても高そうで豪華な照明がぶら下がっていた。
……ここ。本当に何処なの?
こうして棺桶の中で寝ているってことは、私は自室に居ると思い込んでいた。
だって……棺桶が部屋にあるなんて、日本でもそんなにないと思うし……必要ないでしょ。普通なら。
そう。普通なら、だけど。
「……え?」
「おはよ……起きた? びっくりしたよ」
思わず漏れた声に返事がして私が振り向けば、そこに座っていたのは別に知らない顔でもなくて、行きつけの近所のカフェの店員だった。
そのカフェはカフェと言っても、夜専門の夜カフェ。
十八時から早朝まで空いている珍しいカフェで、もうご飯作りたくないとか、飲みの後ですぐに家には帰りたくない気分の時とか……何もする気にも起きない、まったりしたい時に私は使っている。
彼はダブリエ姿もいかしたイケメンの店員さんだとこっそり注目していた人で……少しだけ喋ったことがあるのは、事前会計だからレジで注文した時と時間の掛かる料理をサーブして来た時くらい。
そのカフェのシンプルな制服には名札もないので、名前すら知らない。
どんなに早朝の近い深夜になっても彼は常に居るので、アルバイトではなく、もしかしたら正規に雇われた社員さんなのかなとなんとなく思って居たくらいだ。
だから、単なる店員と客という顔見知りでしかなく、間違ってもこんな風に家に来るような関係性では、私たち二人は絶対に有り得ない。
まるでアイドルのような童顔を持つ彼は、驚き過ぎて何も言えない私に八重歯の見える可愛らしい笑顔を見せた。
「あれ……この反応は。そうか。久しぶりに会えた同胞だと思ったのに、違うのか。なんだか、残念だったなー……」
「……え?」
なんか、良くわからないけど、私は彼にがっかりされた?
同胞……仲間? 一体、何のことなの?
「いや、君は昨日……めちゃくちゃ酔っ払って、うちのカフェへとやって来たんだけど、ソファ席で眠ってしまったことは覚えてない? ここはね。あの店のすぐ上の二階。俺はここに住んでいるから」
家から歩いて五分な近所で行きつけの夜カフェは、確かに高層ビルの一階にある。
上層階って、住居用のマンションだったんだ。内装もやたらと豪華だし、賃貸だと家賃は高いだろうし、都内中央部の分譲ならば億ションなのかもしれない。
「昨夜の私がとんでもないご迷惑をおかけしたようで、本当に申し訳ありません……」
これは、どう言ってお詫びして良いものか。客席で寝てしまうなんて、お店側からすると迷惑過ぎる客でしかない。
……しかも、私は今まで眠っていなかった様子の彼の棺桶を占領してて……って。ちょっと、待って。
おかしいでしょう。なんで、私がこうして寝ているのがベッドじゃなくて、棺桶なの?
意味ありげな笑みを浮かべた彼が座っているのはベッド……ここには棺桶とは別に、大きなベッドもあった。
「いやー……俺も眠った君をここのベッドに寝かせてから、それを別の部屋へ片付けようとしたんだけど、急に目を開けたと思うと、テキパキと動いて普通にその中に入って行っただろ? しかも、こてんと熟睡するし……何かと思ったよ」
「え……っ、変な趣味があるんですね。どうして、部屋に棺桶があるんですか?」
私も部屋に置かれた棺桶で日々眠っているので、人のことを言えないけど……ここでそれを聞かないのもそれはそれでおかしいし、私はドキドキしつつ彼に素知らぬ顔で質問した。
「いや、ここまでの会話と、部屋に棺桶があることでわからない? 俺って、現代を生きる世にも珍しい吸血鬼なんだけど。ほら。これが牙」
彼は内側から頬の皮膚を人差し指で強く押して、八重歯が良く見えるようにした。
可愛く思えるヤンチャな仕草と、とても不穏な発言が合ってなくて違和感でしかない。
「……あ! もしかして……だから、あのカフェは夜しかやっていないんですか?」
カフェって明るい昼間に行くイメージだったし、十八時から早朝まで営業の夜オンリーカフェって、都内でも珍しいとは思ってたけど……。
「そうそう。俺は純粋な吸血鬼の祖先とは違って、だいぶ人と混じって日光に耐性はあるんだけど、ずっと日光を浴びるのは流石にキツい。光はいつまでも苦手だね。だから、ああいう夜カフェ開いたんだ。カフェを開くのが、俺の子どもの頃からの夢だったから」
「え? あのカフェって、自分のお店なんですね。すごい……」
都心のビルで店を借りて、しかもその上でこんな生活出来るくらいの売り上げをあげているなんてすごい。
私と同じくらいの年齢ですごく若そうなのに、どうやらこの彼は既に成功した青年実業家みたい。
「あのさ。自分から聞くのもなんだけど、嫌じゃないの? そんな普通のテンションで納得されても、俺は対応に困る。悲鳴あげなくて良いの? 吸血鬼だよ。俺」
「えっと、今のところは……」
だって、助けて貰って怖いこともされてないし。日光があまり好きじゃないカフェを開くという夢を叶えた青年ということしか、まだ彼のことを知らない。
「へー……そうなんだ」
私の呑気な発言を聞いて、拍子抜けした表情を見せた彼は大袈裟に肩を竦めた。
「あ……もしかして、これから私の血を飲みます?」
確かに彼にはお世話になったし、お礼の献血くらいの気持ちなら、大丈夫。
「……なんか、誤解があると思うけど、吸血鬼は血だからなんでも良いって訳じゃないから。そっちもゲテモノは、敢えて食べたりしないでしょ」
「そうですね……美味しくないものは、食べたくないかも」
美女好きだという噂の吸血鬼の目から見れば、平々凡々な私はゲテモノに見えるのかもしれない。
私だって食べ付けないゲテモノを、良かったら食べる? と言われても、抵抗あるし好んでは食べない。
「ははは。待って。それで納得するんだ。嘘だよ……もし、飲みたいって言ったら、君は俺に血を飲ませてくれる?」
「……今はダメです。貧血気味なんで。夜寝る前とかなら」
上目遣いのイケメンのおねだりっぽい言葉に、私は首を横に振った。
これは別に彼に血を飲まれたくない訳ではなく、単なる私の身体の事情。
私は子どもの頃から、貧血気味なのだ。朝は難しいけど、休日前の夜なら寝坊しても良いしOKだけど。
「了解。もし倒れたら心配だから、俺も君の血は飲まないことにしよう」
「あの……ごめんなさい。また、後ほどお礼に伺っても良いですか……?」
寛いだ様子の彼の背後にある時計の針の位置を何気なく見て、私は自分の顔が顔が青ざめていくのを感じた。
……なんてこと。今日は大事なプレゼンがある出社の日なのに、会議の時間まであと二時間もない。
飲み過ぎて眠ってしまっていたところを助けてくれたイケメンとこんな風に悠長に話している時間なんて、私にはどこにもなかった。
「ああ……ごめん。今日って、平日だったね。起こしてあげたら良かった。良いよ良いよ。その代わり、またカフェに来てよ」
「ありがとうございます! 必ずお礼に伺います!」
私は慌てて棺桶の中からすっくと立ち上がり、にこにこと微笑む彼の差し出した荷物を手に取って部屋を出た。
自分の家へと走っている間に一度部屋に帰ってから、シャワーを浴びて出社するまでの時間を計算して、絶望的な気持ちになりながらも懸命に道を走った。
◇◆◇
朝から遅刻必至なドタバタ劇だった仕事終わりに、例の夜カフェに訪れた私は、今朝もお会いしたばかりのイケメン店員に遠慮がちにカフェオレを注文した。
「あれっ……今日は、いつものケーキセットじゃないんだね。仕事終わりなのに、お腹は空かないの?」
彼はすぐ隣に居た店員に手を振って私が知り合いであることを示すと、笑いながら親しげに言った。
私はここの名物メニューのキャラメルシフォンケーキが大好きなので、いつもはドリンクと一緒のケーキセットを頼む。
だけど、今回は別に軽いお客様気分ではなく、昨夜から朝にかけて大変迷惑を掛けた彼に悪い気持ちでいると、少しでも伝えたくて。
「はい……あのっ……これ、お礼です。少ないんですけど」
私は鞄から取り出した二枚の紙幣が入っている茶封筒を、彼へ差し出した。
店で眠りこけ彼の寝場所を奪うという、とんでもない迷惑をかけた上に、寝坊をしたため大事なプレゼンに遅刻寸前だったから、お礼もろくに言えなかった。
ここは金額で、誠意を見せるしかない。
「あー、要らない要らない。今朝も言ったけど俺はこのビルオーナーで、酔って眠ってしまった女の子を助けたからと、善意の行動に報酬が欲しいなんて望んでいない」
彼は頼んでいないケーキとカフェオレをオーダーすると、いつもは私が座らないカウンターへと誘導しながら、差し出された封筒を柔らかい言い方ながらも頑なに受け取らなかった。
「本当に、ごめんなさい……出来れば、何かお礼がしたんですけど……」
「良いよ。本当に……じゃあ、君の名前教えてよ。今は個人情報だって、価値ある情報だって知ってる? 公式な開示はかなり制限されているし、表立っては簡単には手に入らないから。名前を教えて。それで、この件はチャラにしよう」
彼はそう言って、冗談めかして言ったので、有難い申し出に私は微笑み頷いた。
「私なんかの名前で良ければ、大丈夫です。私は鳴瀬まゆです。この辺りに住んでいる普通の会社員で、今朝は大事なプレゼンがある会議の日だったのに、遅刻しそうで本当に焦りました」
「なるほど……俺は諏訪冬馬。冬の馬でとうま。よろしく。まゆちゃん」
「よろしくお願いします……」
今までずっと謎だらけだったイケメンカフェ店員の名前は、名前までやたらと格好良かった。揃いすぎて、よく出来た詐欺ではないかと疑ってしまうレベル。
「冬馬さん……なんだか、良い匂いしますね」
彼からは美味しそうで、強く惹き付けられるような匂いがする。
今朝、彼がいつも寝ているらしい棺桶で起きた時にもそう思ったけど、すべてを手にしたイケメンは、放つ匂いまでも良いのかもしれない。
「そう? 仕事柄、香水も何も強い匂いのするものは、付けていないはずだけどね」
「すごく、良い匂いします……」
うっとりしてそう言えば、冬馬さんは話題を変えるように話し出した。
「あのさ。まゆちゃん。なんで、俺の棺桶で寝たの? ってか、蓋を閉めるのも手慣れた動きだったし、絶対これはお仲間だと思ったんだけど」
冬馬さんは周囲を気にしながら、ひそひそ声で私に耳元で質問をした。
ええ。私たち二人、部屋に棺桶があって、いつもはその中で眠ってるんです。なんだか、奇遇ですよね……なんて、絶対……誰にも、聞かれたくない!
「あの……吸血鬼ではないです。少し前から、光に過敏になったというか……少しでも灯りがあると、気になって、眠れなくなってしまって……苦肉の策で棺桶の中で寝てみたら、思ったより快適に眠れたんです」
「へー……そうなんだ。それって、最近のことなの? 突然?」
「そうなんです。なんだか、本当に不思議ですけど……あ。ごめんなさい。電話が鳴ってて……」
スマホを取り出した私は、画面にある見慣れた電話番号を見て、はあっと大きくため息をついた。二ヶ月ほど時間が空いたから、そろそろ来るかなとは思っていたけど。
どうしようか……ここで電話に出ても無視しても、いつまでも終わらない。私が死ぬまで、永遠にループしそう。
名前も見たくないからと、彼の名前を登録はしていないけど、この電話の主はSNSをすべてブロックしたり着信拒否したら、引越しした家をどうにか突き止めて待っていたり、実家に行って私の家族を困らせる。
だから、本当は嫌なんだけど、電話の着信拒否だけは解除する事にした。それで満足して貰えるなら、安いものだ。
「もしかして、それって事情が重くて憂鬱な電話? もし良かったら、話なら聞くよ」
着信を知らせるために振動しているスマホを見つたまま取らない私の妙な様子を案じてか、冬馬さんは不思議そうに言った。
冬馬さんが話なら聞くと言ってくれて、なんだか助かった。
警察を使っても上手く解決出来なかったんだから、ここで冬馬さんにどうにかして欲しいと頼んでも、きっと困らせてしまうだけだろうから。
「あ……これ、昔の異性の友人で……部活が一緒で仲良くはしていたんですけど、私に彼氏が出来たら態度がいきなり豹変してしまったんです。私はそのつもりはなかったんですけど、ひどい裏切られたと言い出して」
「はー……君と特別な関係だと、一方的に勘違いしていたケースか。うんうん。続けて続けて」
「私はそんな彼が怖くなって距離を置いたら、どんどん執着がエスカレートして……大学卒業して一切関わらなくなって、全部ブロックして着信拒否もしていたんですけど……そうすると住所をどこからか突き止めて会いに来るようになるので、電話番号を変えたり着信拒否したりするのだけは我慢しているんです」
こんな、よくわからない話……聞いて貰えるだけでありがたい。
警察に捕まるよと脅しても効果はないし、向こうの親だってどんなに駄目だと言っても聞かないどうしようもないと泣き崩れていたのだ。
彼は裁判所から接近禁止命令を受けてはいるので、たまにこうして出ないとわかっていても電話を掛けてきたりする以外は実害はない。
……今のところは、だけど。
私がもし怪我をしたり……殺されたり、何か実害があれば別だけど、今のところ付き纏いや過剰な連絡以外には、何もされていない。
明確に犯罪を彼が犯していないと、警察も弁護士も強硬には動けないらしい。
だから、私本人も嫌だけど、動きようのないどうしようもない状態なのだ。
「警察にも言ったけど、そのストーカー行為は解決していないんだ……?」
冬馬さんは、なんだか不思議そうだ。私みたいな平凡な女の何が良いんだろうと自分でも思うので、苦笑するしかない。
「そうなんです。私にはまだ、何も実害がない状態なので……直接の接触は禁じられているんですけど、全部をブロックすると逆上してしまうので」
「……うん。なるほどね。まゆちゃんの状況は、把握した。じゃあ、その人にさ。最後に直接言える? 一時間後に近くの……あの大きな公園に来てって言いなよ。俺がこれを根本から解決してあげるから」
「冬馬さん? けど……」
私だって、お金で解決出来るならそうしたい。けど、この着信を鳴らす彼は開業医の息子で、お金には困っていないのだ。
「大丈夫大丈夫。まゆちゃん可愛いから、今日は大サービスね。いつもはこういう人助けは、うちのメニューに載ってないから気を付けて」
冬馬さんはそう言いつつ、茶色みがかった片目を瞑った。
私はここ何年も私を悩ませていた原因を、彼がどうにかしてくれるならと、振動が止まらない着信に勇気を出して画面の通話ボタンを押した。
◇◆◇
冬馬さんは何年も望んでいない相手からの執着に苦しんできた私を救ってくれる、まるで白馬に乗り現れた王子様のようだった。
これまで何年も酷い執着を向けていた男は、待ち合わせの公園で私以外の思ってもみなかった第三者の存在に警戒心を隠さない。
とりあえず握手をしようと、きさくに冬馬さんは彼に向けて手を差し出した。
感じ良く握手しようと言われ断るのもと思ったのか、戸惑いながら出した腕を捕まれ素早く噛まれた後、彼はぼうっと意識なく冬馬さんの言いなりに動くようになっていた。
「良いか。この女性のことは、何もかも忘れろ。まゆちゃんを記録しているものは、すべて消すか捨てろ。そして、二度と連絡せずに近付くな。理解出来たら、行け」
「わかりました」
まるで動きの決められたロボットのように、ぎこちなく頷いた彼は、冬馬さんに命令された通り去っていった。
「見ててわかると思うけど……俺は血を吸った直後、相手の行動を操ることが出来る。記憶だって消せる。だから、もうあいつはまゆちゃんのことを、完全に忘れてるから」
「嘘……すごい。ありがとうございました」
「うん。解決して良かったね。あー、まず……うげ。きもちわる。最悪な味だわ」
男の背中が見えなくなるくらいに去った後、冬馬さんは口の中にあったツバを道へ何度か吐き出した。
「え……人の血にも、美味い不味いがあるんですか?」
血を舐めたことはないけど、冬馬さんがそう言うのならそうなのだろうか。
「そう。俺の持つ好悪で、味が変わるんだ。あいつはまゆちゃんに何年も付き纏う嫌な奴で、なんか死ぬほど嫌いだから、くそまずい」
心底そう思って居る様子で、冬馬さんは不機嫌に言った。
吸血鬼って、自分の好悪で血の味変わっちゃうんだ……だから、若い美女を狙うって、言われているのかな?
若い美女を嫌いな人は、とても少なそう。
「……すごい」
私は冬馬さんの得意気な顔を見て、こんなにも有難いことをしてくれた彼に、何をお礼すれば良いか考えていた。
少ないけど、私の口座の貯金を全部渡す……?
ううん。さっき冬馬さんは、お金は要らないって言っていたし……。
「あ。待って。まゆちゃん。動かないで」
私は彼の唐突な言葉に首を傾げると、冬馬さんは跪いて私のスニーカーの靴紐を結んでくれた。
どうやら片方だけ、靴紐が解けてしまっていたらしい。
「わ。なんだか、お姫様みたい。ありがとうございます……」
ピンチを救ってくれたイケメン王子様にかしずかれるなんて……今までにやって来た過去の善行が、大事なところで火を吹いてくれたのかもしれない。
会社では室内履きに履き替えるので、遅刻寸前だった今日はパンツスーツにスニーカーだ。
「スニーカーのお姫様? 良いね……お姫様にしては、靴下が色違いだけど」
「え! 嘘! それは、みっ……見ないでください!」
何年物の悩み事を解決してもらった後、遅刻寸前で慌てて身支度をしてしまったがために、靴下を左右色違いで履いているという事実を出会ったばかりのイケメンに知られてしまう悲劇に見舞われた。
幸運不運は……いつか人生の中で帳尻が合うように、出来ているのかもしれない。
なんとなくだけど、私はその時にそう思った。
◇◆◇
それからというもの。私は冬馬さんが経営している夜カフェに足繁く通うようになっていた。
今までのようなただの客と店員ではなく、お互いの名前を呼びあって知り合いとして親しげに声を掛けて貰える。
ただ、嬉しかった。
さりげなく仕事中の彼を観察してみると、冬馬さんはカフェで働いている従業員たちにも好かれているようだ。何もかも揃っている上に、人柄まで良かった。
休日の早朝、なんとなく目が覚めてしまった私は、今ならまだ営業中で冬馬さんに会えるんじゃないかと思い、閉店まであの夜カフェに行くことにした。
ぼんやりとした夜明けの光の中で、なんとなく飲む前のカフェモカの写真を撮影しようとした時、動画の録画ボタンを間違えて押した私に冬馬さんが、後ろから声を掛けてきた。
「あれ。おはよう。まゆちゃん。もう少しで、ここは閉まるけど」
「……しっ……知ってます。」
お店の中に何処にも居ないと思ったら、どうやらどこかに隠れて居たらしい。
私は慌てて、録画停止のための赤いボタンを押した。
間抜けな停止音がポコンと鳴って、どうやら挨拶の声だけ掛けてから通り過ぎようとしていた冬馬さんの気を引いてしまったらしい。
「え。なになに。写真なんか撮って。俺のカフェを紹介してくれるの? 嬉しい。助かるよ。最近は写真映えを重要視する子が多くて、インテリアにもかなり気を使っているから」
「はい……もちろん。最高の夜カフェだって、紹介します」
「都内で最高?」
「国内で最高っていう宣伝文句にしましょう……あ。冬馬さん、また良い匂いする。なんだか、美味しそうなにおい……」
また冬馬さんからうっとりするくらい、美味しそうな甘い匂いがして、私は自分では見えないけどとろけた顔になっていると思う。
「……そう? さっきまでケーキを仕込んでいたから、バニラエッセンスの匂いが付いたのかもしれない」
自分の服を摘んで匂いつつも、冬馬さんは当人だから匂わないのか、不思議そうな顔をしていた。こんなに良い匂いなのに。
「あ。甘い香りっていうか……すごく美味しそうな匂いがします。あ。冬馬さん……呼ばれてますね。仕事中なのに引き止めてしまって、ごめんなさい」
「いや、ありがとう。まゆちゃん。ゆっくりして行って」
従業員さんに「オーナー」と呼ばれた彼は、にこにこして手を振って去って行った。
慌てて目の前にあったカフェモカを飲み干した私はその朝は慌てて部屋へと帰り、誤って録画してしまった動画の中に冬馬さんの声が録音されていることを確認した。
「おはよう。まゆちゃん」
その部分を、何度も何度も繰り返し聞いた。
そして……完全に彼に恋に落ちてしまった様子の私は、目覚まし時計に流れるモーニングコール代わりに、彼の朝の挨拶の声を登録したのだ。
流石に棺桶の中に居ると音は聞こえないけど、蓋を空けたら彼が私に挨拶してくれたら最高だと思った。
「やばい……私としたことが、こんなにも乙女なことをしでかしてしまうなんて」
一瞬だけ我に返ったけど、恋に落ちた自分は、まだ帰って来ていない。
社会人になってからの恋愛なんて、まだまだ遠いと思っていた。
日々の仕事を安定させてからなら、恋愛はまだ先で……キャリアを安定させて結婚なんて、もっともっと先。
けど、私以外の誰も聞くことのない独り言は、狭い一人部屋の中にただ消えていった。
◇◆◇
勢いでそうしようと決めたその日は、冬が深まり雪がちらつく寒い日だった。
出来ればロマンチックなクリスマスには、彼と一緒に過ごしたいと思ったから。
仕事終わりの冬馬さんと話したいことがあると近くの公園に呼びだした私は、胸がドキドキして止まらなかった。
「お疲れ様。まゆちゃん。どうしたの?」
「あのっ……私、冬馬さんのこと……好き」
とりあえず言おうと早まった冷たい空気の中で、私の告白の声は消え入りそうだった。
けど、ちゃんと彼には伝わったみたいだ。
「そっか。俺も好き」
そう言って、ゆっくり私へ手を差し出した冬馬さん。私はダンスに誘われたようにして、彼の大きな手に手を重ねた。
手は彼の口元に寄せられて、軽く指先を噛まれた。
「最高に甘い」
にっこりと笑った顔は満足そうで、噛まれた痛みを感じる事もなかった私も、言葉の意味がわかって微笑んだ。
「私のことが……好きだから?」
彼の好悪の感情で飲んだ血の味が変わると言っていた。だとすると、そういうことになる。嬉しい。
「……そう。けど、人として生きるには、恋人が吸血鬼なんて不便だよ。もうここで、俺のことを忘れるんだ。君の血は本当に、甘くて最高だった」
「待って! 私……」
「まゆちゃん。好きだよ……だから、ここでお別れしよう。さよなら」
◇◆◇
私はいつものように、まっくらな闇の中で目が覚めた。貧血気味だから朝は弱くて、いつも寝起きは良くない。
あ……そうだ。日曜日だ。
今日って、朝ご飯用のパンを買って来ていたっけ?
なんだか、頭の中にモヤがかかり昨日の自分が思い出せない。
ゆっくりと棺桶の蓋を押し上げて開いた時に「おはよう。まゆちゃん」と、何度も目覚まし時計が連呼していて、そんな中で驚くくらいに鮮明に、私は冬馬さんのことを思い出した。
「あ……冬馬さん。ひどい。好きだからさよならって、何なの……こっちの希望だって、少しは聞いてよね」
私の個人的な希望だけど、恋人が吸血鬼でも大丈夫。
なるべく生活スタイルは彼に合わせるし、血は食べ付けないから飲めないかもしれないけど、棺桶で眠りに付くのは、今でも既に慣れてしまっている。
告白した後に記憶を綺麗に消されていた私がスマホを確認すると、冬馬さんの連絡先ややりとりの履歴、あのカフェで撮影された写真なんかも、全部消されていた。
きっと、吸血鬼の彼から言われて私が自分で消した。
だけど、冬馬さんは「俺の声も全部消して」とは私には言っていなかったのかもしれない。こっそり録音された目覚まし時計に自分の声が録音されているなんて、普通なら思わないよね。
あれは……私が見た、都合の良い夢じゃない。冬馬さんへの恋から、まだ覚めていない。
私はカレンダーで休日であることを再確認すると、精一杯のお洒落とメイクをして部屋を出た。
「いらっしゃいませ。今日は店内で、食べられますか?」
冬馬さんは、いつも通り店員の笑顔だった。ひどい。ものの見事な他人の振り。
「あのっ……私、冬馬さんと生きることにしました。これからも一緒に居たいです!」
その時に冬馬さんはひどく驚いた顔になった後、周囲の目を気にしつつ、私の腕を引いてバックヤードにまで連れて来た。
あれは、他の店員さんもみんな聞いていた。これだとなかった事にするには手間がかかるだろうと思った。
少しずるかったかもしれないと思い、何も言えない私をまじまじと見つめた後で、冬馬さんは、はあっと大きくため息をついた。
「……嘘だろ。俺が消した、記憶が戻ったのか……まゆちゃん、後悔するぞ」
脅すような言葉を使われても、別にここで引いたりしない。
覚悟はもう、決めてきた。
「絶対に、後悔はしないです。もし、両思いで冬馬さんの恋人になれるなら」
「……本当だな?」
「はい!」
「俺の事、そんなに好きなの?」
「……はい!」
念押しして確認するように聞き返されたので、私は嬉しくなって何度も頷いた。
「けど、おかしいな……俺の暗示が解けるなんて、これが人生で初めてだよ」
片手で頭を押さえた冬馬さんは手招きをして、二人がけのソファへ座るように私を促した。
「あのっ……私。実は、冬馬さんの挨拶の声を偶然録音していて、それを目覚まし代わりに使っていたんです。それを聞いて、なんだか思い出せちゃって……」
冬馬さんの隣に座りつつ、何故消されたはずの記憶が戻ったかを説明すると、彼は驚いたように私を見た。
「……え? 俺の声を?」
「そうなんです……おはようを、モーニングコール代わりに。なんだか、本当に冬馬さんが好き過ぎて……ごめんなさい」
「それって、謝るところではないよね? なんか、素直に嬉しい。うん。好き同士だし……俺も覚悟を決めるか」
「ありがとうございます!」
どうやらこれで晴れて冬馬さんと恋人になれた私は、嬉しくて彼に抱きついた。
「苦労するぞー……吸血鬼の恋人になったら」
そんなの覚悟の上だし、逃げたいなら、もう逃げてるのに。
けど、なんか……やっぱり、冬馬さんってすごく良い匂いがする……こうして抱きしめられると、より濃厚な匂いに包まれた。
「はー……冬馬さん。良い匂い」
呟いて見上げた冬馬さんの整った顔は、私の頭を撫でつつ、おかしいぞと言わんばかりの微妙な表情になっていた。
「ていうか……もしかして、まゆちゃんって……俺より上位種の、まだ覚醒していない、魔物の幼生じゃないよね?」
「……え?」
隣に横たわった冬馬さんは、荒い呼吸の止まらない私の顔をじっと見て、何か悩ましい表情になっていた。
「だって、闇が好きだし……わずかでも光があると、眠れないんだよね? ……俺から何か美味しそうな匂いするってことは、吸血鬼のことを捕食対象にしている大物なのかも」
「まっ……まさか」
……え。吸血鬼を食べるって、どういうことなの?
「俺がさ。まゆちゃんから良い匂いして、美味しそうだと思うのはわかるよ。だって、俺は君を捕食する側だから。けど、俺から良い匂いがして美味しそうに思えるってことは……うーん」
「な、何か心当たりあります?」
「あ……まあ。けど、それは別に良いか。単に偶然の気のせいかもしれないし、それが未来、もし起こった時に考えるようにしよう。俺は絶対、それでもまゆちゃんのこと、好きだし……ねえ。これ見て。俺も少しは、可愛いところあるだろ?」
そう言って冬馬さんは机の上に置いてあったスマホを手を伸ばして取り、画面を私の方へと向けた。
「わ! スマホの待ち受け、私の写真ですか……? これって、いつ撮ったんですか?」
その写真の私は、カフェのいつもの席に座ってカフェオレの入ったカップを持って、なんとも幸せそうなほっこり顔。
ああ……多分、これって冬馬さんのことを、考えている顔かも。
「うん。まあ……ごめん。可愛かったから。盗撮はお互い様ってことで、許してね」
Fin
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
もし良かったら、評価を頂けましたら嬉しいです。
それでは、また別の作品でもお会いできたら幸いです。
待鳥園子