プロローグ―旅立ち―
誰かの声が聞こえた。その声にはっと意識を取り戻し、周りを見渡す。暗闇だった。ただ目の前だけはほんの少しだけ明るく、後ろは星を失った夜空のように真っ暗だった。
「大丈夫ですか…起きてください…」
声は明るい方から聞こえていた。その明るく陽気に満ちた声がまるで光源のようだった。正直、自分がどんな状況にあるのか全くわからない。ただ今はほんの少しの希望にすがるしかなかった。私は恐らく私を呼んでいるであろうその声に答えるように、明るい方にぎこちなく歩いていった。
途端、光が私の目を突き刺した。夢でも見ていたのだろうか。
「あっ…! 目を覚まされたんですね…良かった…」
未だ目にしみる強い光にようやく目が慣れてくると、私を覗き込む一人の少女らしき人物の姿を認めた。頭と口元を布で覆っているため顔貌はよくわからないが、その声は明るく陽気に満ちた声―つまり、あのとき私を呼んでいた声である。
「何やら良くわからないからくりの箱中に入っていらしたようですけど…私が操作したら突然箱が開いて。そしたらあなたが眠っていたんです。でも本当に良かった。」
人助けができたと、ほっとした表情の彼女。しかし私はとても重大な問題があることに気がついた。彼女が誰かはもちろんのこと、ここはどこか、いや、そもそも自分が何者なのかすら分かっていない。思い出そうとしても、霞がかったように見失ってしまう。要するに私は記憶喪失のようだった。
「おっと、長々と話してしまってすみません。私はカサブランカ。考古学者の教授の助手で探検家です。」
「ここは…どこだ…」
口元のベールを外し、恭しく、しかし明るく自己紹介をしてくれた少女改めカサブランカに対してあまりに無礼な質問に彼女はそれでも明るく答えてくれた。
「ここはウンマ砂漠のど真ん中にある古代文明の遺跡、人呼んで万古の遺跡という場所ですが…」
砂漠? どういうことだ? 確かに空気が乾燥している気はするが。
「あなたの身なりをみるに、遭難というわけでもなさそうですね…砂漠の旅人なら聞いたことぐらいあるこの場所をご存じないのですか? 」
「すまない…ここがどこかとかいう以前に、自分のことすら知らないんだ。」
私の事情を明かすと、彼女はとても驚いたようにしていた。
「それじゃあ、ご自分の名前もわからない…と? 」
名前…頭の中にかかってている霞だが、人として生きるために最低限必要なものの一つ…つまり名前にはかろうじて薄いもやがかかっているのみだった。手をもやの中に伸ばしてそれを掴み取る。
「ラサ…私の名前はラサ…だ」
「良かった…名前は、自分が何であるかを認識するために最も大切なものですからね。」
彼女の矜持なのだろうか。カサブランカは名前を大切にしているようだった。
「ところでラサさん、外に出てみませんか? もしかしたら何か思い出すかもしれません。」
彼女の提案に従うことにした。というかそうする他に何もできない。体を起こして立ち上がり、先を歩く彼女についていく。
そのとき、手に持つ「何か」に気がついた。金属、または石で出来ているような光沢を持ち、私の二の腕ほどの長さで私が握りやすい太さの棒。よくわからないがそれ以外私が持っている物は無いので、何かに使えるかもしれないと思い持っていくことにした。
ここは崩壊してはいるもののかろうじてその姿を留めている建物の一部らしい。随分立派だ。私の入っていたという「箱」を見たのだがこちらはかなり綺麗な状態であり、またこの箱も例の棒と同じ材質でできているようだった。いや、箱だけでなく、建物の所々にもこの材質が使用されているようだ。この材質はそれほどまで便利なものなのか。
数分ほど歩くとやがて光が強くなってきた。あの夢の中でみたような優しい光ではない。あらゆる生命を殺すような強烈な光である。その眩しさにこの外は砂漠なのだと再認識させられた。
「ここが出口です。」
遺跡から一歩足を踏み出し、そして私は息を飲んだ。
ところどころ建物の残骸がある以外は見渡す限りの砂、砂、砂。それを西か東か、やや傾いてはいるもののあまりにも強い太陽の光がぎらぎらと照らして、否、焼いている。そこに生命の気配は我々を除いて一切無かった。
「随分驚いていらっしゃいますね…普通の景色ではないですか? 」
これが普通だというのか。この、神秘的にも恐ろしくも感じられる景色が。しかし彼女の様子を見る限り、その言葉に嘘はなさそうであった。
だが、私はこれだけの壮大な景色を見てもなお、何かを思い出すことはできなかった。その旨を伝えると、彼女はとても残念そうにしていた。ベール越しでもわかりやすいほどに。なんだか少し申し訳無い。
「どうしましょう…八方塞がりですね…」
まさにその通り。この状況を言い表す完璧な言葉だ。
その時である。私の耳は遺跡の方から聞こえる不可解な音を捉えていた。甲高いような、それでいて重低音も聞こえてくるような。少なくとも良い兆しには思えない。そしてそれはカサブランカも同じであった。
「まさか…」
カサブランカはどんどん青ざめていく。そうこうしている間にもその音はどんどん大きくなっていき、とうとう音の主が我々の前に姿を表した。
それは件の鉄のような、石のような素材でできていた。それは照る太陽を反射し妖しく輝いていた。それはまた自らも青く光っていた。それはなんとも形容し難い形をしていた。そしてそれは明らかに我々に敵意を向けていた。
「怪物だ…! ラサさん、ここはとりあえず逃げましょう! 」
カサブランカはいつの間にかそこにいたラクダ―恐らく彼女のラクダだろう―に飛び乗り、私に後ろに座るように促した。乗馬の記憶など無かったが、ラクダに乗るだけの体力はあった。彼女が「怪物」と呼ぶその存在から逃れたい一心で飛び乗った。その瞬間、意外にも速くラクダは駆け出した。
「カサブランカさん、あれは一体何なんだ?」
私は居ても立っても居られなくなって聞いた。
「奴は怪物と呼ばれている存在です。ウンマ砂漠のところどころにいて、人々を攻撃します。」
曰く、それがどのような目的で行動しているのか不明、いつから存在しているのかも不明、行動を止めるためにはワクフ鉱石と呼ばれる鉱物でできた武器による同じくワクフ鉱石でできたコアの破壊のみ、とのことだった。
「今はこうして逃げていられますが、顔を覚えられたからにはどっちみち戦うしかありません。このすぐ先に私のテントがあります。そこに武器があるので、それで戦います。」
彼女は恐らく私より幼い―見たところ大人とみなされるようになる年齢だ―だろうになんだかずっとしっかりしている。私は彼女を信じることにした。
遺跡からテントに着くまでに時間はかからなかった。カサブランカはそこから弓矢を持ち出しそれを構える。矢じりは例の鉱石でできているようであり、彼女が言っていた武器とはこれのことだと理解した。精悍な顔つきで敵の襲来に備える彼女はさながら一人の戦士だった。
ややあって件の不気味な音が聞こえてきた。戦いの合図だ。カサブランカは意を決したように弓を引いた。
―まずいことになってきた。明らかに押されている。はじめのほうこそ勇ましく弓を引いていたカサブランカであったが、それは虚勢であったのかもしれない、顔には焦りが見え、矢を放つ手は止まり、今はただ怪物の攻撃をなんとかして避けるのが精いっぱいに見えた。このまま戦況が変わらなかったらどうなるのだろうか。彼女は死に、私も目を覚ましたばかりのまま、何もわからないまま死ぬのだろうか。嫌だ。私にはまだすべきことがあるはずだ。少なくとも、私を起こしてくれて、あまつさえ戦ってくれているカサブランカに恩返しをしたい。しかし目覚めたばかりの私には戦う術など無いように思われた。
ふと、私が目覚めた瞬間から手にしたいる「何か」を思い出した。…よく見たら、どこかに見覚えがあった。そうだ。これはこのように持って…
私はまだ死にたくない。そう強く想いながら力を込めると、それのところどころにあの怪物と同じ青い光がほとばしり、両端から刃が形成された。私はそれを初めて見るはずだったが、どこか親しみを感じていた。これはきっと私の武器なのだろう。それもワクフ鉱石製の。これならきっと戦える。私はカサブランカに加勢することにした。
「っ! ラサさん、それは…! 」
「恐らく私の武器だ。きっとワクフ鉱石でできている。どうか私も戦いに入れてくれないだろうか。」
カサブランカは少しためらったようだった。
「良いのですか、ラサさん、あなたは目覚めたばかりです。もしそれで死んでしまったら…あなたが目覚めた意味が、あなたの過去は、わからないままですよ。私は、あなたに生きてほしい。」
「気づかってくれてありがとう。しかしカサブランカさん、それは私も同じだ。あなたは私を起こしてくれた。私のために戦ってくれている。私は、あなたに死んでほしくない。せめてもの恩返しがしたい。」
言い終えて、恥ずかしいことを言ったと思った。しかしその言葉に偽りは無い。
「どうして…そんなに私のことを…」
「記憶を失った私にとって、あなたが唯一の知人であり、恩人だからだ。カサブランカさんも、知人や恩人を失うのは辛いだろう。」
その言葉に、彼女ははっとした様子だった。
「お願いだ…」
彼女は答えを決めたようだった。言葉はなく、その代わりに今まで放つ勇気すらなかった弓矢を構える。私も得物を構える。誰かに習ったのだろうか。自然な動きだったと思う。
そういえば、あの怪物や私の武器は青く光っているのに、カサブランカの矢はワクフ鉱石でできているにもかかわらず光っていない。どうしてだろう。そんなことを考えていると、頭の中に誰かの声が響く。記憶の霞を突き破って響くその声はこんなことを言っていた。
「ワクフ鉱石は人の想いに反応する石だ。だからラサの武器も何かを強く想いながら振るうと、きっと強い力を発揮するはずだよ。」
声の主はわからなかったが、有益な情報だ。カサブランカに伝えることにした。
「何かを想う…ですか。」
「そうだ。カサブランカさんは、どんなことを想い、願っている? 」
「そうですね…私は…この窮地を生き延び…ラサさんも無事でいて…そして…」
ー自分らしくいたい。彼女の最後の願いは彼女の明るい姿を見てきた私にとって予想外だった。しかし、その願いはきっと強かったのだろう。その願いを受け止めるように、彼女の矢じりも強く青く光った。
反撃の準備は整った。我々は各々の武器を構え、奴に立ち向かった。
気づけばあれ程地面を焼いていた太陽の光はなりを潜め、過ごしやすい黄昏の風が私の体を押した。
一時はどうなるかと思われた戦況も、あっけないものだ、我々の武器の覚醒という出来事によって、一気に反転攻勢となった。とどめは私が刺した。生き物を殺したような生々しい感触と、機械を壊したような強い手応えを感じた。
しかし…一難去ってまた一難、と言うべきか、急にこれからどうしようという不安が湧いて出てきた。記憶を失っているから道もわからず、行くあても無い。おまけにこれから寒い砂漠の夜がやってくるときた。あんなことを言った後ではあるが、私はこれから生きていけるのか心配になってきた。しかしまたしてもカサブランカは私に手を差し伸べてくれた。
「ラサさん、もし行くあてが無いのなら―というか無いですよね―私と一緒に旅をしませんか。」
「それは嬉しいが…良いのか…?私がいることで、色々負担になるのでは…」
「食料は沢山用意してありますし、道中の暇つぶしの本もあります。テントは二人で入ることになりますけど…私は気にしません。―お願いです…私はあなたに、恩返しがしたい。」
ああ、彼女のなんて明るく優しいことか。私は彼女の誘いにありがたく乗ることにした。
それからテントの中でこれからの道中について話し合った。今我々がいるのはカサブランカの母国の南の国、カリハ国の西の外れ。そこから一番近い街は西の国、サー国の都らしい。カリハ国とサー国の国境までの食料はあるとのことだったが、そこから先の食料はさすがに無いので旅人に色々なサービスをやっている国境検問所で食料の手当てを受ける、とのことだった。
その後、彼女が彼女の持っていた予備の服で砂漠を歩くのに必須なマントを見繕ってくれた。鮮やかな青色だった。砂漠の空の青。あるいはワクフ鉱石の青。
「何から何まで…カサブランカさん、本当にありがとう。感謝してもしきれない。」
「困った時はお互い様って、ラサさんが示してくれたからですよ。それから、『カサブランカさん』じゃなくて、『カサブランカ』って、呼び捨てで呼んで欲しいです。この名前は…特別なので。」
「そうか…じゃあ、これからよろしく。カサブランカ。」
「ええ。こちらこそよろしくおねがいします。ラサさん。」
「…私は呼び捨てじゃないんだな。」
「ラサさんはたぶん年上なので。」
「なんだそりゃ。」
やっと笑った。そうカサブランカが言った。はっとする。私が目覚めてから今まで、こうやって生き延びられたのも、もしかしたら、いや、きっとカサブランカの笑顔があったからに違いない。―砂漠を照らす太陽のような、しかしそれでいてぎらぎらとしすぎない、オアシスに映る望月のような笑顔。そう思ってまた笑った。私も彼女みたいになりたいから。