3 婚約者、浮気発覚編
「仕方のないことですわ、メアリーちゃん」
激昂するメアリーを宥めながら、16歳になるレティーシャはゆっくりと言った。
「私は公爵家の一人娘。もとより自由な恋愛なんて、望めない立場ですもの」
「でも、レティ……!」
「それに、わたくしたち女では、どうあっても公爵たる地位にはつけません」
レティーシャの強い口調に、メアリーは押し黙った。彼女の言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「だからこそ、次期ケンオルブル公爵にふさわしい方をお父様が選ばねばならないのです。そしてこの婚姻は、パワーランド家側の強い要望で決まったこと……。引き受けた以上、わたくしの一存で翻すわけにはいきません」
「……」
「だけど怒ってくださってありがとうございます。わたくしは、反対できる立場ではありませんから。それに本当のことを言うと、他の国に嫁ぐのじゃなくてよかったんですの。ケンオルブル家にいられるなら、これからもメアリーちゃんとも一緒にいられるでしょ? お父様とお母様だって同じようにご結婚されてるのだし、わたくしもきっと婚約者の方と素敵な家庭を築けると思うのです」
――だったら、どうしてそんな寂しそうな顔をするのよ。本当は嫌なんじゃないの? ずっと一緒だったからわかるわよ。なんでそう言わないの。
けれど、メアリーも何も言えなかった。彼女は所詮、主人であるレティーシャのメイドでしかなかったのである。
「……心配なさらないで」
レティーシャは微笑んでいた。無理に笑っているとすぐにわかった。
「わたくし、ちゃんと幸せになれますから」
メアリーは唇を噛んだ。この時のレティーシャの顔を、彼女は生涯忘れることはなかった。
かといって、当然あのメアリーが引き下がるはずもないのである。休暇をとった彼女は、一人ある場所を訪れていた。
(違う! これは、断じてそういうアレじゃないわ!)
とある豪勢な屋敷の前で息をひそめるメアリーは、誰にともなく心の中で言い訳していた。
(レティの婚約者について調べるのは、あくまで私が成り上がる計画のためよ! 浮気男だったり遊び人だったりしたら、ケンオルブル家の名前に傷がつくじゃない!? せっかくここまで上手くいってるのに、ポッと出の馬の骨に邪魔されてたまるもんですか!)
メアリーは、手紙に書かれていた名前だけを頼りに、レティーシャの婚約者の屋敷まで辿り着いていた。かの婚約者の名は、ニイル・パワーランド。言わずと知れた名家であり、地位もケンオルブル家と同じく公爵。ニイルは次男なので、ケンオルブル家の一人娘であるレティーシャとの婚姻は、まさにふさわしいものといえよう。
(……)
物陰に隠れるメアリーは、門を見つめながらきつく拳を握った。
(どうしようもない男だったら、真っ二つにしてやるんだから……!)
自らの腹の底で煮える感情を、メアリーは全て怒りによるものだと切り捨てた。そうして待つこと、数十分――。
(来た!)
一台の馬車が止まった。だけど、公爵家の屋敷の前ではない。むしろ少々遠めの、人目を憚った場所だった。
そもそも、公爵家が使うにしては地味な馬車なのだ。庶民的だとさえメアリーは思った。だがその理由を、すぐに彼女は思い知ることになる。
「……ああ、私だけのニイル様……」
艶っぽい女性の声に、メアリーはビクッとした。改めて馬車を凝視するも、未だ人が降りてくる気配はない。焦れたメアリーは、御者に見つからないようこっそりと近づいた。窓は開いているようで、中の声が漏れ聞こえてくる。
「……ニイル様、本当にこんなことよろしくて? 貴方にはもう素敵な婚約者がいるのでしょう?」
「君の魅力を無視することと比べれば、大した問題じゃないよ。なんて美しいんだ、ヴェリエッタ……」
甘い男性の囁きに、メアリーの頭はスッと冷えた。手は、無意識のうちに剣の柄を掴んでいる。なんとか残った理性で抜くのを押しとどめていたが、女の嘲るような声に限界は近いと感じていた。
「まあ、可哀想な婚約者様。だけど本当に可哀想なのは、ニイル様かも。だってその婚約者って、地味でつまらなくて野暮ったい女なんでしょ?」
今度はカッと頭に血が上った。地味でつまらなくて野暮ったい? 淑やかででしゃばりじゃなくて、堅実で落ち着いた趣味をしてるだけよ!!
しかし更にメアリーを苛立たせたのは、わざとらしいほど哀れを誘うニイルの言葉である。
「そうなんだよ、ヴェリエッタ。まったくあの女は、地位ぐらいしか利点がない。君の宝石のような髪の毛の一本でもミルクに入れて飲み干せば、アレも少しはマシになるかな」
「えぇ〜、確かにちょっとはマシになるかもだけどぉ。でもそれでアナタ、その女との結婚生活を我慢できるの?」
「無理だよ! あんな辛気臭い女と生活するだなんて、考えただけでもゾッとする!」
「じゃあ婚約破棄するの?」
「いや……女は不良品だが、家は一級品なんだ。結婚さえすれば、いずれ僕はケンオルブル家の当主になれる。そうすればもうこっちのものだ。あの女を追い出して、君を妻に迎えてみせるよ」
「悪い人……。だけど、そう上手くいくかしら? それまでに私とのことがバレたらどうするの?」
「大丈夫、結婚すれば娘を人質にとったも同然さ。一度離縁させられた女が、その後どれほど社交界で苦労を強いられるか知っているかい? 残念ながら社交界での女の価値は、結婚するまでだ。それを奪われたのなら、よほど魅力がない限り“返品女”の烙印を押されるね」
「まあ、酷い」
「君は別だよ、ヴェリエッタ。君ほどの美貌なら、どんなに浮いた話でも評判になる……。許されるんだ」
「たとえ不倫をしていても?」
「勿論。むしろこんな美女が、許されぬ恋と知りながら一つの愛を抱き続けた……なんて、人々が聞けば素晴らしい美談に感じるさ」
「ほんと口が上手いのね。私以外にも披露してなきゃいいのだけど」
「僕が真実の愛を誓うのは君だけだよ。永遠に愛してる、ヴェリエッタ……」
甘ったるい空気になる馬車内。だがその時、前脚を上げて馬がいなないた。メアリーからほとばしる殺気に、ついに勘のいい馬達が恐怖したのである。
「どうどう! どうどう!」
御者が大慌てで馬を鎮めたが、ニイル達は興を削がれてしまったらしい。「今日はここまでにしておこう」「ええ、ではまた二日後に」とやりとりが聞こえてきたあと、馬車のドアが開いた。
降りてきたのは、少しパーマのかかった金色の髪の美青年である。だが今のメアリーには、より良き世のためには即座に成敗すべきである悪鬼以外には見えなかった。
あれが、レティーシャの婚約者であるニイル・パワーランドなのだ。
(……)
怒りの収まらぬメアリーは、必死でマーティン師の言葉を思い出していた。
『――よいか、メアリー。怒りは己の目をくらませる。感情に呑まれてはならぬ。振り回されてはならぬ。怒りを抱いた時こそ、心を静かな水面の底に沈め、両の目を開き物事を見据えよ――』
マーティン師匠の穏やかな表情と声が、頭の中で蘇る。
『その上で、一撃で屠れ』
「ええ、師匠! 私、やるわ!!」
馬車のなくなった道で、パワーランド家の屋敷を睨むメアリーは決意を新たにしたのだった。
しかしこのことをどうレティーシャに伝えたものか、メアリーは悩んでいた。ニイルと浮気女の会話は、それほどまでに酷いものだったのである。とはいえ、言わないわけにもいかないのだが……。
殊勝に考えていたメアリーだったが、レティーシャが帰宅したために思考は中断した。
「ただいま、メアリーちゃん。しっかりお体を休めることはできましたか?」
「ああ、レティ……。ま、まあまあね」
「よかったわ。メアリーちゃんたら、いつも頑張り屋さんすぎるぐらいなのですもの。お休みを取ると言ってくださって、わたくしもホッとしましたわ」
控えめながら心から嬉しそうに笑うレティーシャに、メアリーは自分の凍てついた心の部分がとけていくように思った。ふんわりとした栗色の髪の毛が揺れ、優しい匂いが鼻腔をくすぐる。この香水は、以前メアリーが好きだと言ったものだった。
心臓がキュッと縮まる。――彼女に真実を伝えるのは、本当に正しいことなのだろうか。ただ傷つけるだけで終わってしまうのではないか。彼女には何も伝えず、私の手でひっそりニイルを闇に葬っておくべきでは――。
「そうだ。わたくし、婚約者であるニイル様に会ってきましたの。とっても美しく優しい方で、わたくしのことも一目で気に入ったと――」
「アイツ浮気してるわよ」
「えっ!!?????」
だがダメだった。口が先に動いていた。すぐには受け入れられない様子のレティーシャだったが、メアリーが洗いざらい話したことで次第に状況を理解したらしい。真っ青になり、ふるふると震えながらうつむいた。
「……では、ニイル様がわたくしにおっしゃったことは、全て嘘だったのですね。恋に落ちたというのも、わたくしにかわいらしいと言ってくださったのも……」
「髪とかちゃんと手入れしてるとわかるし、肌は白いし、目は澄んだ湖の雫を集めたみたいで私は悪くないと思うけど。とにかくアイツが浮気してるのは本当よ」
「わ……わたくし、どうしたら……」
「どうしましょうもこうしましょうもないわよ。ナイジェル様に伝えなさい。浮気男となんか結婚できないって」
「……」
しかしレティーシャは、首を横に振った。
「だめですわ……。お父様には、言えない……」
「どうして!」
「わ……わたくしが、我慢すればいいのです」
か細く苦しそうな声が、華奢な身からこぼれる。
「ニイル様は、既にお父様のお仕事について学び始めておられます。とても優秀な方だそうです。ニイル様がおられれば、ケンオルブル家は安泰だと……」
「でもアンタ、浮気されてんのよ!? 利用されてんのよ!?」
「……この世界では、浮気や不倫は珍しいことではありません。ニイル様のおっしゃるとおり、社交界では冴えない妻ではなく華やかな愛人を連れてこられる方もおられます。結局は、どう立ち回るかなのです。褒められたことではありませんが、お話を聞く限りニイル様は上手にやられる方なのでしょう」
「……アンタは……追い出されるかもしれないのよ……!?」
「そこは、愛人の方に対するニイル様の嘘でしょう。わたくしはこれでも、ケンオルブル家の血を引く娘です。こどもを産めば尚更、ぞんざいな扱いはできないと思います」
「今の時点でもうぞんざいな扱いを受けてんのよ! わかってんの!? アイツ、こどもが生まれようがアンタが尽くそうが、絶対浮気を続けるわよ!?」
「続けても……わたくしが我慢すればいいだけです。それでケンオルブル家が安泰なら……」
レティーシャの態度は、まるで公爵令嬢のお手本のようだった。だからこそ、メアリーは我慢ならなかったのである。レティーシャは、レティーシャという一人の人間ではなく、ケンオルブル家の令嬢として言葉を発していたのだから。
「……バカじゃないの?」
ならば、私は彼女をレティーシャに戻さなければならない。メアリーは強くそう思ったのだ。
「アンタ、誰をメイドとして雇っているか忘れたの? かの高名な貴族、メアリー・スピルアールよ! 私がアンタに仕えてきた理由はただ一つ。この私が、以前のように貴族として成り上がるため!」
「……ええ」
「だけどアンタは今、アンタの何もかもを踏みにじる男との結婚を受け入れようとしている」
レティーシャは下を向いている。けれどメアリーは許さない。レティーシャの頬を両手で包むと、ぐっと持ち上げて自分と視線を合わせた。
「目を逸らさないで。今は、私だけを見て」
「……!」
「そして思い出しなさい。思い出したなら、二度と忘れないよう胸に刻みつけなさい。もう一度言うわ。アンタは、このメアリー・スピルアールが仕えるお嬢様、レティーシャ・ケンオルブルなのよ」
メアリーの手の中に収まるレティーシャの顔の熱が、徐々に上がっていく。メアリーは構わず続けた。
「誇り高くありなさい。私の主人ならば。立ち向かいなさい。誇りが踏みにじられたのなら。全部諦めて許容することは、この私を侮辱することに他ならない」
「メアリーちゃん……」
「戦って。そして、完膚なきまでに叩きのめすの。……何不安な顔してんのよ。アンタはこの私の主人であるレティーシャよ? できないわけないでしょう!」
レティーシャの涙に濡れた目に、光が宿った。その光は、メアリーの中に燃える炎をそのまま移してきたかのようだった。
「さあ、浮気男をぶっ飛ばすわよ! ――いいわね、レティ! 返事は!?」
「……はい!」
メアリーの言葉に、レティーシャが頷く。弾みで涙がこぼれたが、もう彼女の顔に儚げな悲哀はなかった。