2 学園生活編
それからというもの、メアリーとレティーシャは長い時間を一緒に過ごすようになった。メアリーは暇を見つけてはレティーシャの部屋へ通い、レティーシャも自分からメアリーに話しかけるようになった。
深夜、食糧庫からお菓子がなくなることもなくなった。料理長のアンジ、そして薄々事情を察していたケンオルブル公爵夫人は大いに安堵したものである。
「メアリー。君はレティーシャの良い友達になってくれたようだね」
ある日、メアリーはナイジェル・ケンオルブル公爵に声をかけられた。
「レティ自身も、あれほど苦手だった作法やダンスに積極的に取り組むようになっている。夕食もしっかり食べるようになった。君をメイドとして引き取って、本当によかったよ」
「もったいないお言葉です」
「何かお礼ができれば良いのだが……」
「でしたら、ぜひご褒美を!」
メアリーは率直素直な性格であった。期待のこもったメアリーの言葉に、公爵は肩を揺らして苦笑した。
「おお、そうだったね。友達になれた日には、君にご褒美をあげようと約束していた」
「はい! お願います!」
「では、これを。先日他国へ視察に行った折に買ってきた菓子だ。レティには内緒だよ」
メアリーに差し出されたのは、手のひらに乗る程度の焼き菓子の包みであった。
「……」
だが、彼女のポジティブシンキングに一切の揺らぎはなかった。
(前金……ってことね!?)
彼女の成り上がり計画は、まだ始まったばかりである。
時が経ち、10歳になったレティーシャは王立学園に通うことになった。メアリーも、お付きのメイドとして同行することを許された。
なお、慈悲深いケンオルブル公爵はメアリーにも入園への打診をしたのである。しかし、彼女は断った。
「今更行ったところで、いい笑い者になるだけだわ。それに、勉強はレティが教えてくれるんでしょ? だったら徹底的にレティをサポートして、ケンオルブル家の評判を上げたほうが“未来への投資”になるって考えたの!」
「メアリーちゃん、ありがとうございます! わたくしのことだけじゃなく、ケンオルブル家の未来まで考えてくださっているのですね!」
「うん? ……ええ、当然!」
そういう事情で、メアリーはメイドとしてレティーシャを助ける道を選んだ。
とはいえ、レティーシャは公爵令嬢という身分である。基本的には周りからも一目置かれ、そうトラブルは起こらなかった。だが、どこの社会にも、ものの分別がつかない者は一定数いるものである。かつ、そういった者らは、えてして口数の少ない大人しい少女を狙うものなのだ。
「アンタ達ね……!? ナイジェル・ケンオルブル公爵の一人娘であらせられるレティーシャ・ケンオルブル嬢の靴に、湿った落ち葉を入れたのは!」
「な、なんだお前!?」
そしていち早くその不穏な動きに気づいたメアリーは、いじめっ子らに単身カチコミをかけた。
「私はレティーシャ様の一のメイド、メアリー! 顔も名前も覚えたわよ……! 右からトーマス、フィンリー、エドワード!」
「はっ……お前、知ってるぞ! 親が大罪人のメアリー・スピルアールだろ!」
「なんだって、あのスピルアール家の!? メイドにまで落ちぶれてたのか!」
「だったらお前の何が怖ぇもんかよ! レティーシャともども泣かせて――!」
「まあ、揃いも揃ってお考えが足りないこと……。あなた達、この私がその大罪人の娘であるのがどういう意味かわかって?」
メアリーは、黒色の髪をかきあげて笑った。
「今の私には――これ以下がない!! 失うもののなさにかけては、親の地位でぬくぬく学生暮らしをしているアンタ達の比じゃなくってよ!!」
「ぐっ……!?」
「さあ、とっとと回れ右してレティーシャお嬢様に頭を垂れにいきなさい! それとも学生の身分だけじゃなく、人としての形まで失ってもよろしくて!!?」
「うわあああ、なんてヤツだ!」
「逃げろ! 本気の目だぞ、あれ!!」
実際本気だった。仕事の合間に剣術を学んでいたメアリーは、一人の剣士へと成長していたのである。以前、ストレス発散のため箒をぶん回していた姿を、たまたま近くを歩いていた老剣士が目をつけた。彼の名はマーティン。かつて剣豪と恐れられた隻腕の男である。
再び心に火が灯った老剣士と、スポンジのように剣技を吸収する美麗な弟子の交流――。それはとても言葉では語り尽くせない熱い日々であったが、あえて一言で表現するならこうだろう。
メアリーは、べらぼうに強くなった。
ある晩、レティーシャの部屋に公爵の政敵が放った刺客が訪れたことがあった。宵闇に紛れ、門兵達を一瞬で無力化した暗殺者――。げに恐ろしき彼の前に最後に立ち塞がったのは、当時齢16の少女だった。
勝負は一瞬で終わった。気づけば暗殺者は、一度も剣を抜くことがないまま、地面に崩れていたのである。
「残念だけど、見逃してあげられないわ。アンタも私と同じように、レティーシャを利用しにきたんでしょ?」
遠ざかる意識の中、暗殺者は凛とした声を聞いた。
「レティーシャは私のものよ。私は私の目的のために、あの子を他の誰にも渡しやしないわ」
その暗殺者は、裏の世界で名のある男だった。彼が捕えられたことで、レティーシャ・ケンオルブルにはとんでもなく腕利きの用心棒がいると噂になった。そしてそれは、はからずもレティーシャ自身を守る評判になったのである。
「なんだか……わたくし、一部の界隈でとっても恐れられているそうですの」
レティーシャは、陽当たりの良いテラスでメアリーに勉強を教えながら、のんびりと呟いた。
「お父様から尋ねられましたわ。いつ用心棒なんて雇ったんだって」
「あらそう、雇ってなんかないのに、不思議なこともあるもんね」
「……メアリーちゃん。本当に何も知らない?」
「さあ。それよりレティ、これはなんて読むの?」
「アイリズベリィ。バスグム国の挨拶です。この一言で、おはようからおやすみまで表現できるのですわ」
「へぇ、変なの。そもそも他の国の言葉なんているのかしら? レティだって、この先ずっとこの国にいるつもりでしょ?」
「公爵家の娘とあれば、他国の方とも交流せねばなりませんわ。それに……そちらに嫁ぐことだって、あるかもしれませんもの」
レティの一言に、束の間メアリーのペンの動きが止まった。けれど、手はまた素早く紙の上を走り始める。
「……そう。それならせいぜい、いろんな国の言葉を覚えておくことね」
「あら、メアリーちゃんもよ? わたくし、一生懸命教えてさしあげるから」
「私も?」
「もちろん! だってメアリーちゃんは、わたくしと一緒にきてくれるでしょう?」
何の疑いもなく言うレティーシャに、メアリーは憮然とした顔を作ってみせた。だが、レティーシャにはきかない。メアリーがそんな顔をするのには、慣れっこだったからである。
「……ま、考えといてあげるわ。この間アンタが作ってたスライム型のクッキー、結構美味しかったし」
「あれはウサギですわ!」
「ウサギに十二個も突起物はないのよ」
「お耳は確か六本でしたよね?」
「待って。私の知ってるウサギとレティの知ってるウサギ、違う可能性出てきた」
レティーシャは、心底メアリーに心を許していた。そんな彼女が特に好きだったのは、メアリーを誘ってピクニックに出かけることである。その日は二人で早起きをし、好きな具だけを詰め込んだサンドイッチを作って、特別にブレンドした紅茶を携えていくのだ。
出かける先は、大抵森か原っぱ。そこでレティーシャは、よくメアリーに歌を聞かせた。晴れた日には弾むような歌を、曇りの日には心安らぐような歌を。それは、何度も聞いているはずのメアリーですら思わず聞き惚れてしまうほどに、素晴らしいものだった。
(長所が伸びるのは、いいことだわ。これからレティーシャは、社交界にも出ていかなきゃいけないんだから)
レティーシャの柔らかな歌声に包まれながら、メアリーは思った。
(ただ問題は……この子、私以外に歌を聞かせようとしないのよね)
それゆえ、レティーシャの歌の才を知るのは彼女の家族とメアリーのみだったのである。もっとも、レティーシャはまだ若かった。無理に人前で歌わせて喉を潰してしまうより、今は負担をかけない範囲で練習すべきだろうとメアリーは考えていた。
(それに、最終奥義はここぞという時に取っておくものだって、マーティン師匠も言ってたしね!)
こうして、二人の学園生活は穏やかに過ぎていったのである。けれど、いよいよ卒園が間近に迫ったある日。今しがた届いた手紙を読んだメアリーは、顔を真っ赤にして震えていた。
「ふっざけんじゃないわよ……!」
それは、公爵家からレティーシャ宛てに届けられた手紙だった。
「レティに婚約者ですって……!? 一体どこの馬の骨とよ!!???」
そのあまりの大声に、ちょうどカップケーキを焼いていたレティーシャはおろか、他の学生にまでケンオルブル公爵家の婚約事情が筒抜けになってしまったのである。