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プロジェクト・P1

桜のしおり

作者: 最勝寺蔵人

「とっとと歩きなさいよ」

スポーツバックをバックパックのように背負ったセーラー服の女性が、前にいる薄手のコートの男を押した。押された男はよろめいて、通りの角にある小さな建物の前に出る。

派出所だ。中に居た若い巡査は、何事かと腰を浮かして、こちらを見ていた。

「くそっ! めろ!」

抵抗する薄手のコートの男のお尻を、セーラー服の女性が膝で押し出す。開いた入り口から、薄手のコートの男を派出所内に押し込めると、セーラー服の女性はそれまでずっと男の後ろ襟を掴んでいた手を離した。

「痴漢を捕まえてきましたぁ」

その声には疲れが滲み出ていた。この痴漢を捕らえるだけでも大捕物だったのに、派出所に連れて来るのも抵抗されて、簡単にはいかなかったのだ。

相談受け付け用の机の向こうでは、若い巡査が腰を低くしたまま構えていた。入って来た二人は、警戒するに足る存在だったからだ。特に、女性の方は顔の目の部分に二つくり抜き穴があるピンク色の布切れを巻き付けていた。西部劇の列車強盗スタイルの覆面だ。額には、飾りなのか煌めく水晶のようなものが見えた。貼り付けるタイプのアクセサリーなのだろうと巡査は認識した。

不自然に後ろ手の姿勢で、机に半ば突っ伏していた男が、一旦動きを止めると、急に身を起こす。警察官はその動きの速さに驚いたが、セーラー服の覆面女性はすぐさま背中を突き倒す。

「ほっんと諦めが悪いわね、コイツ! お巡りさん、早く手錠を掛けて!」

そう言われて巡査は、コートの男の手首が結束バンドでくくられているのに気づいた。だからより頑丈な手錠を掛けろ、と言っているのだと理解したが、それに従う前に当然反発が生まれる。「はたして、この男は犯罪者なのか?」と。見かけで言えば、覆面女性の方が怪しい。しかし、罪悪感がなければ、ここまでのこのこと現れないのも自明だ。そこで、至った結論は理論的だった。

「ま、まず、何があったのかを話してもらえますか?」

先に口を開いたのはコートの男だった。

「俺は無実だ。その女に、あ、あと、ハダカの男に殴られて、縛られた」

「うるさい!」

覆面女性がコートの男の頭をパコンとはたく。

「ちょっと暴力は!」

巡査は、若くとも、交番内なのに暴力を振るう者の扱いに慣れていた。それだけ日常的に、喧嘩の騒動が持ちこまれているからだ。しかし、そういう展開に慣れているだけで、すぐに仲裁し沈静化できるわけではない。むしろ、下手に間に入り、顔に青痣あおあざを作ろうものなら、上司や先輩から「下手なことをするな」と注意されるだろう。制止はするが、巻き込まれない。それがプロの対応だった。

「お巡りさん、コイツを甘く見ていたらダメだよ。こう見えて、かなり力があるから。特に腕の、ち、か、ら!」

覆面女性の言葉の最後の方が力んでいたのは、もがくコートの男を押さえ込んでいたせいだ。

「それに、変な能力があるから。手が吸盤みたいに貼り付くの。おかげで、私の服、こんなんになっちゃった」

それで巡査は、覆面女性がずっと左手で胸元を押さえ続けている理由を理解した。服の胸元が破けて、はだけそうになっているのを手で押さえていたのだ。

巡査は、それだけでなく、重要な事実にも気付く。

「H案件か?」

半ば独り言が漏れた形だったのと、内部用語だったので伝わらなかった。覆面女性が聞き返す。

「え?」

「だから、能力者……ヒーローのように特別な能力を持っている、ということですか?」

「え? ……まあ、ヒーロー候補というか、見習い、駆け出しみたいなもの?」

照れたように答える覆面女性に、巡査は自分の質問が勘違いされていると悟った。

「いや、そうではなくて、この男性――」

「違う! 俺はっ――」

またコートの男が暴れ出そうとし、覆面女性が膝でお尻を蹴る。その勢いはかなり強く、巡査としては止めなくてはいけないレベルだったが、コートの男が暴れ出した時の、机の揺れがかなり激しく、「確かにこれは押さえ込まないといけないな」と納得した。ゆえに、敢えて暴力行為を慎む注意は控えた。

「コイツはヒーローなんかじゃないわよ。卑劣な痴漢。……でも、普通の人の手に余るというのは、じ、じ、つ」

また、力を込められて、コートの男が大人しくなる。

巡査はすかさず、肩口に付けているトランシーバーに向けて話し出す。

「こちら、諏訪すわです。延則のべのりさん、ドーゾ」

数拍置いて、電子ノイズ混じりの声が返ってくる。

「はい、こちら延則のべのり、どうした?」

「こちら、持ち込みです。H案件。繰り返します。H案件」

「H案件? ……了解。直ちに戻る」

「あ、それと、痴漢の件も持ち込み。民間人逮捕です」

「了解」

連絡を終えると巡査は、変わった二人に落ち着くように手振りで示す。それで落ち着くなら、交番案件にならないのだが、そちらへ進むよう方向性を示す事は重要だ。

まず、コートの男を座らせる。拘束を解くように言われたが、「安全が確かめられたら」と言って、先延ばしにした。しかし、巡査には拘束を解くつもりがなかった。覆面女性の言うとおりなら、こちらが制圧されないからだ。

だからと言って、再び覆面女性が訴えてきた、手錠を掛けることもできなかった。明確な根拠がない限り、市民に手錠を掛けてはいけないからだ。皮肉なことに、「この男にはやはり手錠が必要」と悟った時は、手遅れになるしかない状況だった。だから、手錠より信頼性が低いが、結束バンドで拘束されている姿は、巡査にとってありがたかった。

巡査は今のところ、過剰逮捕と考えていなかった。最初はより異様な女性の方へ警戒が向いたが、薄手のコートの男も、複数の痴漢被害の届け出があった被疑者に格好が似ていた。態度、雰囲気からして、クロだとすら思っていた。しかし、先入観だけで判断してはいけないと、警察内では度々言われている。先入観、すなわち勘を信じるな、とまで極端な意見はさすがにないが、それだけに頼るな、といういましめは繰り返されている。問題が起きた時にマスコミや市民に叩かれやすいポイントだからだ。ゆえに、巡査も、まずは両者の言い分を聞くように進める。

しかし、これは簡単ではなかった。巡査は決して口にしなかったが、覆面女性が手を上げてしまうのに同調できるほど、コートの男がうるさかったのだ。本来、この手の聞き取りは、両者から別々に事情を聴く。しかし、今は派出所に警察官は一人しかおらず、やってきた二人はどちらとも目を離すべきではない存在だったので、一緒に対応するしかなかった。教本的には、痴漢の目撃情報を受けて確認に出た巡査長が戻ってから話を聞くべきなのだが、現実には苛立っている市民を待たせることがリスクだ。だから、慣例どおり、同じ場でそれぞれの言い分を聞く。コートの男は席に座ったが、覆面の女性は立ったままだ。同じ机に座るのは、事情から当然嫌がるとして、隣の机に座るのも拒否した。これは、いざという時コートの男を押さえなくてはならないから、と考えているようだったので、巡査もそのままで任せた。

コートの男からの妨害を交えながらなんとか聞いた覆面女性の主張は、以下のような内容だった。

以前、痴漢被害に遭っている女性を見つけたが、その時に勘違いして、痴漢犯を逃がしてしまった。それで、今度は自分がおとりになって捕まえた、というものだ。これは、日本の警察では特例を除き認められていないおとり捜査と言えた。だが、市民が自発的に試みる分には、警察は「問題だ」と言うつもりはない。もちろん、その最中で法を逸脱いつだつする行為がなければ、の話だったが。

最初に、覆面女性が痴漢を見かけたという事件についての詳細、またこのコートの男を取り押さえる際にどういうやりとりがあったのか、と、聞くべきことはまだまだあった。しかし、それは後回しにして、次にコートの男の言い分を聞く。

一方、コートによる男の主張は明快だった。自分は、町を歩いていたら一方的にこの覆面の女性と、もう一人半裸の男に襲われて、縛られてここに来たという内容だった。半裸の男の存在は、覆面の女性もあっさり認め、その名を口にする。

「私一人じゃ危なかったんだけど、パンツイッチョマンに助けてもらった」

パンツイッチョマン。これは警察内部で急速に広まった怪人の名称だった。一番のきっかけは、戸羽公園で起きた大規模傷害事件だ。パンツイッチョマンと名乗る半裸の男が、桜の花見客を大量にノックアウトした事件で、その様子が一部動画としてウェブに載っていた。ただし、ノックアウトされた花見客は酒を飲んで暴れていた者たちで、治安維持の観点では、パンツイッチョマンは一定の役割を果たしていた。しかし、暴力行為は暴力行為。捕まえて問いたださないといけない、という認識が、近隣の警察官に共有されていた。

一部、主に事件の後処理を任された警察官たちは、大量の傷害被害届を受け付けなくてはいけないと思っていたところ、実際にはほとんど被害届が出なかったことで、パンツイッチョマンの行為を、口には出せないが、評価していた。どうやったかは謎だが、パンツイッチョマンに殴られては気を失った者は、そのあたりの記憶が無く、怪我もほとんどしなかったので、訴える理由がなかったのだ。また、もしパンツイッチョマンが現れていなかったら、酔っ払いによる喧嘩が広まって、その事件の処理も大変になっただろうと推察された。パンツイッチョマンは、それを未然に防いでくれた存在でもあったからだ。

しかし、この時、交番にいた巡査は戸羽公園の事件の後処理にはほとんど関係せず、パンツイッチョマンを要確保対象として認識していた。

「そのパンツイッチョマンは今どこに?」

巡査の問いに、覆面の女性が肩をすくめた。

「私にこいつを任せて、どっか行っちゃった?」

コートの男がまた口を挟む。

「お巡りさん、俺より、そのハダカ男を早く捕まえてくださいよ。まだ近くにいるはずです。何なら、俺も手伝いますから、早くこれを」

体を揺するのは、後ろ手に縛られた結束バンドを解けという仕草だろう。しかし、巡査は敢えてそれを無視する。ある程度落ち着いたようだし、供述を紙に残そうと書類を取りに一時的に席を外す。

H案件。異能者の存在する、ここゴツゴウ・ユニバースでは、当然その異能を犯罪に利用する者も存在した。幸か不幸か、日本には異能者が少なく、異能者による犯罪も表面化する事は稀だ。しかし、様式フォーマットとして、異能者が関わる事件を記録する用紙は用意されていた。

「よろしければお名前をお聞かせ願えますか?」

作成日を記入した後、巡査がさらりと聞く。漢字がややこしいので、自署させるのが一番良いのだが、非協力的な相手の場合、書類を引き裂かれる事もある。巡査が予期していたとおり、コートの男は答えなかった。彼の場合、手を縛られているので、自署も難しい状況だ。もう一人の関係者である覆面の女性は、少し考えてから答える。

「本名じゃなくてもいいの?」

「ああ、そうか。……はい、では通り名を聞かせてもらえますか?」

「ファ……ファンタスティック・チェリーです」

コートの男が「けっ!」とバカにしたように舌を打つが、巡査は気にしない。不機嫌な相手はたいていこういう態度だ。

「ファンタスティック・チェリーさん、っと……では、ヒーロー連盟から与えられたコードを教えていただけますか?」

「え?」

覆面の女性の声色の変化に、巡査は書類から目を上げる。声から想像したとおり、覆面の女性は硬直していた。

「あ、うん、コードね、コード。……えーと何だったかなぁ」

警察官は嘘を見抜く技術に長けている。しかし、覆面の女性の態度は子供でも見抜けるごまかしの態度だった。

「認定ヒーローじゃないんですか?」

スイスのヴァイゼンバークに居を構える世界ヒーロー連盟。そこでは、異能者をヒーローとして認定する試験が定期的に開催されていた。そこでの試験を突破した者が、晴れてヒーローとして胸を張れるわけだが、その身分を証明する物の一つが、認定時に与えられる英数字からなる文字列コードだ。認定ヒーローは、その存在を公表する公式ヒーローと、ひとまず秘匿する匿名ヒーローという、二つの道を選べる。日本における公式ヒーローは現在、花鳥風月かちょうふうげつだけなので、巡査は覆面の女性を匿名ヒーローだと仮定したのだが、どうやら違うらしい、と判断した。

「えーと、私、ちゃんとヴァイゼンバークに行ったんだよ! そこで、試練にも挑んでやり通したし……でも、コードって、ど、どうだったかなあ」

なおも取り繕う覆面の女性。しかし、その言い訳に「認定ヒーローだ」という断言がない事に巡査は気付いていた。もっとも、断言があっても嘘であれば頼りにならない。今、必要なのは証拠だ。

「コードがないなら、一般人として処理しますので、本名をお聞かせいただけませんか?」

「え! 本名? ちょ、ちょっとそれは……」

クククと笑うコートの男に、巡査はチラリと視線を向けた。本名を聞き出したい相手は、コートの男も同じだ。小気味よいと思っていたコートの男も他人事ではないと気付いて、口をつぐんだ。

「認定ヒーローと証明できなければ、傷害事件としての調書も場合によっては必要になってきますが……」

コートの男を勢いづかせたくはなかったが、可能性について言及しておく責任が巡査にはあった。認定ヒーローだからといって、全ての暴行が許されるわけではないが、治安を守る者としての前提があるので、処理上は警察官と同等に信用されて進められる。しかし、一般市民であれば別だ。加害者と被害者に、物事がハッキリするまで区別はない。

「ちょ、ちょっと! 私が何で犯人扱いされるみたいになるのよ!」

「そりゃあ、お前が傷害事件の犯人だからさ」

覆面の女性に、ケケケと笑いかけるコートの男。覆面の女性はそちらを睨むが、今度は手を出さない。巡査の一言が効いているようだ。

その時、交番の入口に痴漢の目撃情報を確かめに出ていた巡査長が戻ってきた。中にいる巡査に軽く敬礼をした後、訪問者の二人に目を向ける。彼もすぐに、ふたりの異様さに気が付いた。

薄手のコートの男は、これまで複数の被害届が出ていた被疑者にそっくりな格好だった。今回、巡査長が確認に向かったのは、戸羽公園で騒ぎを起こした者と同一だと思われる半裸の男だった。諏訪すわ巡査から「痴漢の件の持ち込み」と報告を受けた際、入れ違いで捕らえられた半裸の男が連行されたのかと考えていたが、違った。だが、おそらく()()()なのは変わりない。この男が、後ろ手に縛られているのも異様だった。手錠の有効性を良く知る身だからこそ、実践的だと感心するが、そこにはもちろん違和感がある。

もう一人の女性は、ピンク色の布を顔に巻き付けていた。ご丁寧に目の部分をくり抜いているので、()()なのはわかった。状況からして、コートの男を後ろ手に縛り付けたのも彼女だろう、と巡査長は判断した。覆面とセーラー服のせいで、詳細な年齢はわからなかったが、若いのは間違いない。ならば余計に厄介な相手だと、巡査長は気を引き締めた。

「ご苦労様です」

一応、市民の二人にも敬礼をしながら声を掛けると、巡査長は若い巡査に確認をする。

「状況は?」

巡査は席を立つと、入口へと近づき、小声で話す。

「痴漢の届け出。被疑者は男性。捕まえたのは、あちらの女性。パンツイッチョマンと捕まえたと言っています」

巡査長は驚くと、さらに一歩外へ出る。

「当該者は?」

「逮捕協力後、その場から去ったようです」

「……H案件というのは、やはりパンツイッチョマンか?」

目撃された運動能力の高さから、パンツイッチョマンが匿名ヒーローだという噂が立っていた。警察とヒーロー連盟は、協力態勢を築いていたが、匿名ヒーローの正体を問いただせるほど、親密あるいは強い立場にいなかった。ヒーロー認定コードを元に照会してくれる程度だった。故に、パンツイッチョマンは謎めいた存在だった。

「いえ。二人ともです」

巡査長はさらに驚いた。H案件は話題として良くのぼるが、実際には関係ないものだと認識していたからだ。なぜなら、日本には認定ヒーローが実質一人しかいないからだ。H案件書類を書くなら、花鳥風月かちょうふうげつがらみだと思っていた。

「ですが、二人ともヒーローレベルの実力はないようです。女性の方は、認定試験を受けたと言っていますが、認定コードを知りませんでした。男は、手が吸盤みたいに張り付く能力があるようですが、非認定ヒーローに捕まるくらいですから……」

巡査長は頷くと、席に戻るように巡査を促す。いつまでも放置するわけにもいかない。

しかし、楽観気味な巡査と違い、巡査長は認定ヒーローでなくとも、二人を警戒していた。認定ヒーローに至らなくとも、一般人の力を凌駕りょうがしうる境界型の存在について、かねてから懸念していたからだ。

「お待たせしました。お話の続きを聞かせてください」

そう言う巡査長だが、詳しい続きは知らない。これは二人の市民に向けていながら、再び着席した巡査への指示だった。

「では、改めて別々にお話を聞かせてもらえますか? えーと、ファンタスティック――」

書類を見ながら、巡査が話している途中に、覆面女性が強張った声で割りこむ。

「私は、これ以上、話す事なんてない!」


ファンタスティック・チェリーこと、青梅あおうめさくらは、追い詰められたと感じていた。悪者を捕まえたと得意げになっていたので、自分が暴行犯として認識されるとは考えていなかった。しかし、一度その認識が得られると、言い逃れできないほど暴れた自覚があった。相手が普通の人であれば死んでいたかもしれない、と今となっては思う。そういう観点から言えば、桜は自身が有罪だと思う。だが、心では正しい事をしたと信じていた。これで有罪になるなら、法律の方が間違っていると思う。気になったのは、認定ヒーローだとすんなり話が通ったかもしれないという点だ。仕事を探す時に、資格が重要だと意識させられたが、こんな所でも資格者は強いのか、と半ばウンザリさせられる。

「大丈夫ですよ、まずはお話をお伺いするだけですから」

そう言いつつも、後から来た中年の警官は、右手を腰に当てていた。拳銃入れ(ホルスター)のボタンはいつの間にか外されていた。ホルスターは早撃ちできる作りではないようだし、日本の警官が先に発砲するつもりがないとは信じていたが、いざとなれば撃つ気なのはわかった。

〝強行突破するしかないか〟

屈強な警察官でも一人なら突破する自信が桜にはあった。しかし、二人で前後から挟まれると少し厳しい。そこに、痴漢男が加わるとかなり難しい。縛られていても力が強いのはわかっている。体当たりされると倒されかねない。

〝出るか出ないかわからないビーム、使うしかないのかな〟

桜の奥の手たる技、出るか出ないかわからないビーム。自分でも仕組みはわからないが、額の水晶のようなものから破壊光線を出すことができるのだ。破壊光線といっても、調整次第で相手を吹き飛ばす衝撃だけにカスタマイズできた。だが、問題点は複数あった。一つは、使った回数が少ないので、自分の調整力に自信がなかった。さすがに穴を開けるほど間違えるまではしないが、吹き飛ばしすぎる可能性はあった。最大の問題は、その名のとおり、ビーム攻撃が本当に出るか出ないかわからない点だった。一度試みれば、出るか出ないかの結果に関わらず、再チャージに数分掛かる。そして失敗する確率の方がむしろ高い。総じて、出るか出ないかわからないビームを使って突破する策は、良い手とは言えなかった。

桜は悩んでいたが、巡査長の方は経験から相手が飛びかかってくる気配があると感じ取っていた。必然的に両者の間で緊張感が高まり、それを感じ取った若い巡査も危機感を募らせ始める。

「落ち着いて――」

水を差すべく、巡査が投げ掛けた一言。ここまでは良かった。しかし、続く言葉が事態を悪化させる。

「無駄な抵抗は止めなさい」

若い巡査にすれば、深い意味はなく、投降を促す時の決まり文句でしかなかった。そして、意味も間違ってはいなかった。この場を突破できる能力の持ち主でも、警察という組織には敵うわけがなく、敵対せず逃げ隠れするなら、日常生活をまともに暮らせなくなるからだ。

しかし、桜にとって、あるフレーズがしゃくに障った。

()()かどうか、やってみなきゃわからないじゃない」

自分に普通の人とは違う素質があると意識してから、ヒーロー認定試験に挑むまで、「やっても無駄」という言葉は桜の中にずっと渦巻いていた。心からそう信じていたわけではない。むしろ、願望はその逆にあった。しかし、殻を破るにあたっての不安や、ヒーロー認定試験に挑む際への金銭的な負担が、実行の足を引っ張った。「やっても無駄」という言葉は、その頃の自分への言い訳だった。

そして、お金を何とか貯めた後、勇気を振り絞って挑んだヒーロー認定試験に、桜は落ちた。その時感じたのは無力感ではなく、悔しさだった。パンツイッチョマンと名乗る半裸の男にあしらわれた時も、悔しさが勝った。その後、パンツイッチョマンに対しては、ヒーローとしての格の違いを見せつけられて、悔しさが消えたかと自分でも思っていたが、心の奥にしまわれただけだった。その悔しさが、警察官から「ヒーローじゃないんだ。だったら話にならない」という感じの扱いを受けた事で、再び表面化してきていた。その悔しさ、怒りが、躊躇ためらっていた、出るか出ないかわからないビームを使用する精神上の安全装置を外してしまう。

「もう、どうなっても知らないんだからね」

そう言い放つと、桜は手首を交差させ、その交点を額の怪しく輝く水晶のようなものが者の前に持ち上げる。

緊張感の高まりは、痴漢として捕らえられたコートの男も感じ取った。

「おいおい、マジかよ!」

そう口走ると、コートの男は後ろ手に拘束された不自由な姿勢のまま、椅子ごとガリガリと移動して、少しでも巻き込まれないように距離を取る。

一触即発の状況。その時、若い女性が交番前に飛び込んできた。

「あの、すみません……」

息を切らせているその女性に皆の視線が注がれ、結果的に緊張の爆発は一時停止される。

「あ、あの……」中年の巡査長へ話しかけていた女性は、交番の中へと視線をずらし、桜の上でその目を留めると、片手を上げて振った。

「あ、やっぱりいた!」

他の人たちの視線が桜へと注がれるが、桜は相手が誰だか良くわからなかった。キョトンとしている間に、新しく来た背の低い若い女性は、入口にいた巡査長の横を通り、桜に近づいてくる。その途中で、端へと移動していたコートの男に気付く。

「あ! この人です! 私、この人に触られました」

この一言が決定打となり、緊張感が霧散した。特に、警察官の二人の意識が槍のように、コートの男へ突き立てられる。

背の低い女性は、二人の警察官にほとんど見覚えがなかった。制服を着た警察官という印象しかなく、顔を覚えていなかったからだ。だが、警察官たちは彼女が痴漢被害を届け出た時に対応し、彼女の顔も覚えていた。その時の証言どおりの男がコートの男だと思っていたが、本人確認が済んだならほぼ間違いない。

彼女の一言で認識が変わったのは、桜も同じだった。

「あ! あの時の……」

以前、女性の悲鳴を聞きつけて助けに駆けつけた時の痴漢被害者が、目の前の女性だと、ようやく気付く。あの時、桜は、同じく痴漢犯を捕らえようと、先に現場に来ていたパンツイッチョマンを痴漢と誤解して、結果、本当の痴漢を逃がしてしまった。あの騒動で一番印象に残っていたのは、やはりパンツイッチョマンの黒パンツのみの半裸の姿だった。被害者の女性とはその後少し話したが、きつく睨まれていた印象しか残っていなかった。そう思い出して、桜はすぐに思い出せなかった理由がわかった。眼差しが全く違ったからだ。

「……でも、どうして?」

桜が交差していた両手を下ろすと、背の低い女性はその手を取って軽く振る。友人に出会えて嬉しいという仕草に、警官たちの注意はなおさら薄まる。むしろ、新たな痴漢被害者の登場にマズいと感じたコートの男が、逃げ出したいという気持ちを察知して、がっちりと挟み込むような位置に立つ。

「パンツイッチョマンが、あなたが困っているかもしれない、と言ってたから」

「え? あの人が?」

驚きに桜の思考は停止する。訳が分からなくて、パンツイッチョマンへの新たな気持ちすら湧いてこなかった。どうするべきなのか、その時の彼女は全くわからない状態になっていた。

「逃げたいのでしょ?」

背の低い女性がささやいた。彼女は、出るか出ないかわからないビームが照射される場面を見た数少ない一人だった。桜が両手をクロスさせていた意味を、そして危うい状況だった良く理解していた。

「え? ……うん」

呆けていた桜の目に、再び強い光が戻る。

「だったら、ここは私に任せて」

「で、でも……」

ここで背の低い女性は、突然話の流れを変える。

「丘の上の公園ってわかる?」

「え? ……うん」

「だったら、そこで待っていて」

言い終えると背の低い女性は、姿勢を変えて通り道を作りながら、桜の腰に手を伸ばし、軽く叩く。説明されなくてもわかるゴーサインだ。

桜は頷くと駆けだした。

「あ! ちょっと待て!」

怒鳴り声に近い声を掛けられた直後、女性が取りなす声が聞こえる。

「大丈夫です。後は私が引き継ぎますから」

その発言が攻を奏したのか、桜の後をつけて駆け出す足音は聞こえなかった。



「ごめんなさい。遅くなっちゃった」

桜の窮地を救ってくれた女性が来たのは、桜が公園に着いてから三十分以上経ってからだった。着くまでに少し迷ったので、総待ち時間はもう少し長くなる。それぐらい経つと、「ここで合っていたのかな」とか「すっぽかされたのかな」と不安になっていたところだったので、遅くなったことへの怒りより、やって来てくれたことへの安心感にホッとする。

「ううん。大丈夫」

待った人の性格がストレートか、二人の関係が親密でない限り、待った者の言葉はたいていこんなものになる。その反応を予想していた背の低い女性は、この返事を額面どおりに受け取らなかった。重ねて詫びる。

「公園、って言ったのも最悪だったね。ごめんなさい。怖かったでしょ? 咄嗟とっさに『二人で静かに話せる場所』と考えたら、思い浮かぶのはここしかなくて。夜の公園(・・・・)って意識もなかった。ホンットにごめんなさい」

自分の頭に軽く拳を当てた後、頭を下げる背の低い女性に、桜はギャップを感じていた。「夜の公園は怖い」という印象が、桜にはなかったからだ。その理由は、自身の強さだろう。

中学生くらいの頃にそこらの男には負けはしない、と思うようになってから、桜は基本的には怖いもの知らずだった。幽霊系の怖さは未だにあったが、それも特に苦手というわけではない。

「いや、ホント、大丈夫だから」

桜はそう言うと、顔を上げてもらおうと詰め寄った。二人は、公園のブランコ前で話していた。桜がブランコに座って待っていたからだ。

「それで……」

話は何? と聞こうとしたが、桜は口ごもる。初めて会った時の失態を謝らなくてはならなかったし、交番での窮地きゅうちを助けてくれた感謝もしなければならなかったからだ。質問を合わせての三つのカードのどれから切ればいいのか、悩んでしまう。

話の切り出しに迷っていたのは、背の低い女性も同じだった。ただし、こちらはすぐに、正しいと思う方法を提示する。

「まず、自己紹介しなくちゃね。私は、友庫ともこ史織しおり。大学生」

そう言って、握手を求めるように右手を出した友庫ともこは、桜の顔を見て、一瞬止まってから、差し出した手を自分の顔の前で左右に振る。

「あ、ごめんなさい。『どちらが名前?』ってなってるよね? いいの、いいの。いつもの事だから。友庫ともこの方が名字。史織しおりが名前。みんなは『トモちゃん』って呼ぶ方が多いかな」

そこで、気が付いたように付け加える。

「あ、年齢とし幾つだっけ? タメで良かったよね」

が、聞いてすぐ自分で否定する。

「あ、だめだめ。ヒーローに年齢なんか聞いたら、失礼だよね」

「ううん。歳くらいいいよ。顔ももう隠していないし」

待っている間、桜は公園のトイレで着替えを済ませていた。汚いトイレは使いたくなかったが、破れたセーラー服を着続ける方がキツかった。幸い、トイレは思っていたよりキレイだった。その時に、顔を覆っていたピンクのバンダナも外していた。友庫ともことは既に素顔で出会っていたので、隠す意味も薄かった。

二十歳はたち

「え? 年上? うそっ、見えない。年下だと思ってた」

桜はどう受け止めていいのか少し悩む。もっと年を取ったら「若く見られた」と喜ぶのだろうと思うが、今はまだ「あなどられた」と思うべきなのかと考えさせられる。相手の顔を見て、悪意がなさそうだと判断すると、桜は頷いた。

「ううん。いいよ。気にしないで。……で、幾つ?」

「十九」

「今、十九で、今年二十歳?」

「ううん、もう誕生日来たから――」

「へえ。じゃあ一つ年下なんだ」

言われていなければ、桜は友庫ともこへ敬語で話していたところだった。背も低いし、どちらかと言えば童顔なのだが、しっかりしている雰囲気から、そう感じていた。普段、桜は客商売をしているので敬語が出てきやすいせいもあるのかもしれない。

「うん、いいよ。お互いタメでいこう」

「じゃあ、私は何て呼んだらいい? ――あ、本名じゃなくていいんだよ。ヒーローネームってやつ?」

「えっと、一応、ファンタスティック・チェリーって事になるかな」

「ふーん、ファンタスティック・チェリーかぁ。……どういう想いを込めたの?」

「そ、それは……」

桜は言葉をにごしながらも、ポツポツと説明する。実は十六の候補を考えていた事。その中で、一つ二つに絞ったつもりだったが、捕まえるつもりの痴漢に聞かれたら、ド忘れして思い出せなかった事。そして、苦し紛れに地面に転がっていたひしゃげた清涼飲料水の缶に書かれていた製品名を読み上げてしまい、慌てて途中から変えた事も、正直に告げた。急ごしらえの名前に自信がなく、その言い訳だった。

「それはダメよ!」

桜の予想外に、友庫ともこから強い抗議の声が上がった。

「だって、あなたがこれから有名になった時、競合企業からのCM依頼が入ってこなくなるでしょ?」

ピンと来ない桜に、友庫ともこの説明は続く。

「そりゃあ、逆に、そこからは早くから、イメージキャラクターになってくれ、って言われるかもしれないけど……」

そこで、桜は、元となったひしゃげた缶の清涼飲料水が好きか、と聞かれた。

「うーん。……特に、好きでもないかな」

「だったら、余計よ! 好きでもないジュースを何度も何度も飲まされるのよ。仕事とはいえ、辛くない?」

「そうかも……」想像した桜は同意したが、すぐに吹き出して笑う。「でも、未だ気が早いっていうか、有名人になれるかどうかも――」

言いきる前に、友庫ともこが遮る。

「なってからじゃ遅いんだって。こういうのは最初が肝心なんだから……。よし。決めた! 私が一緒に考えてあげる」

桜はそれに同意しなかった。そう考える前に驚いていたからだ。しかし、友庫ともこは公園内を見回すと、ベンチを見つけて、そちらへ移るように促し、歩き出す。

「今から?」

桜が友庫ともこの背中へ声を掛けながら、着いていく。

「うん。だって、次いつ会えるかわからないでしょ?」

「でも、時間が掛かるし、いいよ」

「……別に、これで確定させる必要なくて、候補の一つと考えてもらったら……」そこで、友庫ともこはクルリと振り返ると、少し前屈みの姿勢を取る。「前から考えていた候補もあるって言ってたけど、慌ててたからといってこんな名前付ける人だから、私は信用してないわよ」

友庫ともこは明るく笑うと、先にベンチに座り、桜へ隣に座るよう、ベンチをペチペチと叩く。

「それに、痴漢を捕まえてもらったお礼みたいなもんでもあるし」

「それだったら、私も、逃がした責任あるし……。危ない目にも遭わせちゃったし……」

友庫ともこは桜を見上げて指差した。

「それ! 確かに、私は殺され掛けたんだから。そのお詫びとして、座りなさい」

そう言われると、桜も従うしかない。

「あれ? そういえば、そのおでこ。ビームが出るキラキラなかった?」

言われて桜が前髪をかき分ける。額の水晶状の物は、今は黒かった。明るかったら大きなホクロのように目立つのだが、ベンチの近くにある街灯に近寄ったからといって、薄暗いと目立たない。

「うん。今は活性化させていないから、黒っぽい。ほら!」

「あ、ホントだ。色も変えられるの?」

「うん、黒くするか活性化するかだけだけど。この時はビームが出せないんだ」

「へえ。それじゃあ、いざという時に困らない?」

桜は激しく同意する。

「ホント、それ! あの痴漢を捕まえる時に、出るか出ないかわからないビームを出そうとして、準備できていなかったから、危なかったんだ」

友庫ともこは、肩に掛けていた大きな手提げカバンから、タブレット端末を取り出したところだった。それを膝の上に置いて、深刻な目になる。

「大丈夫だったの?」

「あ、うん。結果的に。さっきまで着ていたセーラー服は破られちゃったけど、後は……まあ、擦り傷とかもたくさんあるけど……」

友庫ともこの顔がどんどんと深刻そうになる。話している桜も、絶体絶命のピンチだったし、タフな戦いだったと改めて認識させられた。しかし、そういう思いが残っていなかったのも、今大変だったと思っても気楽にとらえられるのも、ある理由があったからだと気付く。

「パンツイッチョマンが助けてくれたから――」

友庫ともこの表情がパッと変わった。驚いた顔だったが、明るい驚きだった。

「そうそう、パンツイッチョマン! 私もあの人に、駅前で突然話し掛けられて、本当にビックリした」

そこは桜にとって、興味深い点だった。交番で危ない状況にやって来てくれた友庫ともこから、確かにパンツイッチョマンから指図されたと聞いていた。そこまで、自分はパンツイッチョマンに助けてもらったのか、詳しい話を聞きたかった。

「なんて言われたの?」

「確か……『例の痴漢を捕まえた』……『近くの交番に連行したが、困っているかもしれないから、助けてやってくれないか』とか言われたと思う」

桜は黙って頷いた。これで、助けられたのは明白になった。友庫ともこを誤って殺さずに済んだ件から、もうどれだけ借りを作ってしまったかわからない。いつか必ずこの借りは返そう。桜は心の中で誓う。

「最初は、パンツイッチョマンさんが困っているのかな? と思ったけれど、ここにいるし、そしてすぐに居なくなっちゃうし、取りあえず、命の恩人の頼みだし、急がなくちゃと走ったら、あなたが居たのよ」

「うん。本当に助かった。ありがとう」

ようやく、お礼を言えて、桜は心の荷が一つ下ろせた。

「ううん。いいの。っていうか、お互い様でしょ? でも、私、パンツイッチョマンさんには未だお礼を言えてないんだよねぇ」

「それは私も」

桜は笑った。

「あ、そうなんだ! あの人、いきなりあんな姿で現れるから、ビックリしてお礼とか言える状態じゃないよね? あと、すぐに立ち去っちゃうし」

「うん、逃げ足が速いよね?」

「逃げ足って、それじゃあ、悪い人みたいじゃない。……でも、駅前でもそうだったけど、変態だ、って周りがなって、通報される前に居なくなっちゃうから、逃げ足って言われてもしょうがないよね」

二人が声を合わせて笑った。

「でも――」友庫ともこが何か言いかけて眉をひそめる。「ん、もう! やっぱり、名前を先に決めておかないと、話しにくいわね。決めちゃいましょう」

友庫ともこがタブレット端末を起動する。

「まずは、一応、ファンタスティックを調べてみましょう」

タブレット端末が操作できるようになると、友庫ともこは慣れた手つきで入力、検索をする。

「素晴らしい、こと。幻想的、とかそういうことね」

桜は、詳しい意味をわからずに名乗っていたが、だいたい合っていたと安心した。

「アメイジングというのもそんな感じよね」

「アメイジング・チェリー」

桜は呟いたが、しっくりこなかった。とはいえ、ファンタスティック・チェリーもしっくりきてはいない。

「……チェリーにこだわりあるの? 好物とか?」

桜はニヤリと笑った。チェリー=サクランボという認識は普通の日本人として間違っていないのだが、そもそもチェリーという英単語の意味は別だ、と教わってから日が浅かったからだ。

「チェリーって桜って意味があるんだよ」

受け売りの言葉を告げてから、桜の先が繫がっていないことに気付いた。少し考えてから、まあいいや、とその先の理由も告げる。

「桜が私の名前なの」

「え!? ごめんなさい。立ち入った事を聞くつもりなかったのに……」

「ううん。気にしないで。名前だけだし」

「うん。……桜かぁ。……そう言えば、チェリー ブロッサムって言うよね」

友庫ともこが独り言のように呟いた。おかげで、桜は相づちを返さずに済んだ。言われたのは英語だとはわかるが、意味はわからなかったからだ。

「じゃあ、チェリーは残すとして、頭に付ける単語を探しましょ。……何か希望はある?」

「うーん、家に帰ったら、メモはあるんだけれど……」

桜はその時、自分で考えた候補を幾つか思い出していた。だけど、無理矢理絞り出したのもあって、自分でもイマイチだと感じていた。だから、今のところ提示するつもりはなかった。

「じゃあ、とりあえず、この周りを探しましょうか」

そう言うと、友庫ともこはタブレット端末をスワイプする。

「ウェブ辞書は、特定の単語を調べるには便利だけど、こういう調べ方をするのはやっぱり本物の辞書が便利よね」

「へぇ。デジタル辞書なんだ!」

「うん。……でも、結局調べるのは検索した単語ばっかだから、今みたいな使い方するのは、今回が初めて」

友庫ともこが笑った。

「あ、これなんかどう? ファナティック……熱狂的とかいう意味だって」

「熱狂的かぁ」

意味はわかるが、桜の日常的な語彙の中にはなかったので、イメージが掴みづらい。それについて考えていると、友庫ともこが自分で否定する。

「あ、ダメだ。狂信的とかいう意味もあるから。……カルト的なやつ?」

桜もそれには拒否反応があった。

「パスパス。宗教的なやつは、ちょっと……」

「だよねぇ。……じゃあ、テキトーにストップと言ってくれる?」

友庫ともこが目を閉じると、タブレット端末をでたらめにスワイプ送りする。本でいうと、パラパラとページをめくっている行為に、意図を理解して、桜は少し待ってから「ストップ」と声を掛ける。

「えーと、どれどれ、何か面白い単語はあるかな? ……これはどう? フリップ・フロップ」

「フリップ・フロップ? ……聞いた事ないけれど、音楽の用語か何か?」

「ううん。コンピューター用語みたい。……実は、私も聞いたことがない。へへ。……なんか、回路がどうとかだって……」

興味を失くしたようにいうと、友庫ともこはさらにページを進める。桜も同じく流すつもりだった単語だったが、コンピューター用語と言った友庫ともこの一言で、急に引っ掛かりを覚えた。

「ちょっと待って。コンピューターといえば、アレよね? ……ほら、0(ゼロ)か1(いち)か、ってやつ」

友庫ともこは、桜の聞きたい真意を測りかねて首を傾げたが、言われた内容に対しての返事はする。

「うん。そうね。デジタルってやつでしょ?」

「そっか、デジタルってそういう意味だったんだ……。それはともかく、0(ゼロ)か1(いち)か、って、とっても私らしいと思わない?」

今度も友庫ともこにはよくわからなかった。頭をいて、「うーん」と答える。すると、桜は片手で前髪を上げて、おでこを出した。

「ほら、出るか出ないかわからないビーム。まさに、0(ゼロ)か1(いち)じゃん」

友庫ともこは答えられなかった。出るか出ないかわからないビームについて、よくわからないせいもあったが、それ以前に、驚きから思考が一時停止していた。

「あれ? そのおでこ……」

桜はニヤリと笑った。彼女は、見えずとも、額の水晶のような物体が輝きを取り戻しているのを感じ取っていたからだ。

「うん。チャージ完了。……ちょっと、見てみる?」

「う、う~ん」

友庫ともこは困った。興味としてはあったが、引き起こす被害について考えると、躊躇ためらわざるを得なかったからだ。なんせ、友庫ともこはそれで死にかけたのだ。

「大丈夫。今度はちゃんと手加減するし。……あの像なんか、ちょうどいいかな」

桜が、離れた所に立っている銅像を指差した。胸から肩くらいの高さまである台座に乗った、たきぎを背負って、本を読んでいる少年の像。二宮尊徳像だ。

桜の態度に、やる気だと悟った友庫ともこは、ため息をついて見守る覚悟を決めた。

「大丈夫? 今度も倒したら弁……」

友庫ともこは、言い切る前に言葉を飲み込んだ。民家の石塀に開けた穴を放置して逃げた前回の対応から、桜が不始末のけじめをちゃんとつけない人だとわかっていた。それは彼女自身が、壁の穴の修繕をちっぽけな出費と思うほどのお金持ちではない事を示唆していた。友庫ともこも、そんな修繕費は出せる身分ではない。ならば、気付かないふりをした方がいい気がした。

桜が、席を立つと、足を肩幅ほどに開いて、両手を手首のあたりで交差させて、額の前に持ってくる。

「出るか出ないかわからないぃぃ」

桜は両手を開いて、斜め後ろの方向へ伸ばす。同時に一歩踏み込み、おでこを目標へと付き出す。

「ビイィィーム!」

しかし、桜の声が辺りに響いただけで、何も起きなかった。

「うーん、今回は不発か」

あっさり言った桜に、友庫ともこは複雑な気持ちになった。何も変化が起きなかった時、お笑い芸人がスベったような、白けた空気を感じた。声を掛けるのも痛々しいと思ったのだけど、桜の様子を見ると、それが普通だとわかった。そこで遅れて、「そう言えば、出るか出ないか、と言っているしな」と納得しかけて、「いや、出るか出ないかわからない、ってどういう事!?」と、改めて思った。桜が落ち着いていた事で、友庫ともこも少し冷静になり、今の自分の状況が、何からツッコんだら良いのかわからないんだな、と分析できた。

振り返った桜の表情には、やはり、失敗したという自責も驚きもなかった。それを見て、友庫ともこの口から感想が自然と転がり出た。

「出ない……もんなんだ」

「うん。出るか出ないかわからないビームだし。出ないこともあるよ。……と言うか、むしろ出ないことも多いかな」

「たまにしか出ないビームって事?」

「うん、まあ、そうなんだけど、『たまにしか出ないビーム』じゃ言いにくいでしょ?」

友庫ともこは「出るか出ないかわからないビーム」も大して変わらない。いや、むしろより言いにくいのでは、と思ったが、桜本人がそう思っているなら、そうなのだろう。

「でも、出るか出ないかわからないなら、いざという時に便りにならなくない?」

「うーん、そう言えばそうなんだけど……何というか、できるかどうかわからない、って、より奥の手感ない?」

「そうかなぁ」

答えながら友庫ともこが感じたのは、この件については感性が合わないという結論だった。正面から話しても平行線をたどるだけだろうから、別角度から話してみる。

「でも、もしかしたら、出ない時があるのは、そんな名前だからじゃない? 心の中で、できないと思う部分が邪魔してる、とか?」

「いや、そんな事ないよ。出す気満々でやってるから!」

意外にも、桜は揺るぎない口調ですぐに返してきた。友庫ともこは、桜が本心から言っているように思うが、深層心理は自分でもわからない。そう感じさせる具体例を示す。

「その割には、失敗しても、当たり前って感じに見えたけど……」

「それは……」

桜が言い淀んだ。数秒後、開いた口から出たのはやはり変わらぬ自信のある声だった。

「たぶん、やる気と、やる気になって挑んだ結果への感想って、別々だからじゃないかな」

今度は友庫ともこが黙って考えさせられた。友庫ともこが今まで真剣に挑んできた試練は、成功するイメージを持って取り組んできた。しかし、例えばスポーツの世界では「負けるかもしれないけれど全力で挑む」という姿勢は、ありうるように思う。自分がわからないだけで、そういう感じ方もあるように、友庫ともこは思った。

しかし、出るか出ないかわからないビーム、が変な名前である、という感じ方はやはりちっとも変わらない。

「ちょっと一度別の掛け声で試してみたら? もしくは、何も言わずに………」

「うーん。何も言わなかったら、できそうな気がしないなぁ。だって、こうビームを絞り出すんだから、声は出さないと」

膝の屈伸をして、勢いがないと、と示しているのはわかったが、あいにく友庫ともこにはビームを絞り出す感覚はわからない。より一般的な表現で置き換えられるか聞く。

「重い物を持つ時に『ヨイショ』とか言うやつ?」

友庫ともこ自身はそう言わないが、一般的にそう言うのは知っていた。考えてみれば、年輩の人しか言わないな、と気付くと、例としてふさわしくないかも、と思ったが、幸い言いたいことは伝わった。

「うーん、違うけれど……近いと言えば近いのかなぁ」

「とりあえず、次は……『チェリー・フラッシュ』とか言い換えてみたら」

本音を言うと、友庫ともこが変更を勧める理由は、出るか出ないかわからないビーム、と聞くのが恥ずかしいからだったが、そこは伏せておく。

「うーん。まあ、試すだけ試してみるかぁ」

額の水晶状の物を撫でた後、桜はまたベンチに座ろうとする。

「ん? 試さないの?」

「ん? ああ、そうなの。一回試すとチャージに少し時間が掛かるから」

「へぇ、そうなんだ。不発でも?」

「うん、不発でも。こう、盛り上がったエネルギーが抜けちゃうっていうか……違うんだけど、みんなの例で例えると、出そうとしたクシャミに逃げられたような感じ? 一旦逃げられたら、クシャミ出したくても出ないじゃん」

「アハハ、何、その例え! ……でも、それならちょっとわかる」

「ふふ、良かった。感じは全然違うけれど、出そうと思ってもすぐ出ないというのは同じかな」

「じゃあ、出なかったら気持ち悪いんだ」

「うん、そこもクシャミとは違うかな。気持ち悪さはないけど、ちょっと疲れるのはあるな。りきむからかな? ……あ、だから、本当に出るか出ないかわからないビームが出た時は、疲れるよ」

「そうなんだ。じゃあ、失敗しても成功しても、しばらく次は出ないんだ。不便ね」

「うん、しばらくと言っても二三分だけど……。長かったら五分くらい掛かることもあるかなぁ。十分は掛からないと思うんだけど」

「結構、曖昧あいまいなのね」

「ま、体調とかあるし。機械と違うから、きっかり三分とかは、やっぱ違うよね」

「アハハ、それはそうね。……でも、考えてみたら、機械もきっかり何分とかならないんじゃない? スマホの充電は、例えば空の状態からだって、いつも同じじゃない気がする。何時間単位だから、少しぐらいずれても気にしないけど」

「そう言えば、カップ麺だって、きっかり三分に食べてないよね?」

「確かに。私のお母さんなんか、五分くらい掛けてるよ」

「それはちょっと長すぎ!」

二人はそこで声を合わせて笑った。

「まあ、だから、もうちょっと待ってくれる? そうしたら、またチャレンジできるし」

「うん、いいよ。……って、名前を決める途中だったね」

「え? ううん。私、フリップフロップ・チェリーで良いよ。気に入っちゃった」

友庫ともこは眉間に皺を寄せた。余計な事を言ってしまった、という後悔だ。桜は気に入ったかもしれないが、友庫ともこはフリップフロップ・チェリーという名前が良く思えなかった。芸能人は名前がダメなら目立てないと言われるように、ヒーローも名前が映えなくてはいけない。広まってしまってからでは遅いのだ。

「さっきね、ポーズも浮かんじゃったの。見てもらっていい?」

友庫ともこの心配をよそに、桜は明るい。その笑顔を見ると、友庫ともこの頬も自然に緩む。

「うん、見せて見せて」

桜は、友庫ともこの前に右足を軸にして軽く足を開き、左手を腰に当てて、立った。そして、右手をおでこに当てて、水晶状の物を隠し、腕は水平方向に向ける。腕だけ見ると、逆Z字になる構えだ。

「フリップ――」続く言葉は、右手を返して手の平を外に向けながら言う。「フロップ――」右手は次に、人差し指と中指を揃えて残し、他の指は握る形に変わる。その手が顔の右側面に立てて添えられると、手首が軽く横に曲げられながら、体から離れる。「チェリー!」

友庫ともこは心に湧き上がる感動をそのまま口にする。

「カワイイ、カワイイ!」

パチパチと手を叩き、桜に駆け寄ると、肩を叩いて嬉しさを伝える。

「いや、ホントに、アイドルかと思っちゃった! うん、それ、良いよ!」

友庫ともこは自分でも評価が一瞬で覆ったことに驚いていた。カワイさは多少の不出来をものともしないのだ。おそらく、桜のもつれ素のカワイさがやる気によって引き出されたのだろうとわかると、もう名前を変えるべきだという考えは消えていた。

「フリップフロップ・チェリー。きっと、他に被りはないだろうし、それで行ってみよう! ……でも、私はどう呼んだらいいかな? いちいちフリップフロップというのも長いし」

「桜でいいよ。私は、トモちゃんって呼ぶね」

「うん、私はいいけど。……でも、桜ちゃんって呼んだら、他の人がいる場面だと、名前がバレちゃうじゃない。だから……チェリーちゃんでいいかな?」

「うん、それでいいよ」

「よし。じゃあ、ついでに私はフリップフロップ・チェリーのファン第一号って事でよろしく!」

「ファンって、気が早いなぁ。私は未だ正式にはヒーロー認定されていないし」

「……あ、そうか。外国じゃないと認定されないとかいう話だったよね。だから、日本にはヒーローが少ないんじゃないかって言われてるみたい」

「うーん。でも、花鳥風月さんクラスのは、やっぱなかなか居ないかも、って思うなぁ。……実は、私も一回受けて落ちているし」

「え? チェリーちゃん、ダメだったの? ウソ!?」

「いや、ホントに厳しいのよ。あとちょっとだった気はするんだけどなぁ。……でも、パンツイッチョマンなら通る気がする。あの人はたぶん受けてないよね? それか、匿名ヒーローか」

「匿名ヒーローって、ニックマンみたいな人?」

友庫ともこが嫌そうな顔をした。ニックマンという呼び名で知られる太めの男性ヒーローは、しゃしゃり出ては失敗する姿で有名だった。匿名ヒーローだったのにその存在を知られたのは、東京銀座の宝石店強盗で、アメリカから来た本場の悪漢ヒーローにボコボコにやられた姿を晒されたからだ。他に、海外でも武装テロリストの人質になったこともあり、日本の恥とさえ言われていた。

「ニックマンは会ったことないから良く知らないけれど……。ん? そういえば、私もニックマンが通ったくらいだから、私も行けるだろうって、思っていたけれど、あの人、一応ヒーロー試練を通ったなら、かなり実力ある人なのかもしれないなぁ」

「そうなんだ……というか、ニックマンはどうでも良くて――」

自分で言っておきながら友庫ともこは思わず笑ってしまった。

「肝心なのはパンツイッチョマン! ……っていうか、パンツイッチョマンって良く考えると、言うのも恥ずかしい名前よね。何か言い換えない?」

「うん。……パンツ?」

「それも嫌でしょ? じゃあ、パンツイッチョマンだし……パンチョ!」

「パンチョ?」

桜は笑ったが、頷く。

「うん、別にいいんじゃない。パンチョ」

「じゃあ、パンチョさんで決まりね。で、パンチョさんについて、チェリーちゃんに質問があるんだけど、何者?」

「それは私も知らないわよ!」

「正義の味方で合ってるよね? 私も助けてくれたし、チェリーちゃんも助けてもらったんでしょ?」

「うん。……正直言うと、あの人がこないと、私、アイツにレイプされてたと思う」

友庫ともこが、桜の腕にそっと触れる。無事だったのはわかっているが、それでも心配にさせられる発言だった。

「怖かったでしょ?」

「うん。でも、レイプじゃなくて、首を絞められていたから、その時は殺されると思っていたかな」

「……ホント、無事で良かったね」

「普通の人ならそのまま殺されてたかもしれないけれど、私は頑丈だから、気絶で済んで……まあ、だからレイプされてたかも、って事なんだけど……」

そこで、桜は思い出し笑いをした。当然、同情思考だった友庫ともこは訳が分からず、呆気に取られる。

「ごめん。いや、笑い事じゃないんだけれど、思い出したら笑えるなって。だって、パンツイッチョマンが、起こしてくれたんだけど、私からしたら、目を覚ましたら、全裸の男が覆い被さっているような形じゃん? いや、本当は全裸じゃなくてパンツははいていたんだけど、起きて目に入るのは、肌色じゃない? だから、起きてすぐ『ヤられた』と思った」

もらい泣きしそうな顔だった友庫ともこも、ここまで説明されると、吹き出しそうな顔になった。

「むしろ、レイプ犯って、パンツは脱いで他は着ている印象あるから真逆なんだけど、起きた瞬間はホント焦るよ!」

「フフフ。ずっと起きてても、驚くのは同じだって。私も今日突然話し掛けられた時、やっぱり『痴漢!?』と思っちゃったもん。最初に助けられた時は仕方ないけれど、一回ああいう人だ、とわかっていても、やっぱり素肌はビックリするよね」

「そうそう。あれはやっぱり犯罪的だよ」

「もう! 恩人なんでしょ? そういう事、言ったらダメよ」

「そういうトモちゃんだって笑ってるじゃん」

「仕方ないでしょ。変なんだから」

そこでまた二人は笑う。

「でも、どうしてパンチョさん、裸なのかな? ああいう格好をしないだろう力が出ないとかなのかしら?」

「ああ、そういえば、そのようなことを言ってたかなぁ。事件を肌で感じる、とか。潜在意識的なやつなのかな?」

「へえ。そういう話までしたんだ」

「うん。……あ、今日じゃなくて前回ね。ほら、トモちゃんと分かれて、罪滅ぼしに私が痴漢を捕まえようと思ったんだけど、足取りは掴めなくて。でも、パンツイッチョマンは、あんな格好だから、通行人の人は見ていてて、追い着けた」

「どういう話、したの?」

「なんだったかなぁ。……詳しくは忘れちゃったけど、なぜか悩み相談みたいな感じになってたなあ。私は半人前のヒーローだけど、『心意気があれば、ヒーローになれる』みたいな励ましされた気がする。ビルの屋上で、パンツだけの男の人に」

改めて状況を思い出すと、何じゃこりゃ、と思った桜は笑った。が、友庫ともこは羨ましそうに言う。

「いいなぁ。チェリーちゃんは、パンチョさんと色々話せて」

その態度に、桜はすぐ、ある事が思い浮かんだが、あり得ないだけすぐ却下して、なおも友庫ともこの態度が疑わしかったから、直接聞く。

「もしかして、トモちゃん、パンツイッチョマンの事、好きなの?」

「え? 私!?」

友庫ともこは胸の前でブンブンと手を左右に振ったが、数往復させると手を止め、自問しているようにうつむく。

「好きっていうか……気になる存在かな」

ボソリという友庫ともこに、桜は相手の両肩を掴む。

「いや、しっかりしてよ。相手は、外でパンツ一枚で走り回っている変態だよ?」

友庫ともこはうつむいたまま頷いて、顔を上げると桜を真っ直ぐに見返す。

「でも、命の恩人だよ? 助けてくれた後、あの人の背中見て、私、泣きそうになったもん。私を抱えて、地面を滑ったから、擦り傷だらけになっていて……」

言いながら、友庫ともこは涙目になっていた。

「あの人は傷だらけだったのに、私には傷一つなくて。あの人がとっさに回転して下になって、クッションになってくれたから」

桜も同じように心を動かされた。なぜなら、桜も今日同じ体験をしていたからだ。高い所から二度落ちて、一度目は蹴り飛ばされて、頭に来た、というか理解できなかったが、二度目は庇ってもらった。一度目に怪我をしたからこそ、二度目がほとんとダメージがなかったことへの凄さがよくわかった。そして、その後のパンツイッチョマンの背中はボロボロだった。

が、「服を着ていたら、あそこまでの怪我にならなかったのではないか」と思うと、うるうると滲み出てきそうだった涙がパタリと止まった。

「いや、まあ、そうだけど――」

桜が説得しようとする前に、友庫ともこが言い放つ。

「見ず知らずの人をあそこまでして助けてくれる男の人、他にいる?」

友庫ともこの眼差しは強かった。先程、友庫ともこが桜のフリップフロップ・チェリーへの想いが強いから、説得を諦めたのと同じく、桜も友庫ともこの説得はできないと悟った。

「ん、まあ、確かに。行動は立派だと、私も思う。私も命を助けられた口だし」

「でしょ? 不謹慎だけど、また痴漢被害に遭ったら助けてくれるかな、って期待しちゃうよね?」

これには、桜は目を細めた。危うい希望で危険に踏み込むのは、是非とも妨げなくてはならないと思ったからだ。

「それ、実行しないよね?」

「うん、もちろんよ。だって、そんな事をして会っても……いや、会えるのは嬉しいけれど、その後、事情を知られたら軽蔑されるじゃない?」

会うのが主目的ではない、ということは、本気だ。桜は、説得は諦めていたが、自分の意見は遠慮せず告げる。

「でも、あの人、たぶんかなり年上だよ? ハッキリは言えないけれど、三十代だと思う」

「全然イケるじゃない」

「いや、十歳近く違うんだよ?」

「それくらい、気が合えば問題ない。というか、私がパンチョさんを支えるには、私が若い方が良くない?」

「うーん」

桜は友庫ともこに友情を感じていたが、まともに話すのは初めての相手だった。だから、それ以上は踏み込まないでおく。親友だったら、絶対に止めていた。友庫ともこなら、他にもっとまともなイイ男を見つけられるのが明白だったからだ。

「そう言うチェリーちゃんは、パンチョさんにビビッとこないの?」

「いや、私は……」

「あ、そっか。カレシがいるんだ。そうだよね。チェリーちゃん、カワイイもん」

「いや、今はいないよ。って、トモちゃんこそ、そんなに美人だったら大学でモテるんじゃない?」

「うーん」

友庫ともこは唸った。彼女も、桜に対しては初対面に近いのに、強い友情を感じていた。大学内では別の社会的な対応をすべきだったが、桜には本音を告げようと思う。

「確かに、そこそこモテるよ。でもね、私は背がこんなんだから、言い寄ってくるのはロリ好きばかりなのよね。それって気持ち悪いでしょ? だから、私は待ちじゃなくて、攻めで行かなきゃいけないな、と思ってるの」

自意識過剰な女だと距離を置かれかねない一歩だったが、友庫ともこの読みどおり、桜は笑って受け止めた。

「確かに。トモちゃんの悩みはそれか。……ごめんね、本人は大変なのに、ちょっとウケる」

「いいのよ。笑ってちょうだい。同情されるよりかよっぽどスッキリする」

「いや、そういえば私も、こんな外見だから、ハーフだとか、英語ペラペラだとか思われるんだけど、むしろ英語は苦手で。だから、海外旅行も大変だった」

「あ、そうなんだ。こう、目がパッチリしているから、私もハーフかな、と思ってた」

「うん。違うのよ。百パーセント外国人」

「へえ……って、外国人?」

「うん、たぶん。お父さんは知らないけれど、お母さんがお腹が大きい状態でこちらに来たから、たぶん父親は向こうの人」

「あ、そうなんだ」

何気なく返していたが、友庫ともこは重くなりそうな話題に恐れを抱いていた。だが、桜に悲壮感はない。

「おまけに、どこの国の人か、未だに知らないのよ。お母さんがちっとも教えてくれなくて。でも、そんな流れから、たぶんヤバい所を抜け出して逃げてきたんだなー、って思っている」

「そうなんだ。結構ヘビーな話よね?」

「うん。一般的には、ね。でも、私にとっては起きたことで、どうしようもないから、別に気にしてないよ」

「うん」

言われなくても、態度で友庫ともこにはわかっていた。だからこそ、「ヘビーだ」と踏み込めたのだ。本人にとっては、「普通な事」として受け止めているが、それができるのは器が大きい証拠だ、と友庫ともこは思った。ヒーローはやはり心も強いのだろう。

「まあ、それにしても、わかったことは……こう言っちゃ何だけど、トモちゃんの男の趣味は悪い」

ズバリ言うと桜はケラケラと笑った。

「もう! ちょっと! ……言い返せないのが悔しい」

そう言って友庫ともこも笑う。打ち明けて良かったと思う。

「そう言うチェリーはどうなのよ? 好きな男の人のタイプは?」

「私は全然ノーマルよ。理想の男は花鳥風月さんだから」

「……って、全然ダメじゃない! ひどい女たらしでしょ?」

「でも、ネットとかではずっと『恋人にしたい男』でトップだよ。女たらしと言うのも、ちょっと違うし」

「だけど、女性を取っかえ引っかえって噂じゃない」

「うん。曜日恋人ウィークガールでしょ? 私は、できれば金曜か土曜になりたいなぁ、って――」

「いやいや、七股されてるじゃん! 二股三股までは聞くけど、七股って異常よ」

桜は難しい顔をした。好きな相手を悪く言われると、普通であれば気分が悪くなるものだが、花鳥風月が好きだと公表すると、数多く居るアンチから批判されるのは慣れていた。むしろ、花鳥風月への誤解を解いてあげようと頑張れる。しかし、どう説明すべきなのかは、いつも難しい。

「それも、隠されていたら、なんとか股だし、浮気だけど、もう公表されてて、それでお互い良いと思える人同士と付き合っているから、問題ないじゃん」

「……でも、おかしくない? 一時期に七人だよ?」

「それは、むしろ、花鳥風月さんの方がお付き合いを真面目に考えているからだよ」

「何でそうなるのよ!」

「例えば、一人と何年も付き合ってて、その結果ポシャッたら、二人とも時間のムダじゃん。その時間をできるだけ有効に使うため、色んな人と付き合って、合わなかったら次の人に切り替えているだけだよ」

「なんか、テキトーに捨てていっているだけに見える」

「まあね。別れる人はたいてい未練があるから、花鳥風月さんへ悪口言いたくなるよね。そんなんだから、捨てられるんだと思うけど」

友庫ともこは反論の糸口を掴めずにいた。確かに、テレビで見掛ける花鳥風月は、若くて整った顔立ちをしており、言動も爽やかだ。それだけに、裏で――正確には公然としているので裏とは言い切れないが――七人もの女性と同時に付き合っていると考えると気持ち悪かった。そう、友庫ともこの花鳥風月への反発は嫌悪感であり、理屈ではなかった。だから、反論や説得の言葉が浮かんでこなかった。

「花鳥風月さんは、むしろ、みんなも同じようなお付き合いをすれば良い、と言ってるよ。結婚してからは、誰の子供だ、となるからややこしいけれど、ちゃんと避妊をして付き合ったら、個人個人の善いとこ悪いところの比較ができるし、なにより『俺の女』と所有物感なくなるからDVが減るんじゃないかって――」

「それ、そういうことできる立場だから言えるんでしょ?」

「うん、そうだよ。他の人が言ってもモテないと話にならないってなるもんね」

「……私は、チェリーちゃんが、他の女性と一緒に騙されているような気がしてならない」

「うん、ありがとう。でもね、それをハッキリさせるにも、一度お付き合いしてみるのが一番だと思うんだ」

友庫ともこは負けたと感じた。同調はできないが、桜の言い分に筋は通っていた。

「……まあ、お互い、恋愛感、こじれているのね」

友庫ともこの溜息交じりの一言に、桜がフフフと笑う。

「そうだね。趣味は違っても、似た者同士なんだよ」

二人がしばらく見つめ合った後、桜が額を触った。

「あ、チャージできているから、また試してもいい?」

「あ、うん。……次は、チェリー・フラッシュ、だったっけ?」

「あ、そうか。それじゃあ、一度試してみますか」

そう言うと、桜は両手首を額の前で交差させる。

「チェリィィィ――」両腕を広げ、後ろに伸ばすと、額を突き出す。「フラァァッシュ!」

……しかし、今回も何も起きなかった。

「うん、ダメだね。反応すらしない」

桜が振り返ると、おでこを撫でた。友庫ともこには、従来の不発と違わないように見えたが、桜の様子から、何かが違っているらしいのは伝わった。

「今度はいつものでいってみるね」

また、銅像の方へ向いた桜の背中に、友庫ともこが疑問を投げ掛ける。

「チャージはいいの?」

「うん、反応すらなかったから、まだちゃんってできている状態」

桜は深呼吸をすると、また手首を額の前で組みながら言う。

「出るか出ないかぁー、わっからないぃ」

両腕を広げて、後ろに振り上げると同時に叫ぶ。

「ビィィーム!」

迸る閃光! それは十メートルほど離れた二宮尊徳像へと伸び、ゴィィィンと鐘のような音を立てた。出た時と同じく急に消え去る光。

友庫ともこは、まさに息を吞んでいた。片手が自然と口に当てられ、目の前で起きたことが信じられなかった。正確には、友庫ともこがこの怪光線を見るのは二回目だったが、一度目はパンツイッチョマンの背に隠れる形だったので、ほとんど見えていなかった。何かが光った気がしただけだ。今、はっきりと見ると、驚きで一時的に思考が麻痺した。数秒して、自分が凄いものを目にしたと認識すると、それを為すフリップフロップ・チェリーがやはりヒーローに相応しいと思う。いや、むしろ、スーパーヒーローではないか、とすら思った。

「凄いじゃない! チェリーちゃん」

近寄って肩に手を置くと、桜はようやく友庫ともこへと振り向き、笑った。その笑みが少しぎこちなかったのは、照射した直後、また、思ったよりやりすぎてしまったと感じていたからだ。友庫ともこに良いところを見せたいという気がはやって、絞りが甘かった。だから、銅像がへし折れてしまったのではないか、と心配で、しばらく様子を見ていた。

しかし、この場ですぐにこの銅像は倒れなかったが、後に、ヒビが入っているのが見つかり、撤去される事になる。ヒビがこの時の、出るか出ないかわからないビームの影響によるものかは、その前後で違いを確かめた者がいないため、わからなかった。

「良かった。しばらく出ないかと思っていたから。二発目で出るのも、まあ珍しい方だから」

「……それって実戦で使えるの?」

今になって友庫ともこは大事な点に気付いた。

「まあ、出るか出ないかわからないからねえ。あまり人に対しても使うべきじゃないし、ちょうど良いリミッターかもな、って思っているの」

友庫ともこは黙って桜を見つめた。

「ん? どうかした?」

何も言わない友庫ともこに桜が聞くと、友庫ともこは意味ありげに笑う。

「いやぁ、チェリーちゃんってホント前向きポジティブ人間なんだなあって」

「うん。私は明るいのが取り柄だよ」

「疲れない?」

「うーんと、そうだね。短かったし、手加減もしたから、疲れるほどじゃなかったけど。一応、飲み物を飲もうかな」

桜はベンチに置いていたバッグから、スポーツドリンクのペットボトルを取り出して飲む。そこに友庫ともこが次の話を始める。

「良かったら、今日のパンチョさんの活躍について聞かせて欲しいんだけど」

「うん、いいよ」

そうして話し出した二人だったが、スマホへの着信音で会話が途切れる。掛かってきてのは、友庫ともこへの方だった。娘の帰宅が遅いので母親から電話が掛かってきたのだ。

友庫ともこは、痴漢被害を受けて、警察に届けた事を、既に親に相談していた。今日はその犯人が捕まったから、証人として寄ってきたと伝えると親は一応安心した。心配させるので、パンツイッチョマンの話はしていなかった。

「ごめんなさい。親が早く帰ってきなさいって」

電話を切ってから、友庫ともこが謝る。

「ううん。いいの。私も色々話し込んでしまって……」

「それを言うなら、誘ったのは私の方だから、こちらこそごめんなさいよ」

また顔を見合わせて笑う二人。

「連絡先、交換する?」

桜の提案は、友庫ともこからも出そうかと考えていた内容だった。だけど、そうすべきではない、と友庫ともこは考えていた。

「うん。そうしたいけれど、私、チェリーちゃんの事、自慢しそうになるから、知らない方がいいのかなぁ、って考えていて……」

「そっか」

明るかった桜の顔が曇ると、友庫ともこの罪悪感は大きくなる。

「ごめんなさい」

「ううん。いいの。大丈夫。ヒーローは孤独っていうもんね」

また桜の顔には明るさが戻っていた。友庫ともこは、強い女性だと尊敬した。

そして、二人は挨拶をして別れた。「お互い頑張ろうね」「またどこかで会えるといいね」そう言い合って、二人は互いに親友になれそうな予感を胸にしながら、絆を断った。


しかし、月日が過ぎ、大人に成ってから親友を見つけることが難しい事を悟った二人は、互いに見逃してしまった出逢いの大切さを後悔し、修復できないかと努力した。そして、縁あって再開した二人は、今度こそ連絡先を交換することになる。それから、生涯かけて続くことになる友情は、この時既に芽生えていたのだ。

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