悪夢は突然に
森に悲鳴が響き渡ったのは、斬雨と別れてから何分もしない内だった。
「……何かあったのか?」
身を翻して、悲鳴のあった方へ走り出す。
この時点で、俺はまだ自分の状況をまるで理解していなかった。もし理解していれば俺はこの時──迷わず逃げ出していたと思う。その先にある光景が予想できたから。
そう。
駆けつけた先にあったのは悪夢のような光景だった。
周囲を染める飛び散った赤いモノ。何かを喰らう咀嚼音。地面に転がる人型の何か。それに覆いかぶさる真紅の毛並みの獣。
「ヴァンパイア・ウルフ……」
この森に生息する、その名の通り人の生き血を好物とする設定の高レベルエネミー。その足元にある人型の何かが光のない瞳でこちらを見ている。
「……」
腹の底からこみあげてくるモノを必死に抑え込みつつ、後ずさる。アレはなんだ。なんであんなことになっている?なぜリスポーンしていない!?ここはアルテマトゥーレじゃないのか。
背中に何かが当たる。そのわずか感触にも俺の体はびくりと震え……生暖かい何かを体に感じる。
その音か、振動か、匂いか。人型の何かを黙々と咀嚼していたヴァンパイア・ウルフが顔を上げる。
視線が合う。膝が震える。今にも崩れ落ちそうだ。この場で俺もアイツと同じ姿に──
違う。
俺にはできることがある。そう記憶が言っている。
だから、俺は呟いた。
「コネクト:<<フライト>>」
次の瞬間。俺は体に圧し掛かるGと共に、上空へと跳ね上げられた。
「……出来た……」
スキル<<フライト>>。アルテマトゥーレのリセの所持スキルの一つ。使用した場合、飛行状態での移動が可能になる。
「使用方法もそのまんまなんだな……」
アルテマトゥーレのスキル使用は音声認識で、設定したキーワード(デフォルトだとコネクト)の後にスキル名を言うことで発動する。
下を見下ろせば、自分の届かないところへと行ってしまった新たな獲物には興味を失ったか、人の姿をしたもの──そう、斬雨の遺体だ──の咀嚼へと戻っていた。
……戦うか?
スキルが使えることは分かった。であれば戦うことはできるが……
いや、やめておこう。飛行系スキルは消耗が大きい。消耗度は元と一緒なら、下手すれば倒しきる前にガス欠になる。それに……
アルテマトゥーレは蘇生スキルが存在しない。リスポーンもしていないということは、斬雨はもうどうにもできない。実はゲームから離脱している、位の事を祈るしかないだろう。
「すまないな……」
墓くらいは作ってやりたいが、そのために命はかけられない。奴には申し訳ないが安全圏に移動できたおかげか、思考は急速に落ち着いてきた。ただ落ち着いてきたせいで下半身の不快感を認識してしまったが……今はどうしようもない。
俺は斬雨だった存在に対して目を瞑り黙とうをすると(改めて直視はできなかった)、背を向けて西へと向けての移動を開始する。確かそこまで深くへは踏み込んでいなかったはずだなので、限界が来るまえには森は脱出できるはずだ。その先は街道で、エネミー出現率は低いから多分……大丈夫なはずだ、そこいらの設定が元のゲームのままの設定なら、ではあるんだが……
ピッ
ん……メールか?
スキルを使えたことで、ここがアルテマトゥーレの世界だという感覚が強くなった。そのため、小さくなった電子音も、すぐに誰かからの連絡が入ったと気づくことができた。
ええと、メニューの開き方はコントローラーの……コントローラーどこだよ。……いや、開き方が何故か分かるな?
「コネクト:ウィンドウ」
本来のメニューウィンドウの開き方はコントローラのボタンを押すというものなんだが、スキルと同様に言葉に発することで発動した。そんな仕様は元のアルテマトゥーレにはなかったはずだが、なぜだかその開き方を俺は知っていた。
それを知った覚えがないのに、その知識がある。なんだかすごくモゾモゾしたものを感じで気色悪さを感じるが……まぁ今はいいか。
ウィンドウの右下部分の通知領域に新規メールを表すアイコンが表示されていたので、タッチすると別途メールウィンドウが開かれる。
FROM:シード
TO:リセ
HEADER:無事!?
BODY:まだ血風鮮華の森の中!?
ギルドメンバーからだった。とりあえず無事でなければメール返せないだろ、というのはお約束か。あとこの森の名前を考えた人間はセンスがないと思う。
ともあれ、心配させているようなので「無事。現在森の外へ移動中」と返事を書いておくる。というかやっぱり他の連中もいるのか。
ピッ
返信はや!
FROM:シード
TO:リセ
HEADER:合流
BODY:現在森の入り口付近の街道にいるんだけど、来れる?
側に来てるのか?街道沿いには元々向かうつもりだったから問題ないが……あ、いや待ってる間にエネミーとか大丈夫か?
そう送ったらまた速攻返事が来た。
FROM:シード
TO:リセ
HEADER:無題
BODY:魔除けの香水使ってるから平気。隠密系のスキルもあるし……
──あー、そんなアイテムもありましたね。
というか思い出した。素材集めに一人であの森突っ込んでたんで魔除けの香水俺も持ってたんだ。再ログインした時にまた使う予定だったんだが……まぁあの状況下で思い出すのが無理か。後あれエンカウント率大幅に下げるだけで0になるわけじゃないしな……
そんなことを考えている間に森の端が見えてきた。その入り口近くの所で見知った姿が手を振っていたので、そちらへ向けて着地する。
「よかった、無事で!」
半分泣きそうにも見える顔で、黒髪の美女が駆け寄ってくる。今の俺の姿より頭一つ分大きい彼女は両手を大きく広げると、こちらに飛びついて──
こようとしたので横に避けた。
「なんで……?」
抱き着こうとして空振りした腕をそのままに、なんともいえない表情でこちらを振り向いた彼女──シードに、俺は微妙に視線をそらしながら
「その、な。ちょっと下濡れてるから……」
その言葉に彼女は視線を下ろし、ある部分が濡れているのを確認し、視線を戻して
「その……いろいろと大変だったんだね」
「まぁ……うん」
沈黙。
「そ、そういえばさ! ギルドハウスの方、フラットとリアル、岩鉄が待ってるよ!」
「あいつらもいるのか」
いよいよどういう状況なのか分からなくなってきたな。異世界転移なのか、ゲームに閉じ込められたのか、やっぱりただの夢なのか。
「なんかいろいろわけわかんないことになってるけど、とりあえずまずはギルドハウスに帰ろう」
「そうだな」
情報を集めるにしても落ち着ける場所に戻ってからの方がよさそうだ。後は、うう……
「あの、シードさん……」
「なんでさん付け?」
俺は、両手で顔を隠したい気分になりながら、声を絞り出して、言った。
「途中の街で下着とか着替えを買ってきていただけますでしょうか……」
「あ、はい……」
途中で乾くだろうとはいえ、しでかした下着を履いたままずっと行動するのはつらいです。