賽は投げられた
――一時間後。
宿屋の一室で備品の整備をしていたユルグの元に、薬草採取から戻ってきたアリアンネが姿を見せた。どうやらあの少女の依頼は無事にこなせたようである。
戻ってきたら文句の一つでも言われるだろうと覚悟はしていたのだが、彼女の口から漏れたのは謝罪の言葉であった。
「勇者様、先ほどのことなのですが。その……ご迷惑を」
「構わないよ。どうせ、俺に何を言われても考えは変わらないんだろ?」
「そうですね」
「俺も同じだ。解決しない問題に躍起になるほど虚しい事はない。この話はこれっきりにしよう」
ユルグの提案にアリアンネは頷いた。
しかし、彼女の傍に控えているティナからの射殺すような眼差しが突き刺さってくる。
その態度から察するに、彼女はまだユルグを許してはいないようだ。
「ティナ。この話はもう終わったのですから、事を荒立てるのは無しですよ」
「……わかりました」
主人の諫めを受けて、ティナはしょんぼりと肩を落とす。
彼女はあくまでアリアンネに付き従っているのだ。ユルグに目くじらを立てるのは当然である。
「そういえば、ミアとフィノはどこに行ったのですか?」
「二人なら街の散策に行ってくると出て行ったよ」
「そうですか。ティナも行ってくれば良かったのに」
「私は……お嬢様をお待ちしていたので」
「たまには羽を伸ばしてゆっくりと過ごすのも大事ですよ」
『ティナはお主と一緒に行きたいのではないか?』
マモンの合いの手に、ティナは眼を見開いた。
「なっ、何を言っているのですか!? そんなこと」
『図星であろう』
「あら、そうなのですか?」
突然の言動に焦燥するティナに、それをからかうマモン。一方でアリアンネはいつもと変わらず、悠然と構えている。
「それならせっかくです。勇者様も一緒に行きましょう」
「俺は良いよ」
「……つれないですね」
「誰に誘われても、勇者様は一貫していますから」
穏やかな会話が流れるなか、ユルグはあることが気に障っていた。
今になっての話ではないのだが、言い出すタイミングを今まで逃していたのだ。話すならここだろう。
「前から言おうと思っていたんだが、俺の事を勇者様なんて呼ばないでくれ。その呼び名はうんざりなんだよ」
不快感を隠すことなく告げると、アリアンネは真っ直ぐにユルグを見つめた。
「それは出来ない相談ですね」
しかし、彼女の答えはユルグの予想とは反したものだった。
アリアンネの即断に、ユルグは眉を寄せる。それを見留めて、彼女は続く言葉を吐き出した。
「貴方が勇者であることは変えられない事実でしょう。その苦しみが分からないわけではありません。しかしそれは、どうあっても背負わなければならない業なのです」
「随分と知ったような口を利くじゃないか」
「わたくしも無関係とは言えないので、これくらいの口添えは許されても良いのではないですか?」
「……アンタはただの皇女だろ」
声音を落として噛み付くと、アリアンネは苦笑を浮かべた。
「本当にそうであったのなら、どんなに良かったでしょうね」
含みのある物言いに、ユルグは眼を眇める。
どういう意味だと問う前に、マモンが声を上げた。
『アリアンネ……何を考えている』
「勇者様があまりにも不抜けた事をおっしゃるので、少し気が変わったのです」
『今がその時だと、本当にそう思っているのか?』
「外野が居ないぶん、じっくり話は出来ますね」
珍しく焦燥しているマモンとは対照的に、アリアンネは酷く落ち着いていた。
「お嬢様、私は席を外しましょうか」
「お願いします」
「では、部屋の外で待機しておりますので」
ティナが退室したことで、この場にはユルグとアリアンネ、そしてマモンだけが取り残される形となった。
椅子に座り直したアリアンネは、その膝上にマモンを乗せてユルグと対面する。
先に口火を切ったのはユルグだった。
「……何の話をしているんだ」
「帝都を出る前に、勇者様に折り入って頼みがあると告げていたでしょう。それについて話があるのです」
「そういえば言っていたな」
人払いをしたということは、他の者には聞かれたくない内密な話なのだろう。
張り詰めた空気に自然とユルグの背筋は正された。
「単刀直入に申し上げますと、わたくしの代わりにマモンの宿主になって欲しいのです」
「……はあ?」
アリアンネのお願いは突拍子もない事だった。これにはユルグも呆然とするより他はない。
口を開けたまま呆けているユルグに構うことなく、アリアンネは続ける。
「本音を言うのならば、こんなことはわたくしの本意ではないのです」
その言葉は真実であるように思えた。
二人の仲は円満である。誰が見てもそう答えるだろう。本人だって別れるのを惜しんでいるほどだ。それをわざわざ解消するというのは、今一度聞いても疑問を持たざるを得ない。
「待ってくれ。話が全然見えない。したくないことなら、やめたら良いんじゃないか?」
「それでは駄目なのです。今の状態では、彼は本来の役目を放棄したままになります。それだけは絶対にあってはならないことですから」
対面しているアリアンネは視線を落として唇を噛みしめた。彼女にとっても苦渋の決断なのだ。本当ならばこんな願いは取り下げたいのだろう。しかし、そうしなければならない理由がある。
「言いたいことはわかった。でも、たったそれだけの説明で俺が首を縦に振ると思うか?」
「無理でしょうね」
「まずは、その犬もどきが何なのか説明してくれ」
彼女の口振りからすると、ただの不可思議生物というわけではないはずだ。
マモンには役目があり、今の状態ではそれが果たせない。だから、宿主を代えてそれを成してくれと。大凡の言い分はこんなところだろう。
『それは己の口から話そう』
アリアンネの膝上から降りると、マモンは一つ身震いをする。
その瞬間、彼の漆黒の体躯から黒い靄が立ち上り、瞬く間に全身を覆ってしまった。
いつの間にか室内に充満していた、ひやりとした感触に嫌な予感が脳裏を過ぎる。
固唾を呑んで眼前の光景を見据えていると、先ほどまでは膝乗りサイズの犬の姿だったマモンはユルグの身の丈を優に超える、厳つい黒色の鎧を身に纏ったヒト型の生物へと姿を変えた。
頭には二本の角、手足には鋭い爪が伸びている。人間と比べると手足の長さも微かに違って見える。
禍々しい姿に、息をするのも忘れて気圧されてしまう。
そんなユルグを眼下に見据えて、マモンは口上を述べた。
『己の正体は、お主もよく知っているもの――魔王と呼ばれているものだ』