一年前 3
決して侮っていた訳でも、油断していた訳でもなかった。けれど、相対した敵はこちらの予想を遙かに超えていたのだ。
目の前の魔物には勝てないといち早く判断したのは、パーティの前衛を務めていたグランツだった。
「こいつは無理だ! いったん引くぞ!」
何をもって無理だと断じたのか。それはユルグも理解していた。
宵闇のように黒く、山のような巨躯をした魔物――エルリレオはあれをドラゴンだと言った。
しかし、そういった種はそれほど珍しくはない。たまに降って湧いたように出現するし、シュネー山に出るという魔物に関しても、黒死の龍なんて通り名も付いていた。
けれど、これに際しては規格外であったのだ。
武器での物理的な攻撃も、魔法での攻撃も無効。幾ら手を打っても、魔物の体躯を覆っている漆黒の靄によって防がれているようだった。
それを見留めて、魔物の異常性に気づいたのはエルリレオだった。
瘴気の影響を受けている魔物は体躯が黒く変色するのだ。馴染みのあるものだとシャドウハウンドが挙げられるが、こうした個体が出現するのは非常に稀である。
そういった魔物に対しては、〈ホーリーライト〉で弱体化させて叩くというのがセオリーだ。しかし、眼前に聳えているあの龍にはそれが効かなかった。
図体がでかすぎる故か、それとも纏っている瘴気の濃度が高すぎるからか。全く意味を成さなかったのだ。
この戦法が使えないとなると、もはや打つ手はない。
「――おい、ユルグ! 聞いてんのか!」
怒声が聞こえて、そこで目の前に意識が向く。
いつの間にかグランツがユルグの傍に来ていた。
眼前に佇む魔物から目を逸らすことなく、彼はユルグへと声を掛ける。
「足は動くか」
「……っ、大丈夫」
「だったら後ろに控えてるあいつら連れて走って逃げろ。殿は俺がやる」
グランツが無茶な事を言っているのは、ユルグも分かっていた。
彼の右腕は魔物の攻撃によって焼け爛れており、武器もまともに握れない。致命傷こそ受けてはいないが一歩手前の状態だ。打撲や裂傷で全身がボロボロで立っているのもやっとだろう。
こういった状況は予め想定していたし、ユルグも覚悟はしていたのだ。何を優先すべきかは頭では分かっている。
けれど、だからといってグランツを一人置いてはいけない。
「俺も残る」
「何馬鹿なこと言ってんだ! それじゃあ俺が身体張ってる意味がねえだろ!」
「でもそんな怪我じゃ」
――死んでしまうじゃないか。
胸中に過ぎった鬼胎を慌ててしまい込む。そんなことは今考えるべきではない。
「お前だって人のこと言えねえだろ。満身創痍が二人いても状況は変わんねえんだよ。それにお前は勇者なんだから、ここで死ぬわけにはいかねえだろ。わかったらさっさと行け!」
突き放すように押し出されて、グランツは庇うようにユルグの前へと出た。
彼の言うことは正しい。ここで一緒に残っても怪我と疲労で満足に動けない今のユルグではお荷物だ。それに加えて、勇者であるから死ぬわけにはいかない。この状況ならば誰が見てもグランツと同様の判断を下すだろう。
それでも、冷静に断じて割り切ることなど出来なかった。
未だ退却する意思を見せないユルグにグランツは声を張り上げる。
「――っ、自分がいま何をすべきか考えろ!」
感情に流されず、冷静に現状を見ろと彼は言った。
それは今までユルグがグランツとの稽古で、何遍も言われてきたことだ。
――死ぬつもりはないから先に行け、だとか。
――生きて戻るから心配するな、だとか。
そういった台詞は一つも口にしなかった。
たとえ嘘だとしても言葉にすべき所を、グランツはそうしなかったのだ。
そこに隠された真意を理解してそれでも留まるなんてことは、ユルグには出来なかった。
グランツの言葉通りに、ユルグは背を向けて走り出した。
数歩先さえも満足に見通せない吹雪の中、痛む身体に鞭を打ち二人が居る後方まで下がる。
命からがら戻ってきたユルグを見てエルリレオが血相を変えたが、それに応じている暇はない。
「グランツが、逃げろって」
「そう……あいつの事だから、後先なんて考えてないわよね」
グランツの言伝にカルラは呆れたように嘆息した。
エルリレオも何を言うでもなく、取り出した包帯を使って簡単な応急処置をユルグへと施す。
「どうする、エル」
「あやつが無理だと断じたのなら、それに従うより他はない」
「……そうよね」
一瞬カルラは考える素振りを見せて、それから深く息を吐いた。
「ユルグはエルと一緒に下山しなさい。私はあの馬鹿を連れ戻してくるから」
「でもグランツが」
「私は諦めが悪いの。ユルグも知ってるでしょ。大丈夫、死にはしないわよ。あんたは自分の心配でもしてなさい」
「――いっ、叩かないでよ」
思い切り肩を叩かれて、苦悶の声を漏らすユルグを見てカルラは笑みを刻んだ。
しなびた顔をしていたユルグとは違って、カルラはこの状況でも諦めてはいない。それはエルリレオも同じだった。
「山腹まで下りたら儂も応援に向かう」
「ユルグのこと、お願いね」
「うむ、任されよ」
言葉少なに交わして、カルラはユルグが来た道を辿っていった。
不安が薄れたわけではない。けれど、先ほどグランツに逃げろと言われた時よりは動揺は少ない。きっと仲間が傍に居てくれるからだ。
カルラも死ぬつもりはないと言ってくれた。そこに確証はないが、たったそれだけでも緊張が和らぐ。
「とにかくここから離れるぞ。お主の怪我の手当もしてやりたいが、もう少し待ってくれ」
「うん……エル」
「なんだ」
「……大丈夫だよね」
「もちろんだ」
不安にさせまいと、エルリレオは微笑んだ。
けれど、この状況で何が最善なのか。
カルラが単独でグランツの元へ向かうよりは、ユルグに付き添っているエルリレオも共に向かう方が生還できる確率はぐんと跳ね上がる。
生き残る上で神官の回復魔法、補助魔法は必須なのだ。それを欠いてしまっては、例え魔物から逃げ果せても下山する前に力尽きてしまう。
「エル、俺の事は放っておいてカルラと一緒に行って」
「しかし、その怪我では山を下りるまでは持たんぞ」
「俺は自分でなんとか出来る。でも、グランツも酷い怪我を負ってるんだ。エルがいなきゃ助からない」
ユルグの訴えに、エルリレオは逡巡した。しかしそれは一瞬のことで、決断は迅速だった。
「本当に大丈夫なのだな?」
「うん。俺も残るだなんて我儘は言わない。下山して宿で待ってる」
言いつけは守ると宣言すると、エルリレオは安堵の表情を浮かべた。
グランツとカルラも同じような事を言っていたが、エルリレオもユルグをこの場から生きて還す事を第一に行動している。理由は言わずもがなである。
その証拠に、彼が最期に託した願いは酷く無慈悲なものだった。
「一週間待っても儂らが誰も戻らなかったら、死んだものと思っても良い。そうなった場合、仇を取ろうなどと考えるな。お主のすべきことは国に帰って、勇者として旅を続けることだ」
エルリレオの言葉に、ユルグは頷くことしか出来なかった。
彼が何を思って、この事実を突きつけてくるのか。それを理解しているからだ。
ユルグの想いを汲み取っているからこそ、あえて現実を突き付ける。グランツ同様、自分が何をすべきかを考えろと、エルリレオは言外にそう告げていた。
「……わかった」
そうして、ユルグはそれに異を唱える事をしなかった。
この状況では背を向けて逃げることが最善だと、最早それしか選択肢はないと知っていたからだ。




