蛇鬼まみえる
身体から煙をあげ始めた機人を注視していたユルグだったが、動く気配がない。とはいえ奴が倒れていない現状、気を抜くわけにもいかない。
いつでも動けるようにと臨戦態勢で警戒していると、不意に奇妙な音が鳴りだした。
ギギギ――と、金属が軋むような音。およそ自然では聞かないような音だ。それにユルグが眉を顰めるよりも早く、機人は動き出した。
「――っ!」
最初はゆっくりとした動きだった。けれどそれは瞬きをする合間にユルグの目の前にいた。
振り上げた左腕がスローモーションで迫ってくる。しかし実際には一秒にも満たない一瞬。それを避けられたのは運が良かった。直前まで緊張の糸を解いていなかったのが功を奏したのだ。
すぐ間近で風切り音が聞こえた刹那、鉄の拳が地面を砕く。生物を肉塊に変えるが如きの一撃。振り抜かれた拳は地面にめり込んでしまっている。
二撃目が来る前にユルグは一目散に踵を返して駆け出していた。
「あんなの相手にしろだって!? 無茶言うな!」
ぶつける相手のいない文句が当てつけに放られる。
今の状況は完全に予想外。倒したと思ったものがまだ動いて襲ってくるのもそうだが、何よりも目を見張るのはあの速さだ。
先ほどの、マモンが相手をしていた機人よりも格段に速い。もはや目で追えないレベルにまで迫っている。あんなもの誰が相手に出来ようか。
とりあえず距離を取ろうと駆け出したが、逃げ切れるとは思っていない。けれどあの状態の機人に近づくよりはよっぽどいい選択だ。
息が切れる限界まで速度を上げて雨林の中を走り抜ける。足場も悪く滑りやすい。そのうえ鬱蒼とした雨林の中は、逃げに徹するには最悪の場所だ。逃げ道を遮る大木に身体をぶつけるのも一度や二度ではない。それでも足を止めたら終わりだ。
「はっ――クソが!」
走りながらユルグは雑嚢に手を伸ばすと魔鉱石を握り込んだ。それに魔法を込めて背後に投げる。
足止めになどなりはしないだろうが何もしないよりはマシだ。
急激に冷えた空気は膨張し、外気温との温度差で小規模な爆発を起こす。
それを背後から聞いた瞬間、何かが地面を蹴る音と当時にユルグの視界の先――大木の幹に機人がへばりついていた。跳躍してユルグの行く手を遮ったのだ。
獣のように四肢をついて、頭上からこちらに狙いを定めている。あれではもはや知性などなさそうである。頭部がないのだからそうなのだが……それが理解できたからと言って今の状況に利は一ミリもない。
「……っ、」
追いつかれてしまった。絶望的な状況にユルグは息をのむ。
真正面から戦っても、どんな策を弄してもアレには勝てない。挑めば確実に死ぬ。直感でそう感じ取ったからこそ、こうして逃げてきたのだ。
しかしそれもここで終わり。
――生きて戻るためには、覚悟を決めなければ。腕や足の一本、くれてやる覚悟だ。
あれを止める手段は一つしかない。
けれど付近には大きな池も水場も見当たらない。闇雲に捜し歩いても見つける前にやられるだろう。
しかし見境のないあの状態ならばうまく誘導すれば自分から水の中に向かってくれるはず。そこまでするのが至難ではあるが、逃げ場もなく手段も他にない。試してみる価値はある。
「出来るか分からないが、やらなきゃ死ぬ」
機人から目を逸らさずに呟くと、ユルグは剣を手に取った。
風魔法のエンチャントを施す。切れ味の増強。けれど斬るのは機人本体ではない。
相手が動くよりも先にユルグは目の前の大木の幹を斬りつけた。横一閃の斬撃は、太い幹を輪切りにする。
ずる、と大木は自重でズレて倒れてくる。ユルグはそれを蹴り上げて倒木の方向を変えさせた。
――と同時に、機人は張り付いていた大木から飛び跳ねてユルグの背後に回る。それと入れ替わりでユルグは倒れかかった大木に足をかけてそれに乗り上げた。
先の状況とは真逆。一見不可解なユルグの行動には意味があった。
「ぐっ……上手くいってくれよ」
倒れた倒木は地形の勾配に従って転がり始めた。それにしがみついて、ユルグはなされるがまま、機人との距離を取る。
もちろんこのまま逃げられるとは考えていない。あの場所に着きさえすれば何とかできるはずだ。
乗り上げた大木は木々を倒しながら進んでいく。振り飛ばされないようにしがみつきながら、ユルグは背後を見遣る。
薙ぎ倒されて出来た道を機人がまっすぐに追いかけてきている。
それを確認して、ユルグは前方に集中する。しばらくすると目当ての物が視界に入った。
「よし、ドンピシャだ!」
乗り上げてきた大木が大岩に激突する前にユルグはそれから飛び降りる。ごろごろと転がりながら急いで立ち上がると、眼前に聳えている大蛇の死骸に駆け寄っていく。
ユルグの狙いはこの大蛇だった。
死骸ではあるが、今の状況を打破するにはこれしかないとユルグは判断した。しかし勝算があるかは分からない。もし作戦が失敗してしまえばその時点で終わりだ。
背後から近づいてくる気配に意識を向けながら、ユルグは剣を抜くと刀身に炎魔法のエンチャントを施した。威力は最大。出し惜しみは無しだ。
そして、それを大蛇の死骸に深く突き刺した。
鱗と肉を突き破って、刀身は肉の塊に飲み込まれる。
本当は内側から仕掛けたかったが追われていてはそんな時間もない。ゆえにこの作戦は博打と何ら変わらない。勝率の低い賭けだ。
物音に振り返ると獲物に狙いを定めた狩人がいた。
――あとはこれをどうやって起爆するか。
頭の片隅に過ぎった問答は、まっすぐにこちらに突っ込んでくる機人を見て掻き消えてしまった。
最後の仕上げは任せても良さそうだ。
タイミングを見計らう。
ユルグの頭目掛けて向かってくる鉄拳を、握っていた剣の柄を合わせる。
――ガンッ!
(入った!)
機人の拳が剣の柄に当たると、突き刺した剣もろとも死骸の中に埋もれていった。中ほどまで埋まった腕を引き抜いた瞬間、盛大な血飛沫が斬り込んだ穴から噴き出る。
死にたてとはいかないがこれほどの大きな死骸だ。炎斬のおかげで急激に熱せられた血液は間欠泉のように勢いよく噴出する。まともに全身に浴びれば大火傷を負ってしまうだろう。
それを真正面から受けた機人は、勢いに負けて大きく仰け反った。全身に血を浴びて――しかし、それでもまだ立っている。
目の前の光景を見つめて、ユルグは息を呑んだ。水場の代わりにと即興で考えついた作戦だったが、これでもまだ動けるのか。
弱点である動力炉はすでに大量の血液で満たされている。これでも耐えられるというのなら、本当に打つ手なしだ。
「さっさと逃げておけば良かったか」
後悔を口にしたところで状況は変わらない。祈るように状況を静観していると、血液の飛沫の中から腕が伸びてきてユルグの首を掴んだ。
「ぐうぅっ!」
締め上げられ足先が地面から離れていく。
息苦しさと皮膚が火傷で爛れる痛みに意識が薄れていく。最後の抵抗に力いっぱい足を振り上げて棒立ちになっている胴体に蹴りを入れてみるが微動だにしない。
腕を引き剥そうと手を掛けるがどれだけ力を込めても一つも剥がれていかない。掴んだ両手が熱で溶けていくだけだ。
とにかく必死だった。
だから、意識の外で何があってもユルグはそれに気づけなかった。