凶兆
サブタイトル変更、キリの良い所まで加筆しました。
この状況で何を優先すべきかは心得ている。
ユルグの進行方向。立ちはだかるシャドウハウンドを、剣を横薙ぎに振るって蹴散らす。霧散していくそれを視界の端で確認して、後方に置き去りにする。
予想通り、ハウンド共はフィノには目もくれずユルグを追いかけてきた。手出しが難しい相手より、手傷を負って弱っている方を狩りに行く。当然の判断だ。
フィノには自分で対処しろと告げたが、それでも不安は残る。あちらに大挙されるよりはユルグにヘイトを向けられた方が安全だ。
けれど、今はあんなのに構っている暇は無い。一等警戒すべきは、あの獣魔である。
「ガアアアァァァアアアアアア!!」
ユルグが真っ直ぐに向かってくることを察したのか。
獣魔は大気を振るわす咆吼を吐き出して、牙を剥き出しにした。怒らせた体躯は毛が逆立ち、ただでさえデカい躯をさらに際立たせる。
咆吼に怯むこと無く一気に肉薄したユルグは、薙いだ刃先を下げて、右下から左上へ斬り上げた。
しかしその攻撃は予想した通り、獣魔が霧散したことで失敗に終わる。隙の大きい振りにすかさず、ユルグから付かず離れず。様子を伺っていたハウンドが追撃を加えようと牙を剥いて噛みついてくる。
流石にこれ以上、身体に穴を開けられる訳にはいかない。咄嗟に右手に握っていた剣を手放して回避行動を取る。転げるようにして前方に躱すと、素早く体勢を立て直し二本目の剣を引き抜いた。
――この数を一人で相手にするには分が悪すぎる。
あの獣魔一体だけならば何とでもなるのだ。しかし、攻勢に出ようとすれば奴が周囲に侍らせているハウンドの邪魔が入る。
――やはり、先に雑魚を蹴散らしてから相手をするべきか。
一瞬、そんな考えが脳裏に過ぎったが、それは駄目だとユルグは頭を振った。
そんなことに時間をかけてはいられない。
見たところ、あの獣魔がハウンドたちを従えているのは明白である。不利であるのなら尚更、親玉をいち早く叩くべきだ。
左手に握っている投げナイフを持つ手に力を込める。
こいつを使えばハウンドの足止めは可能だ。しかし魔物であっても、ものを考える頭は付いている。おいそれと手の内を明かしては警戒されかねない。だから、これはギリギリまで取っておく。
少なくとも、あの獣魔は油断しているはずだ。その油断を逆手に取る。矮小な人間一人に手傷は与えられないと高を括っているはずである。そこが唯一の狙い目だ。
相手の出方を伺っていると、再び影から現れた獣魔がユルグ目掛けて突っ込んできた。
奴の鋭い牙も爪も驚異ではあるが、もっとも警戒しなければならないのはその膂力である。
あの豪腕を真正面からは受けきれない。そんなことをしてしまえば、例え刀身で防いだとしても吹っ飛ばされてしまうだろう。
幸いにも、獣魔の攻撃は大振りだ。加えて、辺り構わず力任せに腕を振り回すものだから、周囲を取り囲んでいるハウンドも迂闊には攻撃に転じられない。
「はっ……、なんだ。見かけ倒しだな」
振り下ろされた豪腕を、身体を捻って避けると同時に、やすい挑発を吐いてみる。
実際は息も上がっているし、一発食らったら終わりという緊張も相まってユルグも手一杯だった。しかし、それを推して言葉にする。
この獣魔に意味が伝わるとは思っていなかったが、嘲笑混じりのそれに馬鹿にされていると察したのだろう。
途端に、牙を剥き出しにして怒りを露わにした。
「ガァッ――グロォアアァァアア!」
劈く咆吼が、鼓膜を揺する。それに顔を顰めて一度距離を取ったユルグだったが、後退に合わせて獣魔が踏み込んできた。
なりふり構わず噛みつかんと肉薄してくる敵を紙一重で躱しながら――どう攻めるか。
見たところ、獣魔は激昂状態である。おそらくユルグを食い殺そうと、それしか眼中に無い。あれならば注意も散漫であるだろう。仕掛けるなら今だ。
――チャンスは一度きり。
獣魔が大きく踏み込んできた瞬間を狙って、ユルグは左手に持っていた投げナイフを両者の間の地面へと放った。
直後、白い閃光が暗闇に慣れきった視界を焼く。
瞳を眇めてそれをやり過ごすと、未だ混乱状態にあるであろう。動きを完全に止めた獣魔に向かって、ユルグは追撃を仕掛けた。
薙いで脚を斬りつける。重心を下げて、急所を狙いやすくするためだ。次いで、ガラ空きの胴に渾身の蹴りを入れて、体躯を傾かせる。
ユルグの目論み通り、眩む視界の中、体幹を保てず獣魔は背中から地に伏せた。すかさず脚に力を込めて起き上がろうとする体躯を押さえつける。
こうなってしまえば勝ちも同然だ。起き上がる隙など与えずに、斬首で息の根を止める。
しかし、首筋に突き立てた刃は、あと一歩の所で届かなかった。
何が邪魔をしているのか。ユルグには一瞬分からなかった。
剣を押し込みながら、目を凝らしてやっとその正体に気づく。獣魔の影のように黒い姿のせいで気づくのが遅れた。
頸とそれを狙った刃先との間に何かが在るのだ。
ユルグの攻撃を防いでいたのは、黒い靄のようなものだった。それが突き立てられた刃の先端を防ぎ、命を狩らせまいとしている。
これが何なのか。ユルグには理解が及ばなかった。
先ほど脚を切りつけた時はこんなものは無かったはずだ。ユルグの斬撃は獣魔の脚に傷を付けその後の攻勢に転じられている。
しかし、現にこうして攻撃を防がれているのは紛れもない事実である。何をもってこれが出現したのかは分からない。悠長に分析をしている暇も無い。
しかし、何かが引っかかる。
不明瞭な違和感に刹那、気が緩む。
その緩急を狙って、獣魔は未だ突き立てられていた剣の刀身を鷲掴んだ。怪力を持って剣先を頸から逸らす。
ユルグがそれに気を取られた瞬間を狙い、獣魔は体躯を押さえつけている脚を掴んで引っ張り上げた。
「ぐッ――」
――しまった。
致命的な失態に悪態を吐く頃には全てが遅かった。
大きくバランスを崩した身体を持ち直すには、この状況では不可能に近い。されるがまま持ち上げられた身体は、受け身も取れずに地面へと打ち付けられた。衝撃に嵌めていた仮面が外れ、握っていた剣を取り零す。
奇しくも、眼前には先ほどと逆の状況が出来上がっていた。
ユルグの体躯に乗り上げた魔獣は、勝ち誇ったかのようにニヤリと歪な笑みを浮かべる。
腹上に置かれた脚はどうあっても退けられるものではない。踏みつぶさんとするそれは、ミシミシと肋骨を軋ませた。
このまま全体重を掛けられれば、踏み殺す事は容易い。しかし、そんな殺し方はつまらないとでも言うように、魔獣は身を屈めると大きく顎門を開いた。
頸に噛みつかんとするそれを、自由の利く両手でもって開くようにして抑える。
至近距離にある口腔からは、生暖かい吐息がじっとりと頬を撫でていった。
それと同時に、溢れ出てきた粘液がユルグの頬にぼとりと落ちてくる。しかしそれは唾液などでは無い。黒色の液体であった。
多少粘り気のあるそれは、ぼたぼたと獣魔の口から垂れてくる。顔面へと無遠慮にまき散らされる粘液は――しかし、ひやりとした感触だ。生物の生理的なものとは思えないほどに無機質めいている。
明らかに異常であった。
得体の知れない状態に、ユルグは気味の悪さを感じる。それと同時に、頭の片隅に何かが引っかかる不快感。
必死の抵抗をする最中、ユルグは違和感に眉を潜めた。
――昔、これと同じものを見た事がある。
思い違いであればそれでいい。杞憂である。しかしそうで無いのなら――どう足掻いてもこの獣魔には勝てない。