災厄の匣
「――ギャッ」
石扉の向こうで声が聞こえる。痛いだなんだと騒いでいる様子を見るに怪我はしていないようだ。
「大丈夫か?」
「ん、うん」
「だから言っただろ。余計な物に首は突っ込むな」
さりとて、落ちてしまったものは仕方ない。どうにかして連れ戻さなければ。石扉の前で思案していると、不意に祠の内部から重苦しく扉が開かれた。
「……なんとかなったな」
どうやら内部からはすんなりと開けたみたいだ。その事実にやはり疑問が残る。この建築物が何のために建てられたのか、てんで分からない。内部の物を守るようには出来ていないし、かといって閉じ込めるわけでもない。
「怪我はないか?」
「だいじょうぶ」
石扉の隙間から顔を出したフィノは、問答無用でユルグの腕を掴んだ。ぐいっと引っ張ると祠の中へと連れ込む。
「あれ!」
「お前なあ、俺の話、を――」
――聞いているのか。
そう文句を言おうと口を開いたユルグだったが、それは中断された。
目の前に安置されている物体に、無意識のうちに目を奪われたからだ。
「これは……」
吹き抜けになっている祠の中央には、厳かな祭壇がある。
そこに奉られていたのは、奇怪な黒い匣であった。
――漆黒の匣。
光すら通さないそれは、内部の仄暗い闇と相まって輪郭すら覚束ない。
明らかに異様な物であるが、それよりもユルグの注意を引いたのはそれの下にあるものだった。
アーチ状になって支えられている祭壇の下は、天井と同じく吹き抜けになっていた。
ぽっかりと空いた穴は覗き込んでも底が見えない。あの匣と同様に暗闇だけが眼下には広がっている。一歩間違えて足を踏み外して落ちでもしたら助からないだろう。
見たところ自然に出来たものではなさそうだ。明らかに何かしらの意図を孕んでいる。
「意味が分からん」
これにはユルグもお手上げだった。
何をもってこんな場所に、こんなものを作ったのか。あの匣は何なのか。この穴は何の為にあるのか。考えても要領を得ない。
触らぬ神に祟り無しと言うし、これ以上関わるのは止した方が良いだろう。
「あれ、なんだろ」
「分からないが、関わらない方が良さそうだ。戻るぞ」
フィノは名残惜しそうに安置されている匣を盗み見た。
「明らかにヤバそうだろ。やめておけ」
「んぅ……わかった」
物欲しそうな態度を醸し出すフィノに釘を刺す。こんなわかりやすい罠に乗ってやるほど、こちらも暇では無い。
フィノを連れ戻して、侵入した石扉から出ようとする。しかし、それは失敗に終わった。
「出口が無くなってる、のか?」
ユルグの言葉通りの現象が目の前で起きていた。
祠の石扉は眼前に聳えている。しかし、外に出ることは叶わない。石扉が閉まっているわけではないのだ。ただ、外と内の境界が存在しない。
石扉の隙間から見えるはずの外の景色が無くなっている。暗闇が境界を覆ってしまっていた。
不自然な暗闇に触れてみる。ひやりとした感触が肌に纏わり付いてきた。
腕を押して向こう側を探ってみる。しかし、肘辺りまで暗闇が飲み込んだと思ったら、それ以上はどうやっても進めなかった。
腕を引き戻して、試しに石扉を押してみてもビクともしない。
「でられないの?」
「そうみたいだな」
どうするか、ユルグはしばし思案する。
石扉から出られないのなら、天井に空いている吹き抜けから出られないだろうか。登るには骨が折れるだろうが、あそこからなら出られそうだ。
そう考え頸を捻るが、やはり簡単に逃がしてはくれないみたいだ。
天井の吹き抜けには、真っ黒な天蓋が出来ていた。
外からの光を遮断する帳は――しかし、内部を完全に暗闇に落とすことはない。ユルグがここに入った時と同じように、明るさは変わらなかった。仄暗いまま目はちゃんと利く。
あの暗闇は、どうにも完全に外界から遮断しているわけではなさそうだ。しかし内からは出られないのだから、結局似たようなものである。
「どうするかな……」
今のところ、この場に留められているだけ。害が及んでいるわけではない。しかし、そう悠長に構えている時間はあるのだろうか。
先の石扉といい、上の天蓋といいやけに不気味である。少なくとも良い印象は持たない。それに一番気に触るのは、あの祭壇の匣だ。
触れていないからあれがこの状況を作り出したトリガーとなったとは思えない。
となると、怪しいのはあの大穴だろう。
そもそもおかしな話だ。後生大事に奉ってあるであろう、あの匣の下にわざわざこんな大穴を作るだろうか。建造物ということは誰かがこの祠を建てた。人の手が入っているからには、やはり何かしらの意図があるわけだ。つまり、あの大穴には役割がある。それが何かは分からないが、この状況に多少なりとも関わりはあるのではないだろうか。
「少し様子を見てくるから、お前はここで待ってろ」
「んぅ、きをつけてね」
心配そうに見つめるフィノを石扉の前に残して、ユルグは大穴に近付いていく。
淵に立って、眼下を見下ろす。どれだけ目を凝らしても暗闇しか見えない。
しかし、どういうわけかこの大穴からは風の通り道が出来ている。下から上へ微かに流れがあるのだ。
雑嚢から一つ魔鉱石を取り出すとユルグはそれに〈ホーリーライト〉の魔法を込めた。白に淡く輝くそれを爪で弾くと、込めた魔法が発動する。
そうして眩く輝きだした魔鉱石を、穴の中に放り投げた。それと同時に、頭の中で数える。
――……十秒だ。
落下した魔鉱石が暗闇に飲み込まれるまで、十秒かかった。しかしこの結果にユルグは眉を寄せる。
仮にこの大穴に底があるとすれば、光の残滓が残るはずだ。魔鉱石の強度はかなりのもので、割れて粉々になることは無い。
魔力も十分に込めた。十秒程度で消えてしまうというのは考えられない。今のように光が暗闇にかき消されるという事態はあまりにも不自然である。
「どうにもきな臭いな」
もう一度、〈ホーリーライト〉の魔鉱石を穴の中へ投げ入れる。
――二秒。
刹那、違和感の正体に気づいて、ユルグは息を呑んだ。
光を飲み込んだあの暗闇は上へと迫ってきている。その事実を理解した瞬間、この大穴の意味がはっきりと分かった。
「……っ、そういうことか!」
もしこの場所がユルグの予想した通りのものであれば、ここに長居する訳にはいかない。
急いで踵を返したユルグの足下から、目でも捉えられるほどの濃い暗闇が這い出してくるのが目端で捉えられる。
それが形作るのは四足の獣――シャドウハウンドだった。




