幸福なひととき
窓から微かに差し込む光でヨエルは目を覚ました。
「わっ!」
瞼を開くと、すぐ傍にフィノの寝顔が見える。どうやら抱きしめられて一緒に寝ていたみたいだ。
急激に恥ずかしさを感じて、ヨエルはフィノを起こさないようにそこから脱出しようとする。
けれど、フィノの顔をまじまじと見つめて、そこに涙の跡を見つけてしまった。
……なにか悪い夢でも見ているんだろうか。
「う……っ」
ヨエルはフィノの泣いているところを一度も見たことがない。
それでも彼女の人生がすべて楽しいものだったわけではないことは、ヨエルにだってわかる。辛いことも、悲しいことも沢山あった。
それでも、ヨエルの前では絶対に弱い所は見せなかっただけだ。
「だっ……だいじょうぶ……大丈夫だよ」
声を潜めてヨエルは話しかける。眠っているから何も返答はないけれど、それでもなんだか放っておけなかった。
微かに動いた気配を察知して、ヨエルのベッドの上で丸まっていたマモンは、そっと少年に声を掛けた。
『ヨエル、起きたのか?』
「あっ、マモン。おはよう」
フィノを起こさないようにベッドから這い出したヨエルは、マモンの元へ向かう。
『うむ、おはよう』
「うん。あのね……フィノ泣いてるんだ。起こした方がいいかな?」
『そうか……そっとしてあげよう。フィノも疲れているのでな』
「う、うん。わかった」
マモンはヨエルにそっとしておくように言った。
泣いているところなど、ヨエルには知られたくないはずだ。であればせめて、知らないふりをしてあげるべきだ。
『ところで、腹は空いていないか? もう昼近くだ』
「おひる……おなかすいた」
『フィノはこのまま寝かせて、昼食でも買いに行こうか』
「うん! アルマも一緒にきて!」
「了解した」
起こさないように小声で会話を終えると、ヨエルはベッドから飛び降りた。寝起きだというのに元気の良すぎるヨエルに苦笑していると、少年はマモンを抱き上げる。
そしてフィノからもらったお小遣いを握りしめて、アルマの手を引くと賑やかな街へと繰り出していった。
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「んっ……んんぅ」
まどろみをほぐすように、フィノは大きく伸びをする。
久しぶりに快眠だったようで、寝起きは快適そのもの。
ぼんやりとした頭で天井を眺めていると、隣にヨエルの姿がいないことに気づいた。
「あ、あれ?」
昨夜は確かに一緒に寝ていたはずだけど……どういうことかベッドにいない。
そこでやっと室内に目を配ると、フィノ以外誰も部屋にいなかった。
「んぅ……誰もいない」
ヨエルだけでなくマモン、それにアルマもいない。
ということは、外に出掛けているということだ。あの二人が一緒なら心配いらないと、フィノは大人しく皆の帰りを待つことにした。
とりあえずとベッドから這い出したところで、部屋のドアが開かれる。現われたのはここに居ない三人だった。
マモンはいつものようにヨエルに抱っこされて、アルマはなにやら両手に荷物を抱えている。
「あっ、フィノ!」
「おはよう。どこ行ってきたの?」
「おなかすいたからごはん買ってきたんだ!」
アルマがテーブルに置いた荷物はすべて食べ物の類いだった。
よくもまあ、これほど買い込んだものだ。たぶんフィノとヨエルだけでは食べきれない。
「……こんなに?」
「だってみんな、おいしそうなんだもん!」
『己も買いすぎだと言ったのだがなあ』
遠い目をしてマモンが呟く。
けれどマモンの忠告を無視して、ヨエルは美味しそうなものを片っ端から買ってきたみたいだ。
「だって、おいしいものたべると元気になれるから……」
「ふふっ、そうだね」
ヨエルの気遣いは、フィノを労ってのことだとわかった。寝ているのを起こさないで買い物に行ったのもその為だ。
少年の温かな気遣いにフィノは嬉しくなった。こんなにいじらしいことをしてくれるのだ。それを叱ってしまってはあまりにも可哀想である。
「ありがとう。冷める前に食べよっか」
「うん!」
お礼を述べると、途端にヨエルは笑顔を見せた。
フィノの手を引いてテーブルに着くと、さっそく朝食兼昼食を摂る。
フィノの隣にヨエル。彼の膝上にマモン。その隣にアルマを座らせて楽しく食事をする。
『それで、アリアンネとの話し合いはどうなったのだ?』
ひとりだけ手持ち無沙汰なマモンは、フィノへと説明を求めた。
「ええっと、関所は通れることになったよ」
『おお、そうか。よかったなあ』
「うん、でも……」
言い淀んだ後、フィノはマモンにアリアンネと共に少しの間、行動を共にする事を報告する。
それを聞いたマモンはヨエルの腕の中で黙り込んだ。フィノが予想した通り、心象はあまり良くはないみたいだ。
『そうか……いやなに、心配しなくともいいよ』
「……大丈夫?」
『ああ。そちらの方が安全なら、そうするべきだ。それに、アリアンネのことはもう何とも思っていない。気遣いは不要だ』
「ならいいけど……」
心配するフィノを余所に、マモンは大丈夫だと言う。
不安はある。マモンはあんなにアリアンネの事を想っていたのだ。その気持ちをすぐに棄てられるわけがない。それでも、彼は大丈夫だという。
だったら、いまはその気持ちを汲み取るべきだ。
「わかった。なら気にしない」
『うむ、そうしてくれ』
マモンとの会話が一段落すると、ごくんと口の中の物を飲み込んで、ヨエルが話に割り込んでくる。
「おねえちゃんと一緒ってこと?」
「そうだよ。少しの間だけどね」
「そっかあ」
「ヨエルは一緒でも大丈夫?」
「うん! 平気だよ!」
少年の返答にフィノは少しだけ驚いた。
一度会ったことがあるといえど、アリアンネとヨエルはそんなに親しくはない。確実に人見知りするだろうな、と思っていた。けれど、蓋を開けてみるとそんなことはなく、ヨエルは平気だというのだ。
ヨエルと共に居ることで、確かに以前よりは彼の様子を気に掛けるようになった。開いていた距離も縮まったように思う。
けれどやるべきことに付きっきりで、ちゃんとこの子の事を見れてなかった。
いつの間にか、フィノの知らないところでヨエルはしっかりと大人になっていたのだ。
「えらいなあ」
「わっ」
にこにこと笑ってヨエルの頭を撫でてやる。
すると彼は恥ずかしそうにはにかんで、フィノの顔を見るとおかしな事を聞いてきた。
「フィノ、うれしい?」
「え? うん、とっても嬉しいよ」
「よかったあ」
なぜかヨエルはほっと胸を撫で下ろす。
少年の行動に不思議がっていると、マモンが今後の予定を尋ねた。
『アリアンネが来るまで、どのくらい掛かるのだ?』
「ううん、色々準備があるっていってたから……二、三日かなあ。それまですることないや」
旅に出てから、こんなにも暇を持て余すことはなかった。
久しぶりにゆっくり出来ることに喜ぶべきか……微妙なところである。
「じゃあ、一緒に遊びにいこう! ぼく、フィノといきたい!」
「いいよ、どこにいく?」
「ええっとねえ、うーんと……」
それでも、ヨエルはこの状況にご満悦だ。喜んでくれるなら、フィノも満更ではない。一生懸命に悩んでいるヨエルを見つめて、小さな幸せを噛みしめる。
いずれ終わりが来るとしても、ずっとこの時が続くといいな、と思いながら。




