一抹の不安
大きく膨れ上がった巨体が、地を鳴らして迫ってくる。
ユルグの背後にはフィノがいる。この状態で躱してしまえば、あの図体だ。すぐには止まれず大木に激突するだろう。しかしそれではフィノが危ない。攻撃の隙は出来るが、賭けるにしては弱すぎる。
――ここは、避けずに真正面から迎え撃つ。
眼前の魔物から目を逸らすこと無く、腰の雑嚢からナイフを取り出す。
左右一つずつ握りしめると、ユルグはじっとタイミングを見計らった。
とにかく、奴の動きを止めることだ。それが最優先。あれが手当たり次第に暴れたらどんな二次被害が出るか分かったものじゃない。仕留めるのはその後で良い。
であれば、やることは先ほどと同じだ。
けれど、駆けてくる勢いを殺さなければ凍らせても無意味。だから、タイミングが肝心なのだ。
狙うは、異様に長い腕。それが地面を駆ける数秒を撃つ。
と言ってもそれだけではまだ弱い。ユルグの狙いはただ動きを止めるだけでは無い。そこから攻撃に転じられる隙を作ることだ。
あの魔物は独特な移動をする。
長い腕を支点にして、デカい体躯を支えながら前のめりになりながら動くのだ。飛び跳ねるというよりも、短い後ろ足で支えて擦り歩くといった感じか。
だから、重心が前に傾く瞬間がある。それが狙い目だ。
――ここだ!
短く息を止め、両手に備えていたナイフを素早く放つ。
投擲されたナイフは、ユルグの狙い通り魔物の手の甲へと突き刺さった。
直後、凍り付いた手が地面と接着し、魔物の動きを止める。しかし、前へと進もうとする勢いは殺せなかった。
両手を封じられて踏ん張りが利かない体躯は、頭からくるりと一回転すると草叢を押し潰して仰向けに倒れ込んだ。
長い両腕は頭の上で、まだ凍ったままだ。
「……なんとかなったな」
目と鼻の先で転倒した魔物を見上げて、ユルグは息を吐く。けれどまだ余談は許されない。
絶好の追撃チャンスだが、残念なことにユルグの手元には剣がない。あの巨体を始末するには魔法で攻撃するよりも、剣で急所を突いた方が手っ取り早い。
それに、計三回の〈アイシクルヘイル〉の使用は、魔力の消費も馬鹿にならないのだ。
ユルグの魔力量はカルラやエルリレオと比べると劣っている。何でも魔法が使えるからと言って、魔力までも無尽蔵というわけでは無い。枯渇寸前まで使い切ってしまえば、足取りは覚束なくなる。そうなる前に回復薬で持ち直すのが定石なのだが、生憎と手持ちにはないのだ。
故に、剣で仕留めるのが今は理に適っている。
剣を取りに行こうと、仰向けに寝ている魔物から目を離した。
その直後――空気の微かな振動と共に、磨り潰された草の濃い匂いが鼻腔を突く。
それに眉を寄せた瞬間には、遅かった。
瞬きをする一瞬で、ユルグの眼前には振りかぶった長腕が迫っていた。
身動きが取れないと完全に油断していたユルグは、モロにそれを食らう。受け身も取れず、身体を貫いた打撃に肺が軋み、息が詰まった。
そのまま投げ飛ばされればまだ対処も出来たが、生憎ここまでされて黙っている敵ではなかった。
先ほどまで確かに凍っていた手を開いてユルグを鷲掴むと、ギリギリと締め付ける。
「――ッ、クソ!」
存外に力が強い。腕も満足に動かせない状態では、抜け出すのはまず無理だ。片手で握り潰される事はないが、今はそれよりもこちらの方が問題である。
「気持ち悪ぃ顔しやがって!」
頭上に持ち上げて、噛みつかんと歯列をガチガチと鳴らす魔物に対して、悪態が口を突いて出る。
どうやらこいつは、ユルグを丸呑みにしようとしているらしい。しかし、なぜかそれすらも上手くいかないようで、ガチリと歯を鳴らしてばかりだ。
ふと眼下に目を向けると、魔物の体躯はじりじりと氷域が侵食していた。それのせいで背が凍り付いて身動きが取れないのだ。
先ほどの腕を振りかぶった攻撃は、渾身の一撃だったようだ。これ以上、この魔物に出来ることは無い。
と言っても、この状況を抜け出さなければ事態は好転しないわけだが。
「――ユルグ!」
不意に聞こえた声に顔を上げると、寝転んだ魔物の頭付近にフィノの姿が見えた。いつの間にか樹上から降りて、ここまで来ていたようだ。
「危ないから離れてろ!」
声を張り上げるが、フィノはそれどころではないとかぶりを振る。
今まさに食べられようとしている人間がする心配では無いのは承知しているが、そうは言っても先ほどのような不意打ちがこないとも限らない。フィノがアレを食らったら無事では済まないことなど分かりきっている。
「たべられちゃうよ!」
否定の言葉も無い。その通りである。
しばし逡巡すると、ユルグはフィノにあることを頼んだ。
「剣は持ってるか!?」
「ん、うん!」
「よし、だったらそいつの横面に目玉が付いてるだろ。そこにぶっ刺してやれ!」
ユルグの指示に、フィノは迷いなく頷いた。
そうして、重さに震える腕をなんとか支えて、剣の切っ先を魔物の目玉に突き刺したのだ。
「イイイイィィィイイイィィ!!!」
劈く絶叫に、大気が震える。
耳を塞ぎたくなるような爆音に顔を顰めていると、堪らずといった様子で魔物はユルグを手放した。
魔物の腹上に放り出されたユルグは、慌ててフィノへと目を向ける。
捕まえていた獲物を放ってまで敵がする事と言えば一つしか無い。
「そこから離れろ!」
頭上からユルグの叫び声が聞こえて、フィノは掴んでいた剣の柄から手を離した。
未だ剣先は目玉に食い込んだままだ。フィノの腕力では突き刺すだけで精一杯だった。ここから引き抜くなんて、出来そうも無い。
断念して、ユルグの言に従おうと後ずさりしようとしたその直後。
今度はフィノを捕まえようと、頭上から魔物の手が迫っていた。
それに息を呑んで固まる――よりも早く。自分でも驚くほどに、冷静にフィノの手には護身用にと持たされていたナイフが握られていた。
それを、捕まえようとするよりも早く、もう一つの目玉に突き刺してやる。
フィノの咄嗟の行動は、殆ど無意識のものだった。
腹上で一連の流れを見ていたユルグは、それに絶句する。普通ならばあり得ないことだからだ。
ここまでフィノと一緒に旅をしてきて、自分で直接敵に攻撃しろと指示したのはこれが初めてだった。フィノに戦闘経験が無いことは知っていたし、極力そういった事態にならないように注意を払ってきたのだ。
だから、こうして魔物と至近距離で対峙するのは初めてと言っても良いはずなのに、フィノからは何の躊躇も感じられない。それがユルグには異常に見えた。
昔の自分を思い返してみても、フィノのように割り切れはしなかった。魔物であれど、命を奪う行為は等しく恐ろしいものだからだ。誰だって多少は恐怖を抱くはずのもの。それを平然とやってのけるのだから、空恐ろしい。
きっと、フィノの今までの環境がそうさせるのだろう。奴隷であったのなら、誰かの死を目の当たりにするのはそれほど珍しい事でも無かったはずだ。