それは、悪意と呼ぶにはあまりにも
突然のことに、ヨエルはそれを眺めて呆然と立ち尽くした。
さっきまで生きていたはずの男が、一瞬のうちに物言わぬ肉塊に成り果ててしまったのだ。
「うっ、ううう……」
ふらふらと足元が覚束なくなり、尻餅をつくと込み上げてくる吐き気に嘔吐く。
肉塊になったそれは湯気を立てていて、それがあまりにもリアルだった。人が死んだところすら見たことがないヨエルにとっては刺激が強すぎる。
出来るだけ視界に入れないようにきつく目を瞑っていると、不意に聞き慣れた声が脳裏に響いた。
『ヨエル、無事か!?』
「……マモン」
『すまない、気づくのが遅くなった』
不死人に群がられていたマモンは、ヨエルが落ちたことに気づかなかった。あの状態では無理もないことだ。
声が聞こえた直後、マモンはヨエルの前に黒犬の姿を現わす。それを目にした瞬間、ヨエルは脇目も振らずに抱きついた。
『ど、どうしたのだ!? 何かあったのか!?』
突然の事にマモンは狼狽える。
抱きつかれたヨエルの身体は微かに震えているのだ。何かあったのだと察したマモンはヨエルの腕の中、身動きが取れないながらも周囲を探る。
暗闇に包まれたその場所に、マモンは違和感を覚えた。
おそらく、この場所は大穴の底になるのだろう。しかし断言するにはどうにも不自然だ。
十年前、ユルグと共に大穴の底に到達したマモンはそこがどういうものか、知っている。
元々、この大穴というのは四災を封じ込めるためのもの。それ故に、地上では当たり前のように溢れていた瘴気の残滓をあの場所では一つも感じなかった。
しかしどういうわけか。今居るこの場所には、瘴気が溢れているのだ。
『ありえない……なんなのだ、ここは』
プロト・マグナの話では、二人が辿り着いたこの場所は正規のルートを辿ってはいない。その為に、少しおかしな場所に辿り着いたのかとも考えた。だとしても違和感が拭えない。
これが本当に大穴の底、四災が囚われている場所であるならば……この状態、いつでもここから出られるのではないか?
だとしたら、これではまるで――
「また新しいのが増えたみたいだ。それも、滅多に見ない顔だね」
頭上から聞こえた声に、マモンはそれを見上げる。
それはマモンにとって馴染みのある姿をしていて、これがどういう存在なのかすぐに理解した。この獣こそが、ログワイドが出会った四災なのだ。
『お前はなんだ?』
「それはこちらが聞きたい。君のような呪詛を私は知らない」
『……っ、なんだと?』
思ってもみない四災の言葉に、マモンは絶句する。
しかし、あの姿。確実にログワイドが会った四災に違いない。記憶違いか、はたまたマモンの事を彼が知らないだけか。
思案していると、か細い声がマモンの耳朶を打った。
「マモン、ぼく……たすけてって、いっ――あ、あんなことになるなんて、しらなくて」
酷く怯えているヨエルの話は支離滅裂だった。けれど、今にも泣き出してしまいそうな様子にマモンも彼の異常に気づく。
どうしたんだ、と尋ねる前に周囲を見渡して、マモンはそれを目にして言葉を失った。
『こ、これは……』
無惨な肉塊に、いったい何があったのか。事情を知らないマモンでさえも、ヨエルの不安はひしひしと感じ取れる。
これが誰のものかも簡単に予測がついた。この場所に辿り着いた生身の生物など、ヨエル以外にただ一人しかマモンは知らない。
しかし、だとしてもヨエルがこんなにも怯えているのは不自然だ。先ほどの話だって、まるで自分の所為だと語っているようにも聞こえる。
「君が気に病むことはない。ヒトであれば、遅かれ早かれ辿る運命だ。今死んだところで結果は変わらない」
「で、でも……」
「それに、彼は君に悪さを働いたのだろう? だったら何も同情する余地はないはずだよ」
「でも、ぼく……死んで欲しいなんて思ってない」
ヨエルの一言に、四災は曇り顔を一変させて笑みを浮かべた。
「ああ、そういうことか! 何が不満かと思えば、君は彼が死んでしまったことを気にしていたのか!」
「……えっ?」
「なるほどなあ。そこには思い至らなかった! 完全に失念していたよ。そういえば、君たちはそれに固執する生き物だった」
その獣はおかしな事を言い出した。
幼いヨエルでも、彼が命を軽んじていることは理解出来る。それも、まったく悪気はないのだから質が悪い。
誰にとっても、どんな生き物であっても。命というものは尊ばれるものだ。それを蔑ろにしていい理由などない。
けれど、それを彼はまったく理解する気はないのだ。
「どうしてそんなこと……」
「不毛で無意味なことだからだ。不死者に死ぬなと言っているようなものだね」
獣はヨエルの問いに答えをくれる。けれど会話としてはまったく成立していないものだ。
単純に彼が何を言っているのか、ヨエルにはわからない。そしてそれはマモンも同じだった。
『……どういうことだ?』
四災のような上位者を除いて、この世界に不死と呼べる者は存在しない。マモンはそれに近しい存在であるが、だとしても呪詛であり依代がなければこの世に存在できないものだ。
そしていわんや、定命であれば言わずもがな。
けれど、今の四災の口振りではまるで人間を指したような物言いである。




