真闇の彼方
真下には暗闇一色の大穴が口を開けて待ち構えている。
それを見据えて、突然飛び降りた男にヨエルは抵抗するでもなく、じっとして目を瞑る。
いくらヨエルが子供であっても、こんな大穴に飛び降りるなんて無事でいられるはずがないことはわかる。
プロト・マグナが大穴の底に案内してくれたけれど、彼はそこまで辿り着けるように手助けをすると言ってくれたのだ。それを聞いて安心していたのに、いざこうなってしまえばヨエルの傍に居るのは彼を攫いに来た男だけ。
全身に受ける浮遊感を覚えて、ヨエルは閉じていた目を薄らと開く。
けれど見えるのは相変わらずの真闇だけ。どこまで落ちたか、どこまで続いているのかもわからない。
きっと大穴に飛び込んだ男も同じことを思っているはずだ。
でも一度飛び込んだら、ここから地上に戻る事なんて出来ないだろう。
来たるべき結末を想像して縮み上がっていると――突如、身体を覆っていた浮遊感がなくなった。
「う、うわっ!」
微かな衝撃を受けて、ヨエルは転び落ちそうになった。
彼の身体の下には、長い体毛が生えそろった体躯が見える。触れたそれは冷ややかで、これが何なのか、ヨエルにはすぐにわかった。
「マモン!?」
『なんとか間に合った……いや、間に合ってはいないか』
石扉の前から一瞬でヨエルの元に戻ったマモンは、再度あの獣の姿を取った。巨体を利用してなんとか大穴の壁面に張り付いているのだ。
「少しばかり無茶をしたかと思ったが、なんとかなるもんだな」
『お前は黙っていろ』
マモンの背中で軽口を言う男を一喝すると、マモンは遙か上を見つめる。
頭上には微かに光が見えた。小さな光は、今居る場所がそれなりに深い事を示している。ここにいる誰もが、地上への帰還は一筋縄ではいかないことを察していた。
「マモン、どうしよう……」
『安心するといい。己が必ず地上へと帰してやるのでな』
ヨエルの不安を感じて、マモンは彼を優しく宥める。
しかし、状況は最悪の一言に尽きる。なんとか壁面にへばりついているが、ここから上に登っていくのにどれだけ時間を要するか。マモンにも予測出来ない。
彼が制限なく、昔のように無敵の魔王だったのならこんな状況も簡単に打破できただろう。けれど、今は見る影もなく弱体化してしまった。
時間をかければ壁面を登って地上に出られる。問題は大穴から脱出する間にマモンの力が尽きてしまうことだ。
そうなれば、ヨエルはまた大穴の底に真っ逆さま。今度こそ助けることは叶わない。
ヨエルを頭の上に乗せて、マモンは慎重になっていた。
どうすれば彼を無事にここから脱出させることが出来るか。打開策ならばある、しかしそれはマモンが最終手段だと手を出さなかったものだ。
『……仕方ないか』
とはいえ、この状況では悠長な事を言っている場合ではない。問題なら他にもあるのだ。
上に見える小さな光の彼方から、大穴の底目掛けてポツポツと降ってくる物がある。まっくろなそれは、先ほど男を執拗に追いかけ回していた不死人だった。
本能の赴くままに奴らは躊躇うことなく大穴に飛び込む。それはまるで雨のように頭上から降り注いでくる。
そのまま穴底に落ちてくれれば助かるが、事態は必ずしも良い方向へは進まない。
手足を壁面に拘束されているマモンでは、降り注いでくる不死人が彼の身体の上に落ちてもどうすることも出来ないのだ。
「わっ!」
何かがマモンの身体の上に落ちてきた衝撃と、ヨエルの叫び声が聞こえたのはほぼ同時。
しかし今のマモンでは、自身の上で何が起こっているかなど確かめようがない。
「クッ――落ちろっ!」
マモンの憂慮は男が不死人を叩き落としたことで、事なきを得る。けれど、依然不死人の雨はやまない。
続々とマモンの身体に這い寄ってくる不死人の数も増えていく。
『ヨエル! 大丈夫か!?』
「う、うん……だいじょうぶ」
聞こえたヨエルの声音は震えていた。無理もないことだ。十歳の子供が気丈に振る舞える状況ではない。
せめて自由に使える両手があれば彼を守ることが出来た。もしくは空を飛べる身体であれば、こんな場所からもすぐに脱出できただろう。
しかし、マモンはどんなものにも姿を変えられるが性能までも上がるわけではない。翼があっても空を飛ぶ技術がないのだ。
今になってそれを悔やんでも、後悔先に立たず。無意味なことだ。
ヨエルの怯えた様子を見て、マモンはようやく腹を括る。
――いま無茶を通さずしていつがその時か!
『少し手荒になる! しっかりと己の身体に掴まっていろ!』
「うん!」
忠告をして、マモンは勢いよく身体を震わせた。
水気を払うかの如く、ぶるりと身震いする。そうすることで、身体にしがみついている不死人を払おうと考えたのだ。
ヨエルを気にかけながらでは、マモンも満足に動けない。攻勢に出るにしても先に脅威を排除してから、と考えたのだが……結果それが裏目に出た。
不死人を払おうとするならば、生半可な力では叶わない。そしてそれは、子供の力では耐えられるものではなかったのだ。
いくらマモンの忠告があっても、気をつけていても。あまりの衝撃に、ヨエルは掴んでいたマモンの体毛から手を離してしまった。
「う――ッ!」
手を離したと認識するよりも前に、ヨエルの身体は再び穴底へと落下していく。
叫び声を上げる暇もない。
まっくらな暗闇の中、次第に遠ざかっていくマモンの姿だけがヨエルの脳裏に焼き付いていた。




