悪魔の囁き
マモンと離れてしまったヨエルは、なんとか男から逃れようと暴れていた。
しかし、どんなに抵抗しても子供の力では脱出など無理である。
あれよあれよという間に、男は盗んだ馬に跨がって街から遠ざかっていく。
「落馬して痛い思いしたくなけりゃ、暴れるなよ」
聞こえた忠告にヨエルは口を噤んで無視を決め込む。
簀巻きとまではいかないが手足をロープで拘束されているから、逃げだそうにもすぐに失敗に終わるだろうことはヨエルにもわかっていた。
だからといってこの男に素直に従ってやろうとは、少年は思っていない。
柔順なふりをしていれば隙が生まれるはず!
今は大人しくしていようと決めたところで、男は馬を停めた。どうやら少し休憩するみたいだ。
「逃げようだなんて考えるなよ?」
男はヨエルを馬の背から降ろすと、木陰に降ろした。
その傍には馬を繋いで、自分は少し離れた場所で地図を広げて何かしている。
男と距離が離れているといってもヨエルの姿は視界に入っている。逃げようとしても、すぐに気づかれてしまう。
しかし、幸いにして今まで騒いでいなかったせいか、口元は塞がれていない。
今は何もするべきではないと考えたヨエルは、男へ話しかけることにした。
自分がどこに連れて行かれるかも把握していないのだ。何かヒントが得られるかもしれない。
「おじさん、どこにいくの?」
「それを馬鹿正直に言うと思ってるのか? 言わないよ。自分で考えな」
黙秘を貫く男は何も答えてくれない。よほど慎重な性格をしているらしい。
だったら自分で考えるより他はない。いまある情報で答えを導き出すのだ。
ヨエルは男の言動を振り返って見た。
すると、あることが気になる。彼は部屋に入ってきて開口一番、尋ねたのだ。
「まおうってなに?」
問いかけると、男は地図から目を離してヨエルを見た。その眼差しは怪訝そうで、ヨエルがこんなことを聞いてくるとは思っていなかったみたいだ。
「知らないのか?」
「うん、しらない」
相手の目を見て答えると、男は初めて驚愕を見せた。
「ははっ、マジかよ! そりゃねえよなあ」
なぜか男は声を上げて抱腹する。突然の事に理解が追いつかないヨエルは、当然の如く訳がわからない。
困惑していると、ひとしきり笑い終えた男が口を開いた。
「可哀想になあ。お前、何も知らされていないのか」
大笑していたのが一転、憐れみの眼差しを向けられてヨエルはますます困惑する。
けれど男がなんと言おうと、魔王なんて言葉は一度だって聞いたことはない。本当に何も知らないのだ。
「そういうことなら特別になんでも答えてやるよ。俺はとっても優しいからな」
男もヨエルが不安そうな顔をしているのを見て気づいたのだろう。
先ほどの素っ気ない態度を改めて、質問に答えてくれるようだ。ヨエルがそれに喜ぶ前に、男は勝手に話を進めていく。
「まずお前を攫った理由だが……俺の祖国、デンベルクへ連れ帰るためだ。どうしてって? お前が魔王だからだよ」
「まおう……」
楽しそうに男は語る。何がそんなに楽しいのか。ヨエルには依然としてわからないままだ。
「人違いとかはない?」
「ないね。どれだけ調べ上げたと思ってる。それにお前、あの怪物と一緒に居ただろ? なら間違えようがない」
男の話では魔王というものは誰かの身体を借りていないと存在できないらしい。その器がヨエルなのだ。
それを聞いて、ヨエルも納得する。今まではっきりと言われたことはないが、薄々そんな予感がしていた。
でもそれが知れたからといって、何も不都合はないように思う。マモンはマモンだし、今までずっと傍に居てくれたことに不満なんて一つも無い。彼のおかげでヨエルは寂しい想いをせずに済んだのだ。
「マモンはぼくの大事な家族だよ! 怪物なんかじゃない!」
「なるほどなあ。でもそれ、お前がそう思っているだけかもしれないぜ?」
いやらしく笑った瞳に、ヨエルはごくりと唾を飲み込む。
「魔王にとっては、家族のふりでもして手懐けておけば都合がいい。それだけの理由でお前に優しくしているだけなんじゃないのか?」
「ちがう!」
男の言葉にヨエルは惑わされなかった。
確かにマモンはヨエルに言えない秘密を抱えている。それは幼いながらもずっと傍に居たヨエルにはわかっていた。
今までずっと一緒に居てくれた時間はなくなりはしない。ヨエルには最初からマモンを疑うなんて想いはどこにもないのだ。
だから男の不躾な物言いにもすぐに反論出来た。




