夜明けの攻防
男は懐から投げナイフを取り出して、マモン目掛けて投擲した。
それを易々と跳ね返したマモンに、男は何かを見定めるような眼差しを向ける。
男と対面したマモンは、彼がかなりの慎重派であることを先ほどの攻防から見抜いた。
――迂闊に近接戦闘に持ち込まない。
先の投擲も結果がわかった上で試したのだろう。おそらく、彼は魔王がどういう存在なのかを理解している。
マモンには攻撃の類いは一切通じない。加えて力もすこぶる強いので並の人間では相手にならない。それを知っていてむざむざ正面から挑んでくるような間抜けではないようだ。
しかしこの状況がマモンに有利であるかと問われれば、そうではない。
「やはり攻撃の類いは通用しないか」
『それがわかっているのならば、早々にお引き取り願いたいものだな』
「ああ、そう。だが俺も、はいそうですかと引き下がるわけにもいかないんだ」
男はマモンが見せる圧に尻込みする気配も無い。説得は無理だと見て良いだろう。
そうなれば、どうやってこの状況から脱するか。何よりも大事なのはヨエルの身の安全だ。怪我を負わすこと無く、敵を撃退出来れば良いが……今のマモンにはそれが難しい。
昔なら無敵と言われたマモンも、この十年で大幅に弱体化してしまった。彼が本来の力を発揮するには瘴気を取り込む必要がある。もちろんそんなことをすればヨエルの身体にも悪影響を及ぼしてしまう。
それに、マモンはユルグと約束したのだ。
この先、魔王として生きるのではなく、まだ幼いヨエルの為に生きるのだと。
その誓いをマモンは破れない。だからこそ、今のマモンには目の前の男を問答無用で打ち倒せる力など、無いに等しいのだ。
『……ふう、どうしたものか』
小声でひとりごちながら、マモンは男と睨み合いを続ける。
何をするにしても、マモンにはそれほど時間は残されていない。こうして実体化できる時間は、せいぜいあと五分ほどである。力を節約出来る黒犬の姿ならばまだ持つだろうが、そんなもので目の前の男をどうにか出来るはずもない。
きっと男はマモンの状態も知っているのだろう。
つまり、男からしてみれば時間切れを待っているだけでヨエルを攫っていける。不利なのは圧倒的にマモンの方なのだ。
「――だから、多少手荒になる。安心してくれ、死なない程度に威力は抑えてやるよ」
男が言い終えた直後、彼の周囲から突風が巻き起こった。
吹き付けてくる風は瞬く間に部屋の中を荒らして、ごうごうと渦を巻く。研ぎ澄まされた風の刃が壁や天井を切り裂き窓ガラスを容赦なく割っていく。
マモンは咄嗟に傍にあったベッドを怪力で持ち上げると、それを盾にして敵の攻撃を防ぐ。
マモン一人ならばこんなことをする必要はない。しかし、この突風はマモンの身体を盾にしても全てを防ぐことは出来ない。背後にいるヨエルに怪我を負わせてしまう可能性もあるのだ。
それを懸念してベッドを盾にしたが、結果的にこの判断は正解だった。
『大丈夫か?』
「う、うん……」
背後を気にしながら、マモンは盾越しに相手を睨めつける。
このまま防戦一方ではいられない。なんとか状況を打破しなければならないが……攻めあぐねているのが現状。
こうしてヨエルを守りながらではマモンは自由に動けない。それを見越して男は戦略を変えたのだ。
――攻めきれないのならば、逃げるしかない。
頭の片隅に浮かんだ思考に、マモンは躊躇してしまう。
それは何もこの場から逃げられないから、というわけではない。逃げた後の事をマモンは心配しているのだ。
退路ならば、背後にある窓から飛び降りれば良い話。
マモンならば地上四メートルから降りても怪我は負わない。ヨエルを抱えて外に出られる。
問題はその後、窮地から脱出しても男は追跡を辞めることはないだろう。そうなれば、フィノが傍にいない以上、いずれ消えてしまうマモンにはヨエルを守り切ることが出来ない。
無力な子供一人ではこの男からは逃げられない事など、火を見るよりも明らかだ。
実質、退路を塞がれたも同然である。
だからこそ、マモンが今やるべき事は一つしかない。
ベッドの盾の裏にヨエルを置いて、単身敵を叩く。
近接ならばマモンの右に出る者は居ない。相手は小細工に長けているが、真っ向からのタイマンには弱いはずだ。
ここで叩いておけば追われる必要も無いし、全てが解決する。
逡巡したのち、マモンは攻勢に出た。
ベッドの影から飛び出すと、数メートルの距離を一瞬で詰める。風の刃をものともせずに、そのまま間髪入れずに鉄拳を見舞う。
膂力も、拳を振るう速度もおおよそ人には出し得ない威力を誇っている。当然それを避けるのは至難の業。
しかし、男はそれを紙一重で避けた。
バランスを崩したそれに追撃を見舞おうとするが、それよりも早く男はマモンの間合いから離脱する。
そして彼が一目散に向かったのは、ヨエルが隠れているベッド裏。
『――っ、ヨエル!!』
「おっと、迂闊に近付いてくれるなよ」
首根っこを掴んで持ち上げた少年の首筋に、男はナイフを突き付ける。
それだけでマモンは助けに行くことも出来ず動けなくなった。
「魔王の器であるから死ぬ事はないが、斬られたり刺されたりするのは痛いんだろ? 痛い思いさせたくなかったらそこから動くな」
脅し文句に、マモンは観念する。
大人しくなったマモンとは対照的に、男の手中にいるヨエルは暴れ回っていた。
「はなせ!」
「お前も、大人しくしてたら悪いようにはしないよ」
男の話に聞く耳を持たずにヨエルはもがいている。しかしどうやっても力の弱い子供では、あの状況から脱出するのは難しいだろう。
男もそれをわかっているから、ヨエルが暴れても然程気にしていない。
「――っと、そろそろ俺はお暇するよ。じゃあな」
男はマモンに背を向けると、ヨエルを脇に抱えて窓から飛び降りた。
慌てて窓際から身を乗り出して行方を確認すると、二人は路地に入っていきすぐに見えなくなる。
『あの男……っ、してやられた!』
苛立ちを拳に乗せて、マモンは窓枠を叩く。
あの瞬間、マモンの選択は間違っていなかった。刻限が迫っている中あれが最善で、きっと男はあの展開を望んでいたのだ。
――マモンがヨエルから離れる瞬間を。
つまりは、マモンよりもあの男の方が一枚上手だったといえる。
そして、それを悔いている時間はマモンには無い。
朝陽が差し込む窓から身を乗り出し、マモンはヨエルの追跡に向かった。




