雨林の魔物
水中から飛び出してきた物体は、植物と断言するには些か奇妙だった。
うねうねと水面を這う蔓は、まるで食指を動かすかのように落ち着きがない。それの根元には、太い幹が立ち上がっていた。
おそらくあれは水底に根を張っていて、獲物を察知するとこうして水面を押し上げて這い出してくるのだろう。そして、その幹の天辺には大きな蕾が一つ成っていた。
流石にこれをただの植物と形容するのは憚られる。
こいつは、この場所を餌場にして張っていたのだ。そこには確かな知性がある。おそらく、魔物の一種だろう。
あの村に生えていた植物と同一個体であるかは不明だが、用心するに越したことはない。
「なにこれ!?」
「早く戻ってこい!」
「んぅ……むり!」
池から上がるには数メートルほど距離がある。
急いで踵を返したフィノだったが、水の中では思うように動けない。
それに加えて伸びてきた蔓は獲物を見つけたようで、するすると彼女の身体を絡め取って持ち上げてしまった。
「ひゃあっ!?」
あの状態でフィノが自力で脱出するのは不可能だ。
持たせているナイフも荷物と一緒で手元にはないし、あの太さの蔓では手で引きちぎるのは難しい。ユルグが斬ってやろうにも一度幹を伝って近付かないといけない。
「大丈夫か!?」
「んっ……すこし、くすぐったい」
フィノの様子を見るに、あの魔物は捕まえた獲物に危害を加えるようなことはしないみたいだ。
わざとそうしないのなら、これは罠の可能性がある。
こうして捕らえた獲物を囮にして、助けようと近付いてきた奴を餌食にしようという魂胆だ。
しかし、それならば近付かなければ良いだけの話。
フィノは蔓に縛られたままだが、それだけしか仕掛けてこないならやりようはある。
――〈バーンアウト〉
ユルグは、掌に意識を集中して生み出した炎の球を、魔物目がけて放った。
狙うは蔓の根元である幹の部分だ。フィノを縛っている蔓だけを狙うのは集中を要するし、外れたら危険である。
植物のような形態をしているため、炎には弱いはず。
見かけだけで手も掛からないと踏んでいたユルグだったが、そう簡単に事は運ばなかった。
放った火球が幹へと当たる前に、それを阻止するかのように蔓が動いて防いだのだ。
勢いを殺された火球は消え去り、攻撃を受けた蔓は炎が燃え広がる前に池の中へ引っ込んでしまう。
「こいつ、意外とやるじゃないか」
眼前の状況を見据えて、ユルグは感嘆の声を漏らした。
水場に潜んでいるのは弱点である炎攻撃から身を守るためでもあるということか。
なるほど、理に適っている。
「びっくりしたあ」
冷静に状況を判断していると、依然縛られたままのフィノが驚きに瞠目していた。
呑気な様子に、助けるのも馬鹿馬鹿しくなってくるがそうは言っていられない。
間髪入れずに火球を放ってみるも、何度やっても結果は同じだった。
蔓が燃やされたところで、魔物にとっては痛くも痒くもないのだろう。ダメージが然程感じられない。
この方法ではいくらやっても無駄だ。
「厄介だな」
何もこの魔物を倒すことはないのだ。この池から離れればあの魔物は追ってくることは出来ない。
ユルグは、フィノを救出できれば良いだけだ。
しかし、現状それは難しい。
遠距離攻撃ではこいつを仕留められない。
だったら近付けば良いだけの話なのだが、こんなあからさまな罠が張ってあると主張しているものに安易に近付くのは避けたい所である。
あの村にあった植物と同じものだという確証はないが、そうである可能性も棄てきれない。
何より、ユルグが一番気になっているのは天辺にある閉じたままの蕾だ。
水中から出てきた直後と比べると、少し膨らんでいるようにも思える。
何をする気か知らないが、この魔物は頭が良い。接近されたとしても何かしら対抗策は用意しているはずだ。
「気は乗らないが、仕方ない」
剣を抜いて、ユルグは池へと踏み込んだ。
すぐさま纏わり付かんとする蔓を切り伏せながら、ゆっくりと魔物へと近付く。
魔物は池の中央付近から出現した。
水深は近付くほど深くなり、幹へと行くには数メートルほど泳いで行かなければならない。
そんな状況の中、纏わり付いてくる蔓を斬り付けながらやっとの思いで幹の傍まで辿り着いた。
ユルグが幹へと向かうまでの間、魔物がした行動は蔓による妨害だけだった。
まるで近付いてくれと言わんばかりである。
その様子に訝しみながらも登ろうと幹へ足をかけた瞬間。
「――ユルグ、あれ」
突如、逆さまに吊られていたフィノが声を上げた。
彼女の視線の先を追うと、そこには先ほど目にしたよりも肥大化した蕾があった。
ユルグがそれに気づいて、動きを止めた一瞬。
今にもはち切れそうだった蕾は、いきなり開花したのだった。
毒々しい紫色の花弁を晒しながら、まき散らされる花粉。
目で見ても分かるほどに濃度が高い桃色のそれは、一瞬にして池一帯を覆ってしまった。
「あまいにおい、するね」
「――っ、あまり吸い込むな!」
医者の手記に書かれていた内容と、この魔物の特徴は一致する。
紫色の花弁に、甘い匂いを放つ花粉。大量に吸い込んでしまえば、あの村人たちと同じ結末を辿りかねない。
取り出した布きれで口と鼻を覆うと、ユルグは再び幹へ足をかけた。
この状況ではグズグズしていられない。
花粉自体は脅威ではあるが、吸い込まなければどうということはないのだ。
しかし、魔物はそれを黙って静観することはしなかった。
先ほどまではユルグの行動をやんわりと妨害していた蔓が、素早く足下へ巻き付いてきたのだ。
まるで幹から引き剥がすかのように纏わり付いてくる蔓に、登ろうと両手を塞がれている状態では対処出来ない。
強い力で引かれて、ユルグは水中へと引き込まれてしまった。
「――ユルグ!」
呼びかけるも水中にいるユルグにはフィノの声は届かない。
なんとかこの状況から逃れようと、身を捩るフィノであったがそんなことで解放されるのであればこうはなっていない。
「んぅ、はなして!」
それでも必死の抵抗をしていると、なんとか腕は動かせるまでにはなった。
しかし、身体に絡みついた蔓を全て解くには素手ではやはり難しい。
フィノが蔓と格闘すること数分、水中に引きずり込まれたユルグは絡みつく蔓をなんとか切断して水面へと顔を上げた。
「……っ、ユルグ!」
浮かび上がってきたユルグを目にして、フィノは安堵の息を零す。
それにユルグはちらりとフィノに目を向けると、眼前に聳える魔物を睨み付けた。
たった今、溺死という危機は乗り越えたが、手放しで喜べる状況ではない。
必死に息を整えている間、先ほどから感じていたこの魔物の不可解な行動にユルグは合点がいった。
問題はその手管にある。
捕まえた獲物を囮にして助けようとした所を一網打尽にする。そこまでは良い。
ユルグも垣間見た通り、この魔物の常套手段は花粉によって昏倒させることにある。そうしなければ満足に餌となる獲物を捕らえられないからだ。
蔓で絡め取ろうにも、植物であるが故に動けないのでは追えないし、素早い獣はそう簡単には捕まらない。
だからこうして花粉で捕らえやすくするのだろうが、それも獲物が吸い込まなければ意味がない。
ユルグの対策は何も間違ってはいなかったのだ。けれど、今回はこの魔物の方が一枚上手だっただけのこと。
助けようと水の中に入れば動きは鈍る。加えて、幹に取り付かれても水中に引きずり込んでしまえば問題はない。仮にそれから逃れられたとしても、息が続かず水中から上がってくれば花粉の餌食になってしまう。
「クソッ!」
良いようにやられて、ユルグは奥歯を噛みしめた。
花粉による症状は、回復魔法を使っても緩和出来るものではないはずだ。そうであるのなら、村であんなにも人は死んでいない。
幸いにもまだ猶予はあるらしい。であればなりふり構ってはいられない。
「フィノ、腕は動かせるか?」
「だいじょうぶ!」
「だったらこいつを、あのクソ野郎に喰わせてやれ!」
声を張り上げてフィノへと投げたものは、ユルグが身につけていた雑嚢だった。
ポーチ型のそれに入っているものは、ユルグが事前に準備していた戦闘用の魔鉱石である。
最大限に込められた魔力は、あの魔物を吹き飛ばすくらい造作もない。
それをあるもの全て――四つの魔鉱石をもってとなると相当な威力になる。
一番魔物との距離が近いフィノに危害が及ぶかも知れないと出し渋っていたが、リスクを取るか死を取るか。比ぶべくもない。
「扱い方はこの前教えただろ!」
「んぅ、わかった!」
フィノは言われた通りに、取り出した魔鉱石を花弁の中央にぽっかりと空いている穴に投げ入れた。
コロコロと吸い込まれた魔鉱石は、衝撃によって込められていた魔力を放つ。
その威力は目も当てられない程に凄まじいものだった。
爆発と共に熱風が辺りの草木を揺らし、池を覆っていた花粉を吹き飛ばしていく。その余韻が収まる前に氷の礫が四方八方に突き刺さり木々や地面を抉っていった。
魔鉱石の爆発によって眼前に聳えていた魔物は呆気なく塵と化してしまった。
幹もろとも本体が消滅したことで、フィノを縛り上げていた蔓も力を失いボロボロと崩れていく。
「ギャッ――」
情けない声を上げて水中へと落っこちたフィノは、なんとか池の畔にまで戻ってきた。
先に池から上がっていたユルグは、岩に座って休憩しているみたいだ。
けれど、どうにも様子がおかしいようにフィノの目には映った。
「ユルグ、だいじょうぶ?」
「ああ……少し眠いだけだ」
「ねむいの?」
フィノが尋ねると、ユルグはゆっくりと頷いた。
普段とは違う様子に不安げに見守っていると、ユルグは静かに立ち上がる。
けれど、一歩足を踏み出した瞬間、前のめりになって倒れてしまった。
「――え?」
いきなりのことに驚いて目を見張る。
倒れたユルグはピクリとも動かない。
普段の彼ならばこんな醜態はさらさないはずだ。
それを知っているから、何かあったのだとフィノは慌ててユルグへと駆け寄った。
「ユルグ!?」
仰向けにすると、仮面を外して息を確認する。
ちゃんと呼吸は出来ているし、他に異常は見られない。
頬を軽く叩いてみる。しかし、起きる気配はまるでなかった。
「……どうしよう」
心細げに呟くと、そんなフィノを嘲笑うかのように雨が降り出してきたのだった。