スタール雨林
人の手が入っていない雨林を進むのは想像以上に過酷だった。
ユルグ一人ならばなんとかなったが、地面には木の根が張り巡らされ、起伏の激しい地形。それに加えて湿気に富んでいる環境は、注意していても足が滑りやすい。
フィノにとっては、一歩進むだけでも相当難儀するものだった。
「――うあッ」
「大丈夫か」
フィノが転ぶたびにユルグは手を差し伸べてやるが、こんなことではすぐに日が暮れてしまう。
「んぅ……ごめん」
「いい。それより、さっきから気になっている事がある」
「……なに?」
立ち止まったついでに、ユルグは周囲を見渡した。
背の高い木々、大きな葉をつけた低木。青々と茂る茂み。
「ここまで来るのに、何か獣を見かけたか?」
「とりなら、いるよ」
言って、フィノは上を指差す。
木々の枝葉の先には鳥が止まっているのが見えた。
けれど、ユルグが言いたいのはそういうことではない。
「違う。地面を行く獣だよ。魔物でも良い」
「……んぅ」
少し考えた後、フィノはかぶりを振る。
彼女の反応にユルグも頷いた。
このスタール雨林では、生き物の気配が殆ど感じないのだ。
フィノが述べたように、空を飛ぶ鳥は見えるがそれ以外のものは未だお目に掛かってはいない。
こんな青々とした自然の中だ。何かしらの獣が居てもおかしくはないのだが、その存在は皆無。
見渡すと食べられそうな実をつけた木だって見つかる。餌となる食料がないわけではない。
生きるのに適していない環境とは思えないのだ。
夜行性の獣が多いだけならそれに越したことはないのだが、些か不気味である。
「杞憂であれば良いんだが……どうだろうな」
嘆息してユルグは空を仰いだ。
枝葉の隙間から見える曇り空は、にわかに雨の訪れを告げている。
「一雨来そうだ。どこか雨をしのげる場所を探さないと」
幸いにも、大木の虚など、雨宿り出来る場所は見受けられる。
雨の中、無理に進んでも体力を使うだけだ。先は長いだろうし、休みながら進むのが得策だろう。
スタール雨林一帯の気候は、蒸し暑くジメジメと湿気を帯びた生暖かい風が吹き抜ける、過酷なものだった。
こうも湿度が高いと汗をかいても揮発しない。熱が籠もって不快なことこの上ない。
ユルグは多少ならば我慢は利くが、村からずっと歩き詰めのフィノにとっては苦行であろう。
「んぅ……べとべと」
途中、休憩を挟みつつ進んでいるとフィノがうんざりとした様子で愚痴を零した。
汗と湿気と、何度も転んで泥まみれの彼女からすれば文句を言いたくもなる。
そうは言っても、道なき道を進んでは来たが視界に入るのは青々とした草木のみ。
水場なんて見当たらない。
我慢しろと口を開きかけたユルグだったが、視界の先に開けた場所を見つけて足を止めた。
「――池があるな」
澄み切った水を湛えた池は、この状況ではまさに天の恵みである。
「みずあび、してもいい?」
縋るような眼差しで見つめてくるフィノに、ユルグはおもむろに周囲を見渡した。
辺りに生き物の気配はない。それが不気味ではあるのだが、目に見える範囲では危険はなさそうだ。
「まあ、良いだろう」
「やった!」
ユルグの一声で、フィノは背負っていた荷物をぞんざいに放ると革鎧を脱ぎ始めた。
湿度の高いこの環境だと、革鎧なんて着ていては蒸れて仕方ない。
道中脱がせても良かったが、かさばるし荷物になるからとあえて着せていた。
フィノのはしゃぎっぷりを見るに、相当煩わしかったのだろう。
徒然とそんなことを考えていると、ユルグの眼前ではあれよあれよという間に色白な裸体が晒されていく。
「――ちょっと、待て」
「んぅ、なに?」
「なに? じゃない。なんで裸なんだ」
「なんで? みずあびするから」
「だからって、素っ裸になるやつがあるか」
懇々と言い聞かせるユルグだが、フィノは意味が分からないとでも言うように首を傾げて見せた。
この時点で納得がいく説明をするのは骨が折れそうだと悟ったユルグだったが、だからといってこの状態を放置するわけにはいかない。
「せめて下着を穿け」
「むぅ……ユルグ、はずかしいの?」
にやりとフィノの口元が歪んだ。
「はじめてじゃないのに」
「――はあ?」
呆然とするユルグの前で、フィノはやれやれと首を竦めた。
とても馬鹿にされているように感じるのは、気のせいではないだろう。
「みても、へるもんじゃないよ」
「お前がそれを言っちゃダメだろ」
まるで裸を見られたいと言っているようなものである。
完全に立場が逆転している。
「そもそも俺は見たくて見てるわけじゃない」
「ええー」
「お前の身体なんて見ても目の毒だ」
ユルグの不躾な物言いに、フィノは口を尖らせた。
けれど、それを糾弾される謂われはない。
どっちもどっちで、喧嘩両成敗だ。
不満げにしながらも、フィノは渋々と下着を穿いて池に入っていく。
「ユルグは?」
「俺は見張っているからいい」
「きもちいいのに」
残念そうに洩らすフィノを放って、岩場に腰を下ろした。
後数時間もすれば陽も落ちる。暗くなる前にどこか休める場所を見つけて早めに野営の準備をしておかなければ。
今後の予定についてあれやこれやと思考していると、ふとあることが気になってユルグは岩場から降りて池の畔に目を向けた。
水場というのはここで生きる獣にとっても重要な場所だ。
道中それらしい姿は未だお目に掛かっては居ないが、自然豊かなこの場所に生物が居ないとは思えない。
どうであれ、この池の畔には何かしらの痕跡が残っていても不思議ではないのだが、それが一切見当たらない。
足跡もなければ、倒れた草の跡さえも。やけに綺麗すぎる。
嫌な予感がして、ユルグは池の浅瀬を掘り返してみた。
透明な水中で泥が舞い、濁っていく。
指先に触れた物体を掴んで引き上げる。
泥にまみれたそれは、ごつごつとした肌触りの、既に風化した骨の残骸であった。
それを目にして、なぜこの場所が不自然なまでに綺麗な状態であるのか、合点がいった。
この場所に獣が居ないのではない。彼らは、この池そのものが危険な場所だと知っているのだ。
だから、近付かないだけ。喰われて骨になるのだと理解している。
「――っ、フィノ!」
ユルグが声を張り上げたのと同時に、池の中から水飛沫を振りまいて現れた物体。
それは、あの名もなき村で目にした植物と酷く似通ったものだった。