家出、珍道中
迂回して毛玉が落ちてきたであろう崖上まで、少年は辿り着いた。
幸いにして今日の天気はいつもよりは良好である。吹雪いてもいないから、雪の中を進むのはそれほど苦労はしなかった。
けれど、こんなふうに登山をしたのは初めてだったから、少年は肩で息をしながら雪の上に尻餅をついた。
「……っ、ちょっと……やすませて」
抱えていた毛玉を置いて、少年は背嚢をおろすと雪の上に大の字になって空を見上げた。
寒々しい空模様はいつも代わり映えのしないものだ。けれど、これが少年の知るたった一つの世界だった。
彼は小屋の周辺から出た事がない。雪山の麓にある街にならたまに行くけれど、本当にたまにだ。同年代の友達がいれば街に行って遊んでくる事もあるのだろうが、以前両親がいないことでからかわれて、友達は作らないと決めた。
それを親代わりの祖父に話したらものすごく笑われた。それにまた機嫌を悪くして、一日口を利かなかったこともあった。一年くらい前の話だ。
だから少年はひとりで居ることに慣れている。けれど、慣れているからといって寂しくないわけではない。
まっしろな雪しかない殺風景な景色の中に居ると、この世界には自分以外居ないんじゃないかと錯覚しそうになる。たまにそんな妄想をして、寂しさにベッドの中で泣くこともあるけれどそれは誰も知らない秘密だ。
ただひとり――少年の大事な家族を除いて、誰も知らないのだ。
「ううっ、さむいっ!」
数分だけ寝転んだ後、少年は寒さに身を震わせて起き上がった。
傍に置いていた毛玉は大人しく丸まったままで、背嚢を背負って再びそれを抱き上げると少年は周囲を見渡した。
モコモコの毛玉が落ちてきた崖上には、彼の足跡がまだ残っていた。雪で消えていたらと不安だったが、これを辿っていけば毛玉がどこから来たのか知れる。この毛玉にはおそらく飼い主がいるのだ。
それを確信したのは、ここまで歩いてくる最中のことだ。長毛に隠れて発見した時は見えなかったが首輪が付けられていて、そこにはこの毛玉の名前らしきものが書かれたプレートも下げられていた。
「よし、いくよ。グログロ!」
「グルアァ」
少年の呼びかけに返事をするように毛玉が鳴き声をあげる。
元気そうな様子に安堵して、足跡を追って少年は大木が茂る木々の合間を縫って進んで行く。
彼の暮らす雪山は勝手知ったるなんとやら。庭のようなものだけれど、それでも足跡を追って入った深林は初めて足を踏み入れる場所だった。
ほとんど人の手が入っていない自然は寒冷な地域という事もあり静まりかえっている。動物の鳴き声も気配もない。ザクザクと雪を踏みしめる自分の足音しか聞こえなかった。
そんな中、不意に少年の叫び声が静寂を打ち破った。
「――あっ!」
驚きに声を上げた少年の眼前には、大木が一本伸びている。それの根元で、追ってきていたグログロの足跡が途絶えているのだ。
辺りを探っても足跡が続いている気配はない。ということは――
「おまえ……木の上、移動してきたの?」
話しかけると腕の中に居るグログロは呑気に欠伸をした。明確な答えは示してくれなかったけれど、少年の予想通りなのだろう。
足跡が途切れてしまっては、これ以上は追跡できない。
「どうしよう」
困り果てた少年だったが……ふとあることが気になった。
どうして毛玉もといグログロは木の上なんて渡ってきたのだろう。普通に地面を歩けるのならわざわざ不安定な樹上を移動する必要はないはずだ。
うむむ、と悩んでいると正面――大木の真後ろからパキリ、と音が聞こえてきた。
何かが枝を踏みつけたようなそれは、音と共に微かな震動も一緒に連れてくる。
突然のことに身動きも取れずに固まっている少年の視界に、ふいに山のように大きな巨体が現われた。
「ブオオオォォオオ!!」
鼻息も荒く、口から涎を垂らしながら雄叫びを上げたのは雪山に潜む魔物――ケイヴベアだった。
眼前に現われた巨体を見て、少年はそこでやっと気づく。ここら一帯はケイヴベアの縄張りなのだ。だからグログロは見つかって追い回されないように木の上を伝って来たのだろう。
しかしこの状況でそれに気づいた所で、時既に遅し。
両前足をあげて後ろ足で立ち上がったケイヴベアは、傍に聳える大木と同じほどの全長がある。四メートルほどはあろうか。
凶悪な獣は、ギラギラとした双眸を少年へ向けている。目を逸らせばすぐにでも襲いかかってくるだろう。
見つめ合っていないで今すぐにでも逃げるべきだ。けれど、駆け出そうにも足が動いてくれない。
緊迫した状況の中、固まっていた少年の腕の中に居るグログロがじたばたと暴れ始めた。
「えっ、ちょ、まっ――あ」
まるで腕の中から抜け出そうともがくグログロは、やがて少年の拘束を破ってぽろりと地面へ落ちた。
彼は負っていた怪我など物ともせず雪の上に上手に着地すると、少年から離れるようにして一直線に駆けだしていく。
ケイヴベアに向かっていくグログロを少年は立ち尽くしたまま見つめていた。
あの体格差で立ち向かうなんて自殺行為だ。振り上げた前足で潰されてしまうと恐れている少年を余所に、グログロは速力を上げてケイヴベアの死角である股下を颯爽と通り抜けていった。
ほっとしたのも束の間、駆け抜けていったグログロはそのまま少年を置いて遠ざかって行く。
「え? あれ?」
小さくなっていくまっしろな毛玉を呆然と眺めて、少年は瞠目した。
これは、もしかして……置いていかれた?
「ま、まって――」
手を伸ばして追いかけようとしたが――それを遮るように、ケイヴベアの振り上げた前足が少年の眼前に降ろされる。
顔面スレスレのところで掠めていった爪先。積もっていた雪を簡単に蹴散らして、生み出された風圧は少年の外套をはためかせた。
再び危機に直面した少年は、ごくりと息を呑んで目の前に立ちはだかった巨体を見上げる。
今すぐに背を向けて逃げるしかない。それは分かっているけれど、どこにどうやって逃げれば良いのだろう。今までこんなにも恐ろしく凶暴な魔物には遭遇したことがなかった。もちろん、この魔物を倒す術を少年は持っていないし、逃げ切れる算段があるわけでもない。
まだ齢十歳になったばかりの彼には、どうすることだって出来ないのだ。
絶望的な状況に、次第に呼吸が荒くなる。
眼前には少年をどうやって食ってやろうかと品定めするかのように、ケイヴベアがべろりと舌を出している。
頬に吹き付ける、生暖かく湿った吐息に少年はぎゅっと目を瞑った。




