ごしゅじん
地平線の彼方が赤く色づき始めた。
夜明けの訪れに、ユルグは気持ちよさそうに寝入っているフィノを揺する。
「――起きろ」
「……んぅ、おはよ」
寝ぼけ眼を擦ってもぞもぞと起き上がったフィノに、水の入った皮袋とラーセにもらったサンドイッチの包みを渡す。
「ここから雨林まで歩き詰めになる。今のうちに飯は食べておけよ」
「んぅ、わかった」
ユルグの指示通りに、フィノは焚き火の傍に腰を下ろすとサンドイッチを頬張った。
美味そうに食べるフィノを尻目に、夜中のうちに研いであったナイフを渡して、出立の準備を進める。
ここからスタール雨林まで、順調にいければ昼頃には辿り着けるだろう。
地図を確認する限りでは道中に街は存在しない。
数回、休憩は挟むだろうが距離もあるしフィノには少しばかりキツいはずだ。
フィノの食事が済むまでの間、これからの予定を徒然と考えていると視界の端から物言いたげにこちらを凝視する気配。
「ユルグ、たべないの?」
「俺はいい。腹は減ってないからな」
「んぅ……おいしいのに」
「悪くなると勿体ないから、食いたいなら食べても良い」
出会った頃と比べると、フィノの健康状態は格段に良くなった。
けれど、まだ肉付きが良いとは言えない。
体力をつけてもらう為にも、食べられるときに食べてもらわないと。その方がユルグも助かる。
「そうだ。一つ言い忘れていた事があるんだが」
「なに?」
「俺の名前を呼ぶのは止めてくれないか」
フィノはそれを聞いて、意味が分からないとでも言うように瞠目した。
「なんで?」
「俺が追われていることは知っているだろ」
「んぅ、そうなの?」
ユルグの答えにフィノは首を傾げる。
そういえば、彼女にはユルグの身の上を詳しく説明はしていなかった。
理解してもらう為にも、先にそれを言って聞かせるべきか。
「なんでユルグ、おわれてるの?」
「俺が勇者だからだ。店に手配書が張ってあるのを見ただろ」
「そっか」
もっと質問攻めにあうかと身構えていたが、フィノはすんなりと納得してくれた。
言葉足らずで幼い印象を抱きやすいが、彼女は馬鹿ではないのだろう。
きちんとユルグの話す言葉の意味を理解出来るし、ラーセも覚えが良いと褒めていた。
色々と経験不足なところは否めないが、それはこれから補っていけば良い。
「素性がバレないように顔は隠してあるけれど、人前で名前を呼ばれちゃ意味がないだろ」
「……んぅ」
フィノはなぜか不満そうに、渋々と頷いた。
煮え切らない様子を不審に思っていると――じゃあ、と続く。
「なんてよべばいい?」
「そうだなあ」
「……ごしゅじんさま?」
「それはやめてくれ」
奴隷だったとはいえ、年端もいかない少女にそんな呼び方はされたくはない。
フィノはたいして気にしていない様子だが、ご主人様なんて呼ばれなくちゃならないことを考えると、ユルグの気が休まらない。
「んぅ……だんなさま?」
「それもダメだ。街娼じゃないんだからやめろ」
「がいしょう?」
「身売りする女のこと……じゃなくて、とにかく却下だ」
ユルグの頑とした態度に、フィノは口を尖らせて詰め寄ってくる。
「じゃあ、どうするの!」
「うっ……」
肩を揺すられて、あまりの勢いにユルグは仮面越しに目を逸らした。
フィノにとってはどうやら死活問題らしい。
激しく詰問されて、ユルグは返答に困った。
「そ、そうだな……呼び方は何でも良いけど、様付けはやめてくれ」
「んぅ……ごしゅじん?」
「もうそれでいいよ」
投げやりに答えて了承してやると、フィノは満足して離れていった。
ユルグとしてはやはり気に触るが、名前で呼ばれて正体がばれるよりはマシである。
「でも、ずっとそれで呼ばれるのは我慢ならないから、二人きりの時は名前で呼んでくれても構わない」
「――ほんと!?」
なぜかフィノは嬉しそうに顔を綻ばせた。
そんなにはしゃぐほど嬉しいことなんだろうか。
それから、食事中のフィノにこれからの予定を説明して荷物を片づけると、スタール雨林へと歩みを進める。
その道中、ユルグたちの進行方向に村が見えてきた。
地図には描かれていなかったが、目の前には小さいながらも村があるのが確認できる。
けれど、どうにも少し様子がおかしい。
「あれは……村なのか?」
呟いて、眼を眇める。
村と思しき場所の外壁は、びっしりと植物の蔓に覆われていた。
異様な光景に、それだけで何か只ならぬ事態があったのだと推測できる。
「ユルグ、あれなに?」
「俺にも分からない」
少なくとも、あの状態で村として機能しているとは思えない。
何があったのか。
考えられることは、やはり村の目と鼻の先にあるスタール雨林が関係しているに違いない。
ユルグにとって、これから向かう場所は未知数である。
雨林を無事に抜けるためには、身にかかる脅威は事前に知っておいた方が良いだろう。
「あの村に少し寄ってみよう」
「……だいじょうぶかな」
「たぶんな」
フィノの懸念もわかる。
あんな寂れた村に人が住んでいるとは思えない。
何はともあれ、気を抜かずにいこう。




