隠された真意
魔王――マモンの譲渡にあたって、ユルグはフィノへと条件を提示した。
それは弟子である彼女を想ってのことだ。
無駄に命を散らさないように。無茶をしないように。
ユルグは一番にそのことを危惧している。
けれど、彼の真意は他にもあった。以前ユルグはマモンへ語ってくれたのだ。
フィノがマモンを後継してしまえば、確実に寿命は短くなる。彼女がその後何を選択するのかはまだ知れないが、きっと一所に留まることはしないだろう。
そうなればユルグがいなくなった後、残されたヨエルは独りになってしまう。
しばらくはエルリレオが世話をしてくれるだろうが、彼も老齢である。あと何年生きているかも分からない。
だから、出来ればこの子の傍に居て欲しいのだとユルグは言った。
けれどユルグはそのことをフィノには告げなかった。
彼女はただ上辺だけの理由で、ユルグがあんな事を言っていると思っているのだ。
『なぜあの時、真意を明かさなかった? 気持ちだけでも伝えておけば、フィノも納得してくれたはず』
「それはあり得ないことだ」
マモンの問いかけにユルグはきっぱりと言い切った。
「あいつの一番大切なものは俺なんだ。俺の為ならフィノは何だってやる。きっと自分の命だって投げ出すだろう。……師匠と弟子が似るものだとしても、そこまでしなくても良いんだけどな」
苦笑を零して、ユルグはマモンから顔を背けた。
彼の答えにマモンも納得する。
フィノはいつもユルグのことを想っていた。
一年前、村に残ると言い出したのもユルグの為だ。石版の解読という理由もあったろうが……あれは彼女なりに身を引いた結果だ。残された時間を大切な人と過ごして欲しいという、フィノの想いの表れだった。
マモンでさえフィノの想いの深さに気づいたのだ。いわんや、師匠であり彼女と付き合いが深いユルグがそれを見誤ることはないだろう。
「俺の決断をあいつは絶対に許さない」
『それは……己も理解しているよ』
確信を持って紡いだ彼の言葉に、マモンは頷きを返す。
ユルグはマモンへとある頼み事をしたのだ。
それを聞いた時、マモンは絶句した。驚愕にすぐには言葉が出てこなかったのだ。
けれどそれを拒絶しなかった。ユルグの想いを知っているからだ。
ミアが生きていた頃も、今も。彼の一番の憂慮は自分がいなくなった後のことだ。
それ故に、あと少しの命だからと自暴自棄にはならなかった。残された時間で自分に出来る事をしようと決めたのだ。
それがマモンへの頼み事でもあり、フィノに下した決断だった。
「それに、フィノが離れていてくれた方が好都合だ。あのことを知ったら絶対邪魔してくる」
『うむ……とはいえ、こんな時まで傍に居られないのは酷ではないか?』
「別に俺が何をしろとフィノに言ったわけじゃない」
――あくまで今この場にいないのはフィノの決断だ。だから責められる謂われはない。
冷淡に告げて、ユルグは再びヨエルの相手をしだす。
彼の態度を見てマモンは不思議に思った。意味が分からなかったのだ。彼がフィノの事を想っていることは確実だ。けれどその実、このような冷たい態度も取る。
ユルグだってフィノがどうしてここまで自分を気に掛けてくれるのか、知らないわけでもないだろう。
それでも、ユルグのフィノへの態度は終始一貫しているように思わざるを得ない。確かに前と比べると幾分か丸くはなったろうが……。
『かわいそうになあ……結局、最後まで気持ちは伝わらなんだ』
「何の話だ?」
『いいや、お主に言ってもどうせ分からんだろうなあ』
聞こえた小言にユルグは訝しんで、なんなんだとマモンを見つめる。
じっとりと突き刺さる視線に我関せず、無視を決め込んでいると……ユルグは不意に今まで抱きかかえていたヨエルをマモンへと押し付けてきた。
それを反射的に受け取ったマモンは、慌ただしく椅子から立ち上がったユルグを見遣る。
「すこし……っ、みててくれ」
『大丈夫か?』
尋ねたマモンの言葉に、ユルグは口元に布きれを押し当てて力なく頷いた。
彼の唯一動く左手に嵌められた革手袋の内側からはドロドロとした黒いヘドロが垂れてきている。今しがた口元を覆ったのも吐き気を堪えているのだろう。息を殺して、体内の嵐が過ぎ去るのを待っているのだ。
魔王であるマモンにとって、このような状態は見慣れたものだった。
魔王の器である者が最終的に辿り着く、成れ果て。
こうなってしまったのならば、いよいよどうにもならない。それは今まで幾度も看取ってきたマモンであれば、誰よりも理解していることだ。
今のユルグの身体の状態は、非常に芳しくないものだった。
生物の許容量を遙かに超える瘴気の毒が彼の肉体をじわじわと蝕んでいる。それは心臓が止まって、肉体が死んでいたとしても歯止めが利かないものだ。
加えて凝縮された高濃度の毒はその者だけではなく、周囲も汚染してしまう。
大人ならば多少の耐性はあるだろうが、生まれたばかりの赤ん坊には致死量の毒にしかならないもの。
だからユルグは我が子には素手で触れてやれない。こうして手袋越しでしか触れ合えないのだ。
ヨエルの安全を考えるのならば、みだりに接触しない方が良いのだろう。もちろんそれはユルグも理解していたことだ。だから、この場所に帰ってきて息子の顔を見たら……彼はそのまま終わらせるつもりだった。
それを引き止めたのはマモンだ。せっかく我が子の元に戻ってきたというのに、それだけではユルグも、ヨエルだってあまりにも不憫ではないかと、そう思ったのだ。
――症状の悪化は防げないが、瘴気の毒に触れさせなければ問題はない。
そうやって、マモンの説得の甲斐あってユルグは今まで生きている。
だから……言ってしまえば、ユルグはいつだって終わらせることが出来るのだ。
先ほど、ユルグはマモンに問うた。
――フィノに、どうしてあんなことを言ったと思っているんだ、と。
そこに含まれている意図を、マモンも十分に理解している。
フィノへと無理難題を押し付けて、この場所から遠ざけた。出来ないことをやれと言った。
ユルグは、この場所でフィノを待ち続けるつもりなど、最初からなかったのだ。




