静穏な日々を刻む
その日は朝から晴れていた。
連日続いていた降雪はぴたりとやんで、降り注ぐ日差しが積もった雪をきらきらと輝かせている。
住み慣れたログハウスの室内からその様子を眺めて、ふと視線を移すと視界にあるものが映り込んだ。
それを見てマモンは慌てて外へと出ようと駆け出すが、ベッドの上でもぞもぞと動き回る小さな怪獣を目にして足を止める。
『ぐぅ……これは、どうしたものか』
無骨な鎧姿のマモンは、それに触れようかというところで躊躇してしまう。伸ばした手が空を切ってふらふらと右往左往するのを、無垢な瞳がじっと見つめていた。
ごろんと寝返りを打ったヨエルの面前で、マモンは狼狽えていた。
その理由は、未だ赤ん坊の世話の仕方を彼が会得していないからだ。力加減は心得ているが、それでもこんなに小さな生物は少し触れただけでも壊れてしまいそうな危うさがある。だから進んで触れることを躊躇って……現在に至る。
しかし、ここでうだうだしている暇もないのだ。
早く外に出向くべきであるが、それを阻む存在にどうするべきか。少し迷って、マモンは意を決した。
『よし、そっとだ。そぅっと触れれば……傷つけることはない』
一度頷いて、マモンは手を伸ばすと柔い身体に触れた。
けれど如何せん。持ち方が悪かった。胴を鷲掴みにすればヨエルはぐにゃんと身体を曲げたり伸ばしたりする。まるで陸に揚げられた魚のようにグニャグニャと動き出した生物に、マモンはさらに狼狽えた。
「ぶぁうぅ」
『うっ、お……動くな……っ、怒鳴ってはダメだったのだな。ええと……少しだけ大人しくしてくれ』
「んにゃにい」
『な、なんだ? 何を言っているか分からんぞ!?』
ヨエルの表情はしかめっ面でもなく泣きっ面でもなかった。であれば少なくとも悪いようにはしていないということだ。
それに安堵して、抱きかかえようとしたところで背後から堪えたような笑い声が聞こえてきた。
「ふっ……お前、何してるんだよ」
反射的に振り向くと、そこには外から戻ってきたユルグがスコップを持って立ち尽くしていた。
どうやらマモンが外に出向く必要は無くなったみたいだ。
『ぐぅっ、見ていたのか!?』
「一部始終な。それだと頭が仰け反っているだろ。ちゃんと支えてやらないと」
『こ、こうか?』
「まだ危なっかしいけど……及第点ってところだな」
スコップを壁に立て掛けて、ユルグは革の手袋を嵌めた左手でマモンが抱いていたヨエルを奪っていく。
器用に片手で抱きかかえると、傍にあった椅子に腰を下ろした。
「俺は死にかけだっていうのに、お前は元気だな」
「ばううぅ」
「そうだな……悪い事じゃないよ。子供は元気すぎるくらいがいいんだ」
穏やかな声音で語りかけるユルグを見て、マモンは驚きに絶句する。そうして、恐る恐る尋ねた。
『……赤子の言葉がわかるのか?』
「そんなわけないだろ。こうやって話しかけてやるのが赤ん坊にとっては必要なことなんだ」
『そ、そうなのか……』
ユルグの助言にマモンは深く頷いた。二千年生きてきたマモンでも赤ん坊の世話は初めてなのだ。それをユルグへと話すと彼は大変驚いていたが、だったらとマモンへと色々教えてくれている。
その甲斐あって少しずつだが、子守を任せてもらえるまでにはなったのだ。
ユルグに抱きかかえられているヨエルは、先ほどよりも大人しく見える。こんな無骨なマモンよりも、父親であるユルグに抱かれている方が嬉しいのだろう。
楽しそうに笑っているヨエルとは対照的に、それを眺めているユルグの表情は硬いものだった。たまにふとした瞬間に微かに笑みを零すこともあるが、それは一瞬で消えてしまう。
彼が心の底から笑った顔を、マモンはここ二ヶ月――再び、シュネーの山小屋へと戻ってきてからの一月の間、見ていない。
なによりも……ミアがいなくなってから、ユルグは笑わなくなった。感情を無くしたように笑いもしなければ泣きもしない。何かを楽しむことや嬉しく思うことはあるが、それも一時だけである。
それだけならまだ良かったが、加えて眠りが浅くなったようで彼が熟睡しているのをマモンはここ数ヶ月見かけていない。勿論そんなことでは疲労が溜まる一方である。
だから起きているよりも寝ていろと言ってはいるが、そうは言っても現状それは難しいのだ。
それはなにもヨエルの世話があるからではない。ユルグ自身の問題だ。
疲れ知らずのマモンならばずっと見ていられるから少しでも寝ていろと言いつけるが、それでも一時間もすればうなされて起きてしまう。
赤ん坊の夜泣きよりも早くに目覚めてしまうのだ。
一月前――王殺しを成していた時はここまでの精神の衰弱はなかった。きっと復讐という、すべきことがあったから。それで幾分か気も紛れていたのだろう。
けれど、こうして再び落ち着いた時間を過ごしていく内に、抑えていたものが表面化してきたのだ。マモンにはそれを取り除いてはやれない。ただ憔悴していくユルグを傍で見ている事しか出来ないのだ。他の誰にも彼の苦痛を取り除くことなど出来ないのだろう。
『先ほどは外で何をしていたのだ?』
暗い気分を変えるため、マモンはユルグへと問うた。
マモンがこうしてユルグの動向に気を向けるのは、今の彼の身体の状態が関係している。
――一月前。
魔王として討たれたユルグは、あの瞬間に死んだのだ。動きを止めた心臓は身体中に血を巡らせる事もない。それ即ち、時間が経つにつれて身体の末端から腐っていくということ。それに加えて身体の動きだって鈍くなる。
身体は氷のように冷たいし、血色だって悪い。およそ生身の人間が生きていられる範疇を超えている状態でも、動けていることは誰の目から見ても異常である。
だからユルグは小屋の近辺からは外には出ない。エルリレオがいる街へだって行かない。この一ヶ月……彼が顔を合わせているのは、マモンとヨエルだけだ。
「気晴らしに少し散歩していたんだ」
ユルグの応えは至って普通の解答だった。
けれど、それにしては不可思議な点もあった。それをマモンは指摘していく。
『……そのスコップは何の為だ?』
「自分の墓穴を掘っておこうと思って……でも、今の俺じゃそれすらも出来ないって気づいて戻ってきた」
やるせなく笑って、ユルグに抱かれていたヨエルが彼の人差し指をぎゅっと握る。されるがままにしているユルグの言葉は、何も大袈裟なことではないのだ。
今のユルグは、弱っているとはいえ一歩も動けないということはない。それでも以前のように方々を歩き回ることは不可能だ。無理をすれば腐った手足が欠けていく恐れもある。彼は早く死にたがってはいるが……今は安静にして、その時を待つしかない。
だからユルグも無理を通すことはなくなったのだ。それに安堵すべきではあるが、現状は以前よりは遙かに悪いと言える。どう贔屓目に見ても喜べる状況にはないのだ。
『それは……まだ気が早いのではないか?』
「今の俺を見て、良くそんなことが言えるよな」
そう言って、ユルグは苦笑を浮かべた。彼の声音からは怒りは感じられない。今の反論は自虐を含んだものだった。
『せめてフィノが戻ってくるまで待つことも出来るだろう』
「それ、本気で言っているのか?」
抱いているヨエルから顔を上げて、ユルグはマモンを見つめた。その眼差しには微かな苛立ちが垣間見える。
「俺がフィノに、どうしてあんなことを言ったと思っているんだ」
『それは……』
ユルグの問いかけに、マモンは今から一月前――彼が復讐を終えた後の出来事を思い起こすのだった。




