慮外の思惑
静かに言い放った言葉に、それを聞いていたアリアンネは目を見開いて固まった。
「……え? な、何を言っているのですか?」
刹那に理解を拒絶する。それでもユルグの言葉は覆らない。
彼は、アリアンネを殺さないと、確かにそう言ったのだ。
「貴方はわたくしが憎いのでしょう!? 殺したいほどに!! だったら」
「俺が一番殺したいほどに憎んでいるのはお前じゃない、俺自身だ。二番目がお前。でも物事には順序ってものがある。わかるだろ?」
「そんなっ――そんな理由では納得できませんっ!」
焦ったアリアンネは声を荒げてユルグへと詰め寄った。それに彼はうんざりとした様子で溜息を吐き出す。
「ああ、でも憎んでいないわけじゃない。だから、どうやったら苦しんで死んでくれるか。それを今までずっと考えてたんだ。それで気づいた。お前も、俺と同じなんだよ」
肩口を掴んだ手を片腕で制して、ユルグは至近距離にいるアリアンネへと問いかける。
「大切なものを失って、これ以上生きる気力なんてない。だからさっさと死んで楽になりたい。そうだろ?」
「だっ、……だから殺さないというのですか? 生きて苦しめと?」
「察しが良くて助かるよ」
はははっ、と乾いた笑いを零してユルグは一笑した。
「エルフの寿命は五百年。それが尽きるまで、お前は生き続けるんだ。誰もお前の苦しみも孤独も理解しない。その中で苦しみもがきながら生きる。それが、俺がお前に向ける復讐だよ」
ユルグの告げた復讐に、アリアンネは唇を噛みしめて沈黙した。
俯いた顔からは表情は見えない。けれど微かに震えた肩からは、彼女の悲壮感がひしひしと伝わってくるようだ。
そんな彼女をユルグは一瞥する。
ユルグの思惑を知って、アリアンネが自死する可能性を思わなかったわけではない。それでも、彼女は自ら命を絶つ行いはしないとユルグは踏んでいた。
アリアンネの命は彼女が大切に想っていた人達が繋いでくれたものだ。
先代の勇者に、ティナ。彼らが自らの命を賭けて救ってくれたものを自らの手で潰えることなど、アリアンネは絶対にしない。
それをユルグは分かっていた。なぜなら、ユルグも彼女と同じだったのだから。
師匠である仲間たちが救ってくれた命。それを大切にする生き方は出来なかったが、決して蔑ろにしてはこなかった。どれだけ絶望しようとも、自分で命を絶つことは彼らを侮辱することと同義だ。
だからユルグは自分の命に対して価値を見出すと決めたのだ。それは黒死の龍を斃すことも然り。命の使い所を見誤らないように、ここまで辿り着いた。
自責の念は、簡単に心を押し潰す。それを誰よりも理解しているユルグにとって、この復讐はここで死ぬよりも、どんなに無惨に殺される事よりも、辛く苦しいものなのだ。
「では、貴方はどうするのですか?」
「……野暮な事は聞くなよ。分かっているだろ。お前が全て計画したことなんだから。ここまで来てそれを放棄することはしないよ」
それでも――と、ユルグは続ける。
「復讐だけがお前を生かす理由にはならない」
「……それは、どういう意味ですか?」
「考えてもみろよ。お前が死んで俺が討たれた後、あいつにこの状況を纏められると思うか? フィノだぞ?」
「……正直に言ってしまえば、難しいでしょうね」
ユルグは笑みを湛えて背後に立ち尽くすフィノを指差した。それに向けられる視線に、フィノは眉を寄せて聞き耳を立てる。
フィノの立ち位置では彼らが何を話しているのか聞き取れないのだ。けれど、何かフィノを悪く言っている事だけはわかる。
顔を顰めているフィノから目を背けて、ユルグはそういうことだから、と締めくくった。
彼の言い分はアリアンネも納得できるものだった。
魔王を討ったところで、証人がいなければ何にもならないのだ。それも発言力があって、世界中の人々を説得できるような人望がなければ務まらない。
今生き残っている人物ではアリアンネが一番適任である。アルディア皇帝として、先代とは違い平和路線に踏み出した彼女ならば、自国民でなくても耳を貸してくれる人は多い。
ユルグはそれを利用しようというのだ。
「貴方はどこまでも強かですね」
「お前には言われたくないな」
軽口を言い合ったユルグは、どうしてか晴れやかな表情をしている。
これから討たれて、最終的には死ぬ人間がする顔ではない。そんなことをアリアンネが思うのはお門違いというものだが……それが彼女には不思議に思えて仕方なかった。
「……本当に、それでよろしいのですか?」
仇を目の前にして、それでも生かす事を彼は選んだ。そこには様々な理由があったわけだが、一月前にユルグはアリアンネを殺そうとしたのだ。
きっとそれらの理由を抜きにしたのならば、こんな事を言い出してはいないはず。
これでいいのだと、既に決断した彼に問い質して。蒸し返した所で何にもならないが……それでもアリアンネは聞かずにはいられなかった。
「お前は覚えていないだろうけど……仲良くしろってミアに散々言われてただろ」
「仲良く、ですか」
「だからってわけじゃないが、これ以上彼女に嫌われるような事は出来ない」
沢山の人を殺して、彼女の友人も手に掛けて。果てには生まれたばかりの我が子を置き去りにして。
今のユルグを見たのならば、彼女は烈火の如く怒っただろう。これ以上馬鹿な事はするなと殴られるかもしれない。
それを想うのならば、自然と研いでいた歯牙は欠けてしまっていたわけだ。
「結局、仲良くなんて出来なかったけどな」
「そうですね……」
ユルグの想いを聞いて、アリアンネは目を閉じる。
もとより彼の意思に抗う資格などないのだ。ユルグがそうと決めたのならば、アリアンネはそれに従うだけ。先に我を通そうとしたのはこちらなのだ。それを自分だけなんて我儘は言えない。
「最後に一つだけ、聞いても良いですか?」
「なんだ」
「貴方が死にきるには誰かに魔王を譲渡しなければならない。それは誰にするつもりなのですか?」
まっすぐに問うたアリアンネの言葉に、ユルグは落ち着いた心持ちで呟いた。
「ああ、それはもう決めてあるんだ」
そう言って、ユルグは背後に佇んでいるフィノを見据えた。
アリアンネの問いに明確な答えを示すことなく、ふらふらとした足取りで近付いていく。武器の類いは何も持たずに、無防備なその姿は彼が何を想っているのかを如実に表していた。




