覆水盆に返らず、されど
ぐっすりと眠っているフィノを担いで、マモンは山道を登っていた。
彼の背後に着いてくる気配を気にしながら、やがて目的の場所に辿り着く。
そこはユルグの故郷の村から少し歩いた山中に建てられた、質素なログハウスだった。中に足を踏み入れると荒らされた形跡もなく、ベッドやテーブルなど一人暮らしには十分な設備が整っている。
マモンがこの場所を訪れたのは、ユルグの案内があったからだ。
担いでいたフィノをベッドへ横たえると、先ほどから無言で後ろを着いてきていた彼にマモンは尋ねる。
『それで、これからどうする?』
分かりきった事を聞くと、ユルグは傍に置いてあった椅子に座って背もたれにぐったりと身体を預けた。
「……流石につかれた」
『だろうな。元々昼夜歩き詰めだ。それがあのようにはしゃいでいては体力も底を尽きる』
マモンの苦言に、ユルグは何も言い返してこない。
ただ言われるがまま……しかし、そこに不満の色は見られなかった。
黙ったまま眠るかのように目を瞑るユルグに、マモンは室内にあった布きれを手に取るとそれを水袋の水で濡らして、焼け爛れた腕や足に巻いていく。応急処置ではあるが、こんなものでも何もしないよりはマシだ。
あんな高威力の火球を真正面から受けて無事でいられるはずがない。肌が露出している部分は悉く炎で爛れてしまい酷い火傷を負っている。けれど、ユルグはそんな自分の状態にさえ無頓着だ。
痛みを感じずとも、それでは身体が持たない。それは彼も理解しているはずだが、それでも蔑ろにするのは……これ以上生きる気力がないからだ。これまでのユルグを傍で見ていたマモンは誰よりもそれを知っていた。
けれど、そんなユルグの決意は誰だって良しとはしない。
彼は自らの死を願っているけれど、彼の周りの人間は誰もそうは思っていないのだ。だからこそ、こうしてフィノはここまでユルグを追いかけてきた。止められないかもしれないと分かっていても、それでも彼女には大切な師匠を放ってはおけなかったのだ。
それを想えば、当人たちの問題ではあるが……傍で見ているマモンも心苦しくもなる。
『……フィノはここに置いていくのか?』
「こいつに俺の手伝いはさせられないだろ」
『それは、そうだが……もっと良い方法があったのではないのか?』
「これ以上話したって何にもならない。それは俺もお前も、フィノも理解してることだ」
ユルグは何をしても無意味だと言った。それに反論出来る答えをマモンは持ち合わせてはいない。
黙々と火傷の処置をしていると、ユルグはぼんやりと天井を見つめて呟いた。
「もう少しで終わるんだ……こんな所で足止めなんて堪ったもんじゃない」
そう独りごちて、マモンを見遣る。
「お前はいいのか」
『何のことだ?』
「アリアンネのことだよ」
ユルグの質問の意図をマモンは瞬時に理解した。
彼の最終目的はアリアンネを殺すことにある。それを許容出来るのかとマモンに問うたのだ。
『思うところはあるが……泣き言をいっても変わらんのだろう?』
「そうだな」
『だったらお主の好きにすると良い』
いずれこうなることは分かりきっていたことだ。だから、あの時からマモンは覚悟を決めていた。それでも、未練を断ち切れたわけではない。
アリアンネには散々恨み言を言われたが、それでも未だにマモンは彼女のことを心の隅では想っているのだ。
『何も想わぬわけではない。未練も残っているが……それを理由にお主に考えを改めろとは言えない。だがな……以前、ミアに言われた事を思い出したよ』
まだユルグに会う前の話だ。アリアンネとマモン、そしてミアの三人で勇者を追いかける旅をしていた時のこと。
彼女はマモンにこんなことを話してくれた――
『生きてさえいれば、恨まれていても和解出来るかもしれない。死んでしまったらそれきりだと……そう言ってくれたよ』
マモンの口からそれを聞いた時、ユルグは彼女らしいと思った。考えなしの楽観的な物言いではなく、しっかりと考えたうえでミアは言ったのだ。
それはマモンに向けての言葉であったが……もしユルグの傍に彼女が居たのなら、同じことを言っていたかもしれない。そう思えた。
――でも、手を取り合うにはユルグには時間が足りないのだ。
「……赦せるならこんなことはしないよなあ」
ははっ、と乾いた笑いが口から零れる。
何をするにしても時間がない。けれどそれは、ある意味ではユルグの自業自得である。自分勝手な復讐に取り憑かれて無茶をしたから。後々それが自らの首を絞めると知っていて、それでも歩みを止めなかったから。
誰のせいでもない。すべて自分のせいだ。
それを理解していながら……本当にエゴの塊のような要求ではあるが、ユルグはある決心をする。
「お前の気持ちを知っていて、こんなことを言える立場にないのは理解している。それでも……一つだけ、頼みがあるんだ」
ユルグの真剣な物言いに、マモンは顔を上げた。
きっとこれを聞けばマモンはどうしてそんなことをするのかと驚くだろう。そこに含まれている想いを度外視するならばユルグの決断はそれほどまでに狂っているのだ。
この考えに至ったのは、今しがたフィノとぶつかり合ったからに他ならない。
彼女と真正面から向き合って痛感した。やはり師匠と弟子は似るものなのだ。このままいけば、フィノはユルグと同じ生き方をするだろう。それだけはあってはならない。
だから――ユルグは、あることをマモンに託すのだった。




