旅のはじまり
*************
一部、加筆修正しました。
――二日前。ユルグがフィノと共にヘルネの街に着いた頃。
ミアとアリアンネは迷いの森の入り口へと来ていた。
「ここを進むのですね」
アリアンネは鬱蒼と茂る森を見上げて呟く。
魔物も出るうえに抜けるのは容易ではないというのに、彼女の様子は随分と脳天気にミアの目には映った。
言動から旅慣れていることは薄々感じているから、こんな森を抜けるのは余裕なのかもしれない。
『少し良いか』
「どうしたの?」
『アリアンネの事なのだが』
マモンは神妙な面持ちでミアへと声を掛けた。
先に一人で進んでしまったアリアンネを追いかけながらミアは耳を傾ける。
『あいつは重度の方向音痴でな。目を離した隙にはどこに行くかわからん。くれぐれも注意してくれ』
「――そっ、そういうことは先に言ってよ!」
慌てて前を行っているアリアンネに目を向けると、既に道を逸れて草の根をかき分けてあらぬ方向へ進んでいた。
急いで連れ戻すと、彼女は特に気にした素振りも無くお淑やかに笑っている。
「そんなので今までどうやって旅をしてきたのよ」
「マモンが居てくれましたから、迷ってもなんとかなっていましたね」
『……うむ』
アリアンネの答えにマモンは苦々しく頷いた。
彼の様子を見るに、かなり苦労しているようだ。
「とにかく、こんな所で遭難するわけにはいかないからね」
勝手な行動は慎むようにと釘を刺すと、アリアンネは頷いた。けれど、それだけでは不安である。ミアは多少強引に手を繋いで森の中を行く。
ミアの唐突な行動にアリアンネは少し驚いて、それから口元を綻ばせた。
「なんだか良いですね。こういうの」
「え?」
「こうして誰かと触れ合うのは久しぶりな気がします」
アリアンネは嬉しそうに破顔しながらそんなことを言う。
きっと今まで一人で色々な場所を旅してきたのだ。彼女も人肌が恋しいのかも知れない。
そんなことを徒然と考えていると、ぽつりとアリアが零した。
「昔はそうでも無かったと思うのだけど、よく覚えていないので」
「……覚えていない?」
聞くと、アリアンネの記憶は所々抜けているのだと言う。
彼女はその事を深く気にしてはいないから、忘れていてもたいして不都合は無いみたいだ。
あまり詮索する事では無さそうなので、ミアもそれ以上追求はしなかった。
それでも、ミアが思うより訳ありのよう。
思い返せば彼女がユルグを追っている理由も分からない。それに加えて今の話。
怪しい人物というのは重々承知だが、それでも彼女は悪い人間には見えないのだ。
正直に言えば気にはなるが、話したくないというのなら無理には問い質さない。
今はユルグを追いかける方が先決なのだから。
歩き続けて、陽も落ちてきた頃。
今日は森の中で野宿をしようという事になった。
『この森は随分と瘴気に満ちているな』
「そうなんですか?」
『ああ、元々そういう土地であるのだろうが、不法入国する輩も相当いるらしい。それらが野垂れ死んだと考えれば得心はいくよ』
「マモン、行ってきても良いですよ」
『……良いのか?』
「ええ、わたくしのことは気にしないで」
アリアンネとマモンが何かを話し込んでいる横で、ミアは食事の準備をしていた。
何を話しているのか、ミアにはさっぱりだ。聞いてもどうせ理解出来ないから、今はこちらに専念しよう。
しばらくすると話し終えたアリアンネがミアの元に戻ってきた。
「マモンは?」
「彼ならお腹が空いたようなので食事に行きました」
昨日、マモンは食事いらずだと聞いた。
アリアンネの返答に不思議に思ったが、生物が食べるような食事は不要ということだったのだろうか。
あんなまっくろな影みたいな姿をしているんだ。きっと何か特別な食事が必要なのだ。
てきぱきと支度を済ませて、出来上がったのは簡単なスープ。
干し肉と野草を入れただけの薄味のものだが、アリアンネはそれに目を輝かせた。
「野宿でちゃんとしたご飯が食べれるなんて思ってなかったです」
「今まではどうしてたの?」
「魔物の肉を焼いたり、木の実とか……現地調達ですね」
ユルグも以前、そんなことを言っていた。
なんでも結構美味いとかなんとか。
その時は特になんとも思わなかったのだが、こうして旅をして野宿を経験してみるとその大変さが身に染みる。
「旅をするって大変なんだね……」
「慣れればどうってことないですよ!」
ユルグはこんな過酷なことを五年も続けてきたのだ。
それを思えば、弱音なんて吐けない。
「私も頑張って慣れなきゃ」
直後――決意を新たにしているミアの背後で、草木が揺れた。
風のせいではない。明らかな獣の気配に驚いて背後を振り返る。
生きた心地がしないミアを余所に、アリアンネは呑気にスープを飲んでのほほんとしていた。
「……な、なにかな」
「大丈夫ですよ。先ほど罠を仕掛けておいたので心配いりません」
そう言うが、それでも怖いものは怖い。
得体の知れない何かに怯えていると、またもや背後で物音がした。
居ても立ってもいられなくなり、ミアはすぐさまアリアンネの傍に飛んでいく。
次の瞬間――茂みから飛び出してきたのは狼のような生き物だった。
あの鋭い牙や爪はただの獣では無い。おそらく魔物だろう。
アリアンネの背後でビクビクしていると、魔物はこちらに向かって襲いかかってきた。
しかし、空中で巻き起こった爆発により、魔物は跳ね返されて茂みの中へ落ちていく。
「言ったでしょう。大丈夫だって」
頭を抱えて震えていたミアに、アリアンネは優しく微笑んだ。
彼女は立ち上がると、先ほど撃退された魔物が落ちた茂みに入っていく。
戻ってきた彼女の手には黒焦げになり息絶えた骸があった。
「これは明日の朝ご飯にしましょう」
「う、うん」
――かなり腕が立つんです。
以前聞いたアリアンネの台詞が脳裏で再生される。
自信たっぷりに宣言するものだから半信半疑だったが、あれを見ては信じざるを得ない。
何はともあれ、彼女が居ればこの森を無事に抜けられそうだ。
予定では明日、一日歩けば森を抜けられるみたいだ。
けれど、ミアたちがヘルネの街に辿り着いたのはそれから二日後のことだ。
理由は――言わずもがな。
重度の方向音痴であるアリアンネのおかげである。