乱される心
三日後、エルリレオとマモンは宣言通りに街へと降りていった。
アルベリクの所で翻訳と、本職の薬師の仕事をするらしい。とはいえ、薬師は材料の薬草がなければ出来ない。
なので、それをユルグに調達してもらうという手筈になったわけだ。
しかし、昔エルリレオに師事したことはあるが、ユルグには薬草学はからっきしだった。一から覚えるとなるとかなり時間は掛かるだろうが……それでも手持ち無沙汰ではあるのだ。
フィノが居てくれれば苦労する事も無かったが、居ないものは仕方ない。
しばらくは薬草ではなく毒草を届けることになりそうだが、ユルグにも出来ないことはないのだ。
忙しいが、それでも充実した日々を送れる。
けれど、懸念事項が一つだけある。シュネー山にある虚ろの穴のことだ。
以前、祠にある匣を浄化したが負担が大きすぎてすべて浄化するには至らなかった。マモンが言うにはあの時浄化出来たのはほんの一部で、匣の容量いっぱいに溜まりきるまでは一月から二月という話だ。
許容量を超えて瘴気が溢れてしまえば、そこからまた魔物が溢れてくる。そうなる前にもう一度、匣の浄化を済ませるべきだ。
しかしそれにはリスクが伴うのは必須。まだ十日ほど猶予は残されているが……どうするべきか。
「参ったな……」
難しい顔をして唸っていると、休憩しようとミアがお茶を淹れてユルグの隣へ座る。
「どうしたのよ。そんなに唸り声上げて」
「……これとこれ、同じに見えるよな?」
テーブルに広げているのは、薬草学の修得の為にエルリレオが作ってくれた薬草の標本と、それと間違えやすい毒草。
それらを見比べて、ユルグは何度目になるか分からない溜息を吐いた。
頑張ってはいるが、どうにもこの手のものはユルグには向いていないようだ。どれだけ見比べても違いが見えない。もしかしたらセンスがないのかもしれない。
思えばグランツとカルラも、二人揃ってエルリレオの扱う薬草をただの草だと揶揄していた。ユルグも同じことを思っていたが……もしかしたらとんでもない素質がないとモノに出来ない代物なのではなかろうか。
「ううん……すこーし違うように見えるけど」
「……どこが?」
「葉っぱの裏側がツルツルしてるのが……薬草なんじゃない?」
「ああ、なるほど。言われてみればそうだ」
ミアの指摘に見比べてみると、確かに葉っぱの裏がスベスベとしているものが当たりだ。
「ミアの方が俺より向いているんじゃないか?」
「むしろ何でこんなに分かり易いのに気づかないの」
「……」
鋭い言葉の棘が胸に刺さり、一旦作業を中断してユルグはお茶を啜った。
何も答えないユルグに隣からミアの無言の眼差しが突き刺さる。
「それにさあ、出来ないからって私に丸投げは良くないんじゃないですかー?」
「うっ……そんなにいじめなくてもいいだろ」
拗ねてそっぽを向いたユルグの頭をミアの手のひらが少しだけ乱暴に撫で回す。
「なっ、何するんだよ!」
「ふふっ、ごめんごめん。なんだか可愛くって。悪気はないから怒らないで」
楽しそうに微笑んでミアはぱっと手を離した。
「うんと小さかった時は私がお姉ちゃんで、こうしてあやしてたなあ」
「そんな昔のこと、覚えてないよ」
「うそ!? え、本当に何も覚えてない!?」
「うん、そう。本当に何も覚えてない」
オウム返しで適当に答えると、すぐに嘘がバレてしまったのか。
ミアは頬を膨らませて、わしゃわしゃとユルグの頭を撫で回してきた。
「今の嘘でしょ! そういうの、すぐに分かるんだからね!」
軽く怒りながら、それでも楽しそうな幼馴染みの様子にユルグも嬉しくなる。
黙ってお仕置きと言わんばかりにそれを受け入れていると、不意に頭を撫でていた手が止まった。
と、同時に撫でていた手が首の後ろに回って、寄りかかってくる重みにふと隣を見ると、そこには満足そうな表情を浮かべるミアがいた。
「しあわせだなあ」
噛みしめるような呟きに、同意を込めて頷く。
「俺もだよ」
言葉にすると気恥ずかしいものがあるが、今更である。
ユルグの告白にミアは上機嫌で擦り寄ってくる。さっきまでは年上ぶっていたのに、今ではそんなの欠片もない。
それでもこっちの方がかわいいし、好きなのだ。
空いていた手を首元に回されていた手に重ねたところで、不意にミアが
「ねえ、ユルグ」
「うん?」
「今日は一緒に寝よっか」
「え?」
いきなりのことに答えにならない呟きを零すと、ミアは呆けているユルグの顔を覗き込んで笑みを浮かべた。
……今のは何の笑顔なんだろうか。
それを聞く前に、彼女は回していた腕を解くといそいそと立ち上がった。
「そろそろご飯作らなきゃ。何か食べたいものある?」
「いや、別に……というか、いまのって」
「何でもいいは一番困るんだから……まあ、いっか。美味しいの作ってあげるから、期待しててね」
特に気にした素振りもなく、ミアは台所へと向かっていった。
その後ろ姿を眺めて、先ほどの台詞を脳内で反芻させる。
一緒に寝る……というのは、つまり。そういうことなんだろうか。
完全に思考がそれだけに引っ張られて、今までやっていた作業も何も手につかなくなってしまった。
というか、あんなことを宣言されては平常心を保てと言われても無理だ。
緊張で落ち着かないまま、気がつくとユルグの前にはほかほかと湯気を立てる夕飯が並んでいた。
今日の献立は寒い日にはぴったりのシチューだ。
美味そうな匂いが漂ってくるが、どうにも食事が喉を通らない。味覚がないから味は分からないが、きっと味覚があっても今のユルグの精神状態では味なんて分からなかっただろう。
「どう? 美味しい?」
「う、うん。うまいよ」
「よかったあ」
ユルグの讃辞にミアは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は変わらずいつも通りで、あんな一言を発したというのに動揺というものがまったく感じられない。
ユルグにはわざとなのかどうかすら見抜けない。どうにも彼女は、こと色恋においてユルグよりも何倍も上手のようだ。
それに感心していると、いつの間にか食事は終わっていてミアは片付けに勤しんでいた。
食事中、何か話したような気もするが何も覚えていない。それどころではなかったのだ。
テーブルには淹れたてのお茶があって、取りあえず心を落ち着けるために口を付ける。
「あっづ!!」
ユルグの叫び声に、ミアがどうしたんだと飛んできた。
「火傷してない? だからさっき言ったじゃない。熱いから気をつけてねって」
「ミア……ちょっと」
「うん? なに?」
「……さっきのって、どういう意味で言ったんだ」
「さっき?」
「い、いや。やっぱり何でもない」
勝手に会話を終わらせると、誤魔化すようにユルグは再びお茶に口を付けた。
そんな幼馴染みをミアは不思議そうに見つめると、片付けに戻っていく。
……流石に分かっていて聞くのは格好が悪すぎる。
うだうだしていたら、ユルグの知る師匠たちに背中を叩かれてしまう。
男ならビシッと決めなければ!
――と、意気込んでみたものの。
二人一緒に同じベッドに入って、数分。
仰向けで身動きすらしないユルグと違って、ミアはユルグの腕を抱いて擦り寄ってくる。
温かな体温が心地良くて、眠ってしまいそうになるがバクバクと鳴り止まない心臓の鼓動がそれを許してはくれない。
……これは、試されているんだろうか。
悶々とした気持ちを抱えながら、じっとしていること十数分。
隣から微かな寝息が聞こえてきて、そこでやっとユルグは深く息を吸い込んだ。
結局、ミアの台詞は言葉通りの意味だったのだ。深読みする必要などなく、本当に一緒に寝たかっただけ。
今までドギマギしていたのが馬鹿らしくなる。
でも、もしかしたらいつまで待っても手を出さないユルグに痺れを切らして先に寝てしまったのかも知れない。その可能性もあるのではないだろうか。
そうであったのなら情けなさ過ぎて、しばらくミアの顔を見て話が出来ない。
「ミア、起きて…………もう寝てるか」
声を掛けても寝息は聞こえたまま。これはもう完全に寝てしまっている。
その事に安堵して息を吐き出す。
雑念が綺麗さっぱり消えたことで、ユルグの脳内には先ほどのミアの呟きが巡っていた。
彼女はしあわせだと言った。
もちろん、それはユルグも同じ気持ちである。出来る事ならこれがずっと続いて欲しい。けれど、それが叶わない願いであることも知っている。
ユルグに出来る事は、このしあわせをどれだけ引き延ばせるか。
その事を考えれば考えるだけ、不安も募っていく。
それは自分のことではない。ユルグがいなくなって、その後に残されるミアのことだ。
幸福が明確な形になると、途端に余計な考えばかりが浮かんでくる。
長くは生きられないくせに、こうして傍に居ることに何の意味があるのか。彼女を真に想うのならば、ここで別れを告げた方が良いのではないのか。
彼女の父親に言われたことでもある。ミアには幸せになってもらいたい。それがユルグの一番の願いだ。
それを叶えるには何が最善なのか。
ぐるぐると頭の中で巡って、今でも答えは出せないまま足元に出来た泥沼に嵌まっていく。
ここから抜け出すのは至難の業である。どちらかに振り切れない限りずっと嵌まったままだ。ならば、きっと既に答えは出ている。
元より、自分の命の使い所は既に決めているのだ。
彼女の幸せがユルグの唯一の願いなのだから。
 




