キャパオーバー
これが何か、考えなくても分かる。
瘴気の毒に冒された魔物や人間がその許容量を超えてしまったら、こうして余剰分が溢れてくるのだ。
きっとマモンが取り込んだ匣に溜まっていた瘴気が、彼の依代となっているユルグの許容を越えていたからだ。だからこうして溢れてきている。
突然の事態に目を見開いて固まっていると、その間にも喉奥から異物が競り上がってくる。まるで吐瀉物のようなそれはかなりの不快感を伴うものだ。
気道も塞がれて息も出来ないし、飲み込むのも難しい。嘔吐いてそれどころではない。無理矢理にでも吐き出さなければ窒息してしまう。
けれど、それだけじゃなかった。
手足に力が入らない。急激な虚脱感に、膝から崩れ落ちたユルグは額を冷たい石床に擦り付けて身体を折り畳んだ。
痛みはないが息が出来ない苦痛と嫌悪感。不快な感覚に冷や汗が背中を伝う。
『……っ、大丈夫か!?』
「ぐっ……げほっ」
寄ってきたマモンに答えることも出来ず、少しでもこの状況から逃れようと必死になる。
けれど、これはマモンが取り込んだ匣の浄化が済まなければ治まらないはず。いつまで続くか分からない。
次第に冷たくなっていく指先を握りしめて耐えていると、すぐ傍から声が聞こえてきた。
『これ以上は無理だ』
ユルグの状態を見かねたマモンは、匣を体内から取り出した。すると徐々に先ほどの症状が治まっていく。
口の中に溜まっていた異物を全て吐き出すと、息を整えた後にユルグはマモンを見上げた。
『気分はどうだ』
「はっ……最悪だよ」
口元を拭って立ち上がる。足元には溢れ出た粘液が水溜まりを作っていた。
虚脱状態だった身体も今はなんともない。手足にも力は入るし元通りだ。
『予め痛覚がなくなっていて良かったな。あれはかなりの苦痛を伴うものだ。常人ならば痛みで正気を保ってはいられない』
「……っ、そうか」
瘴気の毒に冒された時の痛みはユルグにも覚えはある。常時、突き刺すような痛みが伴う。それのせいで十分な休息も取れないほど。
今の状態にあの痛みもとなると、確かにマモンの言う通り。正気を保ってはいられない。
「匣の浄化はどうなったんだ」
『この分だと一割もいっていないな』
マモンの手中にある匣は、漆黒だった色が微かに薄まっているようにも見える。きっとあれの元の状態は真っ白な匣だったのだろう。今は瘴気を溜め込んでいるため黒色になっているが、浄化が済めば元に戻るはず。
しかし、あの状態を浄化し終えるまで耐えられるとは思えない。
自分では我慢強い方だと思っていたが、それでもあれは想像以上だった。魔王の器だから死ぬことはないと分かってはいるが、それでもあれを耐え抜ける気はしない。
「それでどれだけ瘴気を留めておける?」
『ふむ……一月から二月ほどだろう』
「少しは猶予があるってことか」
一先ずは魔物襲撃の脅威は去ったわけだ。
問題を先延ばしにしていることは重々承知。本当ならばすべて解決してから出て行きたかったが、あれでは難しいと言わざるを得ない。
しかし、一気に瘴気を浄化するのは無理だが、時間を掛けてならば可能だろう。今ので一割だとマモンは言った。毎日続ければいずれ匣に溜まった瘴気は浄化出来る。
その間にまた身体に何かしらの変化が表れないとも言えないが、それは今心配することではない。
「匣の浄化は後回しだ。今は――この大穴の底を目指そう」
『了解した』
匣を祭壇に戻すと、マモンは長毛の獣に姿を変えた。
ユルグは巨体を登って彼の頭上に陣取ると、しっかりと体毛を掴んで遙か下にある暗闇を見据える。
『では……振り落とされないよう、しっかりと掴まっていろ!』
===
大穴を下っていくと、最初に感じるのは遙か下から溢れてくるであろう瘴気の流れだ。
こうも暗いと視認するのも難しいが、確かに瘴気が下から上へと流れている。
それを知覚してすぐに、感覚が鈍くなる。
まったく光がない暗闇というのは、目を瞑っているのと同じ。本当に目を開けているのか、それが疑わしく思えてくる。
この下へと落ちていく浮遊感も実際に体感しているものなのか分からない。あとどれくらいで穴の底へと辿り着くのか。それも分からない。
微かな不安が心の中で大きくなっていく。
それを明確に感じてきた頃に、不意に暗闇一色の世界に変化が訪れた。
――突如、真闇だった視界が晴れた。
と同時に、マモンの足が地に着く感覚。
眩しさに視界が焼かれて眼前に広がる景色が判然としない。目を慣らしているユルグを余所に、マモンは平気なのか。息を呑んだ気配が伝わってきた。
『これは……どういうことだ?』
二人の眼前に広がっていたのは、岩肌に囲まれた霧深い渓谷だった。
驚いているマモンに続いて、ユルグもその景色を目の当たりにする。到底、大穴の底にあって良いような光景ではない。それは誰が見ても同じ感想を抱くはずだ。
マモンの身体から降りるのも忘れて見入っていると、背後から何かの気配を感じた。それに振り返ると、聞いたことのある声音が二人の耳に届く。
「良く来たな無人。歓迎するぞ」
久方ぶりの客人に嬉しいのか。上擦った声に上機嫌な笑い声が響く。
「俺の庭にようこそ、寛いでいくと良い」
その声の主は、以前目にした竜人とはまったく違うもの。
巨大な体躯を持った硬骨なドラゴンだった。




