二千年越しの想い
足を踏み入れた祠の内部は、薄らと雪が積もっていた。
あの吹き抜けの天井だ。こうなることは予想できる。しかし、それを覆い隠すように漂っている瘴気。足元に溢れている淀みの質量には目を見張るしかなかった。
『想像以上だ』
代弁するかのように、先に内部へと入っていったマモンが呟く。
鎧姿の彼はおもむろに周囲を見渡して、現状を分析しているようだ。
「いつもと違うのか?」
『ああ、大穴から溢れた瘴気は天井の吹き抜けから外へと漏れ出す。だからこんなにも溜まることはないのだが……塞がっていたせいでそうもいかなかったのだな』
「その異常が昨日のことに繋がっていたりするのか?」
『可能性としてはあるだろう』
マモンが言うには、昨日ユルグたちの面前に現れた竜人。あのような存在は二千年生きてきたマモンですら初めて見たという。イレギュラーな存在ということだ。
ということは、その状態を可能にした何かがあったということになる。
仮定の話になるが、おそらく……こうして祠の内部に瘴気が溜まってしまったことで、あの状況を可能にした。そう考えると筋が通る。
「どうやら内部には魔物はいないみたいだな」
『魔物の発生には周期がある。瘴気が溢れているからといって時を選ばず生まれることはない』
仮にそうであったなら、大穴に近い街など既に滅んでいるはずだ。
ユルグの質問に答えて、マモンは匣が安置されている祭壇に近付いていく。
その足取りを追いかけてユルグも大穴へと近付く。
祭壇に安置されている漆黒の匣は、周囲に漂っている瘴気と同化して輪郭さえも覚束ない。遠目からではどこにあるのかさえも見えなかった。
それでもマモンは祭壇のアーチを登って、匣を掴んで戻ってくる。
『本当に良いのか?』
「それ、聞くのは三回目だな」
昨夜、大穴の瘴気を浄化するつもりだとマモンに提案したとき。今朝、祠へ向かおうと準備をしているとき。
――今回ので、三回目。
「何度聞いたって俺の意思は変わらない」
『だが、こいつを浄化すれば確実に』
「くどいぞ。俺が良いって言っているんだ。そもそも、これはお前のやるべき事だろうが。今更怖じ気づいて、尻尾捲ってんなよ」
うだうだと逡巡する様は、ユルグの神経を逆撫でするには十分だった。
マモンも徒にこんなことを言う奴ではない。きっと、ミアやフィノがどんな想いをするか、それを知っているからここまで苦言を呈するのだ。
けれど、そんな気遣いを『魔王』がすること自体、お門違いというもの。
「俺は半端な覚悟でお前を受け入れたわけじゃない。馬鹿にするのも大概にしろよ」
一喝すると、マモンは黙り込んだ。
身動きすらしないで立ち尽くしたまま、何を考えているのかは知れない。けれど、どうにもいつもの彼とは様子が違うように思える。
棘のある言葉を向けられて気落ちしているのかとも思ったが、そんな考えが頭を過ぎった直後――
『ああ、そうか……やっとわかった』
マモンが呟くように言葉を吐き出した。
それに眉を寄せたユルグに、彼は昔話をする。
『ログワイドが己を創り出した時、お前は心のない化物だと言ったのだ。今までそれを信じて、二千年生きてきた。だが……アリアンネと共にいてそうではないのではないかと、そう思い始めていたのだ。しかし、結果的に奴の言葉には意味があった』
「いきなり何の話を」
『こうして苦しむ事を、奴は見越していたのだな』
苦笑を零すと、マモンは匣を飲み込んだ。
――飲み込む、とは感覚的な表現だ。
実際には……彼は頭を捻って頭部を外すと、首の部分から体内に匣を投げ入れた。そうしてまた頭を嵌め直す。
『浄化するまで時間が掛かる。それまで待っていろ』
マモンはいつも通りの口調でそう言った。
そこには何の感情も込められていないように思える。先の話もある。何か心変わりでもあったのか。
鎧姿のマモンは、そのまま手持ち無沙汰に祭壇のアーチ部分に座り込んだ。
彼と同じく暇を持て余していたユルグは、少し内部を散策する事にした。
足元を漂っている瘴気の量以外で、他の祠との相違点は見当たらない。
祠の外観も、祭壇もそこにある匣も……この大穴も。すべて同じだ。
穴の淵に立って覗き込んでみるが、見えるのは真闇だけ。底に何があるのかは知れない。
けれど――あの竜人は、大穴の底で待っていると言っていた。
彼の言う大穴がこの場所であることは疑いようがない。奴は魔物の体内から出てきたが、その魔物がやってきたのはこの祠からだ。
であれば……シュネーの大穴の底に、奴は居るのだろう。
「マモン、この穴の底には行けるか?」
『試した事はないが、己ならば可能なはずだ』
「ということは、俺も行けるってことだな」
『……まさか』
「あの竜人と話がしたい。きっと俺たちが知らないことを知っているはずだ」
……きっと、現状を打破する方法も知っている筈だ。
ログワイドの痕跡を辿る道もある。しかし、あの竜人に話を聞くのが一番の近道だとユルグは考えたのだ。
けれどそれにマモンは難色を示した。
『そんなことをすれば、さらに寿命を縮めることになるぞ』
「構わない」
『だが――……いいや、わかった』
何かを言いかけて、マモンは口を噤んだ。
彼が何を考えているのか。ユルグには判然としないが、それでも大穴の底に連れて行ってくれるらしい。
「それじゃあ、匣の浄化が終わったらすぐにでも」
フィノも待たせているし、時間は掛けられない。すぐにでも向かおうと――言おうとしたが、喉奥から声が出てくることはなかった。
「……あ?」
何かが口端から零れてきた。
ねっとりとして、冷たい液体。唾液ではない何かだ。手の甲で拭って、その正体を確かめる。
口腔から溢れてきたものは、黒色の液体だった。




