今は違う
『まったく……無茶をするやつだ』
初めて聞くその声が耳朶を打ったと思った瞬間には、それはアリアンネの隣にいた。
たったいま目の前で起きた現象を言葉にするのは難しい。
けれどそれでも説明をするのなら、倒れているユルグの身体の下……影から染みだしたまっくろな何かが鎧姿のヒト型に変形して、魔物に飲み込まれる寸前だった彼を救った。
そして、彼女の隣に居るソレが正体不明の何かだ。
内心驚いていたアリアンネだったが、ソレがなんなのか。何となく予想は付いていた。
「貴方が『魔王』ですね?」
『……如何にも。だが、自己紹介をしている暇は無さそうだ』
眼前には、獲物を丸呑みにしようと再び地上に頭を出した魔物。それと、マモンに担がれている血まみれのユルグ。
確かに、どちらを見てもそんな暇はない。
「おまえ、なんでっ、ここにいるんだ?」
『嫌な気配を感じたからな、一足先に己だけ駆けつけたというわけだ。フィノも今に来る』
覚束ない意識のまま尋ねると、マモンは答えた。
どうやら彼は魔王の器と離れていても、一瞬で戻る事が出来るらしい。
「聞いてないぞ、そんなこと」
『ふむ……言っていなかったか? まあ良い。間に合ったのだから良しとしろ』
「この状態を見て……っ、間に合ったって言えると思うのか?」
担がれていたユルグは地面に降ろされて、恨みがましくマモンを睨み付ける。
そんなことが出来るなら、もう少し早く戻ってきてくれても良かったんじゃないか? そうしてくれたなら、こんな怪我を負わずに済んだ。
グチグチと文句を言いたいのを堪えて言葉を飲み込むと、ユルグは自分の状態を確認する。
手足に刺さった棘は貫通しているがどうってことはない。急所でない限り融通は利く。しかし、脇腹に突き刺さったこれは流石に無視出来ない。
「急所は外れていますね」
「なんとかな」
「ですが、この怪我では無理は出来ませんよ」
アリアンネの忠告は的を射たものだ。誰が見ても重傷なこの状態で無茶を通せなど、そんなことを言う奴なんて――
『動けるか?』
「この状態を見てそう思うなら、どうかしてる」
『普通の人間相手ならばそうだろうよ』
マモンの言動にユルグは反論出来ずに口籠もる。
しかし、彼の言う通り。五体満足であるのならば、動けないほどではないのだ。
「……こいつを抜いてくれ」
「わたくしがやります」
『そうか……では己はアレの相手をしていよう』
やけにあっさりとしたマモンの態度を気に掛けていると、彼はいつか見た長毛の獣に姿を変えた。
あの魔物とも十分に渡り合える巨体だ。マモン一人で倒せるかは分からないが、今こちらに意識を向けられては困る。時間稼ぎにはなるはずだ。
単身、敵に向かっていったマモンから目を逸らして、ユルグは右腕に刺さった棘を抜いていく。
「……どうして先ほどは助けてくれたのですか?」
ユルグの傍へと膝をついて、アリアンネは沈痛な面持ちで尋ねてきた。
それになんと答えようかと迷った挙げ句、易い言い訳を告げる。
「お前に死なれるとミアが悲しむ。それに、仲良くしろって散々言われているんだ。それを破って怒られるのはうんざりなんだよ」
「そうですか。わたくしを助けたこと、後悔しなければ良いですね」
「それはどういう……」
意味深な発言に聞き返そうとしたところで、アリアンネが脇腹に刺さった棘に手を掛けた。
「傷口をしっかり押さえていてください」
「あ、ああ。わかった」
言われるがままにすると、彼女は腹に刺さった棘を抜いた。
流れ出てくる血に顔を顰めるアリアンネを尻目に、すぐに傷口を押さえて止血を試みる。
「先ほどの話ですが、魔王の器ならば死なないのですか?」
「まあな、便利な身体だよ。まったく」
「それならば、良かったです」
浅く吐き出した吐息と共に、アリアンネは両手で引き抜いた棘を雪の上へと放り投げた。
彼女の言葉は、きっとユルグを心の底から心配して出たものではないのだろう。
どうしてか、アリアンネはユルグに皇帝暗殺の依頼をしてきた。もっと厳密に言うと、魔王に依頼をしてきたのだ。
その意図はまだ不明ではあるが、おそらく『魔王』であることが重要なのだ。だから、ユルグに簡単に死なれては困る。
この先を想えば不穏さは拭えないが、まずは現状をどうにかしなければ。
「作戦はさっきと変わりなく。アリアンネはあの化物に火球を食わせてやれ」
「わかりました。貴方はどうするのですか?」
「俺は……キツい一発をもらった借りを返してくる」
全ての棘を抜き終えたユルグは、剣を握りしめて立ち上がった。
止血はしたがかなり血が流れ出てしまった為、多少はふらつくが歩けないほどではない。体調を確認していると
「おっ――おししょう!」
後方から聞き慣れた声が聞こえてきた。
振り返ると、汗だくで雪原を走ってくる影が見える。
「――っぐぇ」
「けがしてるよ!」
ユルグの血まみれの姿を目にしたフィノは、顔面蒼白でその身体に縋り付いてきた。
「悪いが、今そんなことをしている余裕はないんだ。あいつのせいでな」
「……なにあれ?」
マモンと絶賛追いかけっこ中の魔物を見遣って、フィノは目を細める。
あの姿になったマモンでも、雪原を泳ぐ魔物を捉えることは出来ないらしい。体良く振り回されている様は滑稽だが、それを見て笑っている余裕は今はないのだ。
「何かは分からないが、あれが厄介でな。手を焼いていたところなんだ」
「フィノもてつだうよ!」
「いいや、お前はアリアンネを」
アリアンネを守ってやってくれ。
そう言いかけた言葉をユルグは飲み込んだ。
今まではそれで良しとしていた。それは彼女の手を借りずともユルグ一人で事足りていたからだ。それにフィノだって未熟だった。
――けれど、今は違う。
「……そうだな。俺一人じゃ厳しいから、お前も手伝ってくれ」
「うん、わかった!」
嬉しそうに頷くとフィノは腰に下げていた剣を抜く。
その眼差しからは並々ならぬ決意を感じる。なんとしても師匠の役に立つのだ、という気概で満ちあふれている。
「俺とフィノでなんとか隙を作る。あとはタイミングを見計らって、上手くやってくれ」
「わかりました」
火球を当てやすい高所へと向かっていくアリアンネを見送って、ユルグは正面を見据える。
「さて、それじゃあ――リベンジマッチといこうか」




