雪原を泳ぐ
不可思議な現象が起きている。それは誰の目にも明らかなことだ。
「これは……なんでしょうか」
少し遅れてやってきたアリアンネも、ユルグと同じ反応を見せた。
あの山林に生えている大木は低い物でも四から五メートルの高さになる。それよりも大きな物だと首を捻って見上げなければ天辺が見えないほどだ。
それらの木々が根元から、地中に埋まっているはずの根を露出させて、雪原に倒れている。
これが自然現象でないことは、分かりきったことだった。
異常事態にユルグは周囲を警戒する。
見える範囲では何の姿も捉えられない。眼前に広がっているのはまっしろな雪原と、倒された大木だけだ。
しかし、よく目を凝らして見るとあることに気がついた。
「あれは……隆起した跡にも見えるな」
倒れている大木の近くに、雪が盛り上がった跡が見える。
しかし、遠目からではそれしか分からない。正体を知るには近付くしか無さそうだ。
「俺は今からあそこに行ってくる。アリアンネはどうする?」
「わたくしもお供しますよ」
「構わないが……自分の身は自分で守れよ」
「安心してください。遅れは取りませんから」
ユルグの忠告にアリアンネは胸を張って答えると、後ろを着いてくる。
緩やかな傾斜を下っていって倒木の傍まで寄ると、ユルグはしゃがみ込んで奇妙な痕跡を探っていく。
この場所にはよく足を運んでいた。けれど、この隆起跡は初めて見る。ということは、今しがたどこからかもたらされたということだ。
まるで下から押し上げられたかのように、大木の根が地上に露出している。その周囲にある隆起跡を目で追っていくと、山林を抜けて山の頂から伸びてきているのがわかった。
正確には――山の中腹。大穴の祠がある方面。そこから隆起して……道が出来ている。
その事実に、ユルグは得も言われぬ胸騒ぎがした。
増え始めた魔物と、浄化出来ていない瘴気の渦。
ここから導き出される答えは一つしか無い。
この現象を引き起こした、姿の見えない脅威はあの大穴から溢れてきたものだ。
それを悟ったユルグが去ろうと足を浮かせた、その直後。
――地中から現れた何かが、大口を開けて倒木に齧り付いた。
下から突き上げてくる衝撃に転びそうになりながらも、ユルグはそれを堪えて後方に飛ぶ。
「大丈夫ですか!?」
「なんとか」
少しでも後退するのが遅れていたら、丸呑みにされていたところだ。
冷や汗をかきながら、眼前の化物から目を逸らすことなくアリアンネの位置を確認する。
彼女はユルグの数歩後ろにいる。あの場所ならば先ほどの被害は及んでいない。大丈夫だ。
それよりも今は、あの醜悪な化物に神経を尖らせるべきだ。
左手に剣を握りしめて、ユルグは今しがた現れた正体不明の化物を凝視する。
その姿は、何かとしか形容できないものだった。
少なくとも、あんなモノは今まで目にしたことがない。
倒木に齧り付いて真っ二つにへし折ったその口は、デカい獣を一飲みできるくらいには大きい。人間なんて丸呑みに出来てしまうだろう。
それに加えて、その口腔には鋭く尖った歯が幾重にも重なって生えそろっている。飲み込まれた獲物はズタズタに切り裂かれてあっという間に肉片になってしまう。
しかし、特筆すべきはまっくろな体表に生えそろっている棘だ。
最初は獣のように体毛が生えているのかと思ったがそうじゃない。あれは、切っ先が鋭く尖った棘だ。びっしりと身体中を覆っているそれは、ああして地中を移動しても折れないくらいには頑丈。
なまくらで叩いても武器の方が折れてしまうかもしれない。
加えてコイツには――
「あの魔物、目玉がありませんね」
「ああ、そうみたいだな」
アリアンネの指摘にユルグも同意を込めて頷いた。
あの魔物には、目玉が存在しない。
ということは目が見えないと考えて良いのだろうが、今の齧り付きはユルグを狙ったようにも思える。
奴の好物が味気ない木であるのなら話は別だが、腔内の歯列にこびり付いている肉片を見るに、そんな馬鹿な考えは早々に捨て去るべきだ。
しかし、そうであるのならば奴はどうやって獲物を判別しているのか。この雪原を移動するのだって難しい。
何か、それを可能にする特性があるのかもしれない。けれど、それを看破するには情報が足りなさすぎる。
「どうするのですか」
「どうするって……放って置くわけにはいかないだろ」
「それは、そうですけど」
ユルグの返答に、アリアンネは言葉を詰まらせた。
彼女が躊躇するのもわかる。
見たことのない魔物だ。剣で斬りかかって倒せるとは到底思えないし、あの形態を見ても一筋縄ではいかないことなど分かりきっている。
「どうやって倒すつもりなのですか?」
「それは今から考える」
何をするにしても、ユルグが身体を張らなければどうにもならない状況だ。
だったら、お望み通りにしてやろう。
元より、こいつらをこのまま放置しておけば近場にある小屋までやってくる。その後は麓の街。誰かがここで止めなければならないのだ。
「アリアンネは後方から援護してくれ」
「わかりました」
ユルグの頼みにアリアンネはあっさりと承諾した。
「頼んだ俺がこんなことを言うのもなんだが……ここで俺に協力する旨味はないだろ。タダ働きになるんじゃないのか?」
先ほどの話し合いで、彼女の頼みをユルグは断っている。
皇帝殺し……それを手伝ってくれるなら、なんて条件をだすでもなくアリアンネは快諾したのだ。
何か裏があるかも、と勘ぐるユルグに彼女はあっけらかんとした物言いをする。
「魔王に借りを作っておくのも悪くないでしょう?」
「その借り、すぐに返すことにならないようにしておけよ。なんせ、コイツを倒すには少々骨が折れそうだ」
「心配しなくとも、遠慮無くぶちのめしてあげます!」
いつか聞いた文句を背に受けながら、ユルグは正体不明の魔物に向かって行くのだった。




