嵐の前
――同時刻。
席を立ったアリアンネと共に、ユルグは小屋の外へ出た。
陽が出ているため朝方や夜よりは暖かいが、長く外にいれば身体を冷やしてしまう。
心配して呼びに行ったのだが、どういうわけか。幼馴染みの姿はどこにもなかった。それと、一緒に出て行ったティナの姿も見えない。
小屋の周りを一周して探してみるが、やっぱりどこにもいない。
「姿が見えないが……どこに行ったんだ?」
「街に行ったのではありませんか?」
アリアンネが雪の上に残っている足跡を指差す。
二人分のそれは、彼女の言葉通りに麓の街まで向かっている。
「呼びに行きますか? でしたらわたくしもお供いたしますよ。護衛の二人はぐっすり眠っていますから、待っているのも退屈ですし」
苦笑を刻んで告げたアリアンネの言葉に、ユルグはちらりと荷馬車を見遣る。
彼女らの護衛を昏倒させてしまったが、魔法を解いてもすぐには目を覚まさない。あと一時間は夢の中だ。
「……わるかったな」
謝ると、アリアンネは「大丈夫ですよ」と言った。
その言葉と微笑を目の当たりにすると、警戒を解いてしまいそうになる。それに慌てて頭を振って雑念を払う。
アリアンネの思惑が知れない以上、安易に信用してはいけない。警戒はすべきで心を許すなんて以ての外。
「そういえば……最近は魔物の数が増える一方だと、祖国の守備隊の方々も苦心されているようで……わたくしも心苦しい限りです」
「そうらしいな」
件の話は冒険者ギルドで連日、魔物の討伐依頼を請け負っているフィノも言っていた。
張り出される依頼の数も増えており、仕事には困らないそうだ。
彼女は事の重大さが分かっていないのか。金を稼げるから良いことだと呑気にしていたが、その本質は……かなり切迫している。
毎日フィノに着いて行っているマモンはそのことに気づいているはずだ。
魔物の異常発生は虚ろの穴から漏れ出てくる瘴気に深く関わりがあるのだ。だから、この状況を根本的に解決するには、瘴気を浄化するのが手っ取り早い。
その為に存在しているのがマモンであり、魔王というものなのだ。
けれど、その事を彼から打診されたことは一度も無い。
以前に魔王の譲渡に当たって、その使命を無理に強制はしないと約束してくれたが、それでも一言もないのはユルグもおかしいとは思っていた。
マモンの考えは分からないが、どうであれ。嵐の前の静けさのようにも感じるのだ。
「それは俺に催促しているのか?」
「どう取ってもらっても構いません。ですが、世界が平和になってくれれば、それはそれで喜ばしいことです」
「……どうにも薄っぺらいな」
ユルグは善意を押し付けてくる手合いが嫌いだ。善い行いをすべきだとか。困っている人は助けるべきだとか。
その通りではあるが、それを一々説いて、強要する。偽善ぶった手合いが大嫌いだ。
今のアリアンネからは、それと同じ気配を感じる。
以前ならばこうは思わなかった。
確かに同じような事を飽きもせずに言っていたが、その言葉には重みがあった。軽薄さが感じられなかった。
なによりも、彼女の性格は自らの言動に恥じないものだったのだ。心の底から他人を慈しんでいた。ああいうのを人は聖者と呼ぶのだろう。
彼女とは言い争いもしたし、意見も合わなかった。対立することだって多かった。けれど、それでも他の皆と同じように、ユルグも嫌いではなかったのだ。
それが……今のこれは何だ?
「気に食わないな」
「それはお互い様でしょう」
間を置かずに抜かれた返し刀は、意外にも鋭いものだった。
アリアンネの言い分は、魔王の使命を放棄したままこんな場所でうつつを抜かしているユルグを責めるものだ。
それを言われる筋合いはないと怒るところだが、今のアリアンネには関係の無いこと。
ユルグに魔王を譲渡しようと画策したのは、彼女の意思もあるのだろう。しかしマモンの願いでもあったのだ。だから彼女もそれを良しとしていた。
けれど、今のアリアンネが同じ状況であったのなら、あの時と答えを同じくするのか。
気にはなるが、それを聞く勇気はなかった。
もしそれで、ユルグの望む答えを得られなかったら……この選択を選んだのは間違いだったと突き付けられることになる。
そうなれば、どこに憤懣をぶつけて良いか分からない。
口を噤んだユルグを一瞥したアリアンネは、それ以上何も言わなかった。
なぜかその事に安堵した、その直後。
足裏に微かに感じた振動に、ユルグは背後を振り返った。
「……気づいたか?」
「はい。小屋の後ろでしょうか」
小屋の後方には緩やかな丘陵が続いていて、それを越えると林がある。小枝拾いや薪割りによく向かう場所だ。
おそらく、そこから発せられた地響き。
異変を察知したユルグはすぐさま、小屋の裏手に回り込んだ。
師匠の墓標を越えて――
「……グランツ、少し借りていく」
形見である、錆びた剣を手に取ると脇目も振らずに駆けていく。
その後ろからはアリアンネも着いてきているようだ。
それを目端で確認しながら丘陵を越えて……山林が視界に入った。
その瞬間――目の前の光景にユルグは息を呑んで固まった。
「……なんだ、これは」
しっかりと雪の下に根付いているはずの大木が、根こそぎ引き抜かれたかのようにすべて倒されていたのだ。




