戯れ合い
雪の斜面を転げ落ちながら、ユルグは先ほど目にしたフィノの様子を気に掛けていた。
表情然り。明らかにいつもと違っていた。もしかしたら街で彼らに会って、脅されてここまで案内させられたのかもしれない。
魔術師と僧侶の二人ならばそんなことはしないだろうが、あの男だけは、にべもなくやりそうではある。
彼らと共に旅をしていた一年間。事あるごとに衝突していたのが、今しがたユルグを追いかけてきている男。
……確か、アロガと呼ばれていたか。
彼とは口喧嘩も、稽古試合と称した実力行使も。かなりの回数したように思う。それだけアロガとはソリが合わなかったのだ。
その最たる理由の一つが、彼が直情的な性格をしていることにある。
他の二人は、言い争いをしてもムカつくから殴るだとか、胸ぐらを掴むだとか。そんな野蛮なことはしなかった。
あくまでも、勇者の責務に積極的ではないユルグを言葉で諫めようとしていたのだ。
しかし、アロガだけは違っていた。
ユルグが否定的なことを言えば突っかかって来るし、気に食わなければ暴力に訴える。酷く粗暴な人物だった。
あの様子を見るに、何も変わっていないようだ。
仲間二人の心労が手に取るように分かる。
「……っ、待ちやがれって、言ってんだろ!」
ユルグの後方から斜面を駆け下りてくるアロガの怒声が響き渡る。
あの鎧を着たまま、この斜面を下れるのはかなりの身体能力だ。流石、脳筋馬鹿だけはある。
とはいえ、彼の制止の言葉に転げ落ちるしかないユルグはどうすることも出来ない。
落ちていく進路の先に大木があればそれで勢いを殺せるだろうが、最悪思い切りぶつかってまた更に落下なんて事態にもなり得る。
ここで確実に止まるには、かなりの荒技だがあの方法しか無い。
滑り落ちる速度を考慮して、どのタイミングで仕掛けるか。
瞬時にそれを見極めると、ユルグはそれに背中から乗り上げるようにして――張り出した。
――〈プロテクション〉
斜面に突如出現した透明な障壁は、転げ落ちるユルグの身体を受け止めた。
「ぐッ……」
しかし、加速の勢いは殺せない。思い切り背中からぶつかって、一瞬呼吸が止まる。それでもこの障壁が持つのは三秒だけだ。
その間に体勢を立て直して、なんとかバランスを保ちつつ斜面に足を掛けたユルグに、アロガは駆け下りてきた勢いを殺すことなく一足飛びでユルグの正面へと着地した。
「なんだよ。追いかけっこはもう終わりか?」
「これ以上お前から逃げ回る必要が無くなったんだ」
一対一ならば……邪魔が入らなければこの男には勝てる。
ここでユルグが足を止めたのは、その確信あってのことだ。
「お前らは俺を殺しに来たんだろ。だったら早くかかってこいよ」
「――っ、言われなくてもやってやるよ!」
先ほどまで怒り狂っていたアロガは、不敵な笑みを浮かべた。
その表情に気を取られつつも、無造作に踏み込んでくる彼の動きに神経を尖らせる。
先ほど、ユルグは一対一なら勝てると確信したが、それでも楽に勝てるとは思ってはいない。それは何も怪我が治りきっていなく、武器もない状態だからではない。
例え、万全の状態であったとしてもこの男は、そう易々と勝ちをもぎ取れるほど未熟な戦士ではないのだ。
ユルグを勇者だと知らない素人相手ならば、この状態でも勝ち目はあっただろう。
満足に身体を動かせず、剣もない。右腕は動かない。最悪な状況ではあるが元勇者であるユルグには、魔法がある。
手管の多さで相手を翻弄できればなんとかなる。対面するアロガは直情的故に、その作戦が嵌まりやすい相手ではあるのだが……この場合、そうとも言えない。
彼は右手には剣を携えて、左手で兜を降ろした。
一見、何気ない所作のように見えるが、あれが中々に厄介だ。
頭部への損傷を避けてわざわざ兜を嵌めたのかとも考えるところだが、当然それだけではない。アロガが警戒しているのは、ユルグの魔法である。
ユルグがよく使う戦法の内に、〈ホーリーライト〉による目眩ましがある。決まれば大きな隙を生み出せるし、一気に勝負が決まってしまう。彼はそれを警戒したのだ。
瞬時にこうした対策を立てられるのは、ひとえに彼がユルグの戦闘スタイルを熟知しているからだ。
一年間、飽きもせずに喧嘩をふっかけてきて、その度に面倒ながらも相手をして負かしてきたのだ。であればアロガもどうすれば勝てるのか。学習するのは当然である。
……あれは中々に厄介だな。
鎧を着込んだ大男相手に素手の勝負など、分が悪すぎる。
だから相手を無力化することに重きを置いて仕掛けようとしていたユルグだったが、たったいまその内の一つが潰された。
とはいえ、諸手を挙げて降参するにはまだ早い。
かなり泥臭い勝ち方をする事になるが、選り好みしている場合でも無いのだ。
大股で距離を詰めてくる相手に、ユルグは左手に意識を集中して……炎の塊を生み出す。
――〈ヒートヘイズ〉
〈ファイアボール〉よりも威力がある炎魔法だ。
しかし、出現した火球を目にしたアロガはすぐさまユルグへと直進していた足を止めて、その射線から逃れるように斜め前へと駆けだした。
魔術師と戦う時の心得を彼はしっかりと理解している。
相手との距離を詰めることと、攻撃魔法の射線から外れること。それらを徹底されたら、どんなに秀でた魔術師でも易々と攻撃させてもらえない。
的を見失った火球は雪原へとぶち当たって蒸気を撒き散らした。
続けてこちらに近付いてくるアロガに二撃目をお見舞いしようとするが、それよりも先に剣先がユルグの首筋を捉える。
身体を捻って危うくも回避出来たが、擦った首筋には血の跡が滲む。
それでも、今のユルグにはそれが限界だった。
剣撃を避けられたのは良いが、その後のことは何も考えていなかった。
大きくバランスを崩し……このまま再度斜面を転げていきそうになるユルグを、刹那。鋼の手甲が掴んで留めた。
動かない右腕をがっしりと掴んだアロガは、不機嫌そうな声音で刀身を肩に担いで嘆息する。
「おいおい、どういうことだ? お前、怪我してんのかよ」
「だったらどうするっていうんだ。手加減でもしてくれるのか?」
「ははっ、まさか! 抵抗出来ねえんだったら、思う存分殴れるってもんだろ!」
掴んだ腕はそのまま。アロガは右手に持っていた剣を放り投げた。
そうして、空いた手に握り拳を作る。
「――歯ぁ食いしばりやがれ!」
激情が籠もった怒声と共に、顔面に力強い殴打が降ってくる。
重い衝撃に脳が揺さぶられ、一瞬意識が飛びそうになる。けれど、それを許さないとでも言うように再びの殴打。
けれど、どれだけ殴られようとも全く痛みは感じない。流れ出た鼻血が雪の上に点々と落ちる。鉄錆にも似た血の臭い。それらに、ただただ不快感だけが募っていく。
何度も殴られて狭まっていく視界の中で、一瞬だけその拳が止まったように見えた。
「……っ、なんで――」
彼が何かを喋ろうと口を開く。けれど、それを聞く前にユルグは振り上げたままの拳を左手で掴んだ。
「気は済んだか? なら、今度は俺の番だ」
大人しく殴られてやるのはここまでだ。




