喜ばしい変化
食事を終えたユルグはベッドに入ったまま、右腕の機能回復訓練をしていた。
何のことはない。まったく動かない右腕を左手で支えて動かしてやるだけだ。これを繰り返していけば、少しは動くようになるとエルリレオは言っていた。
どうせベッドに寝転んでいるだけでする事もなし。暇を弄ぶだけならば、これくらいは真摯に取り組まなければ。
窓の外を眺めながら腕を動かしていると、薪割りをしてくると外に出て行ったミアと入れ替わりで、街へと行っていたフィノが戻ってきた。その背後には黒犬のマモンも着いている。
「ただいまー!」
「おかえり……エルはどうしたんだ?」
「アルにとまっていけって」
「ずいぶん懐かれているんだな」
アルベリクがああしてエルリレオに懐く気持ちも分かる気がする。彼はよく人を見ているのだ。そうして相手が欲しい言葉をくれる。それが年の功から来るものなのか。はたまたエルリレオの気性がそうさせるのか。
仲間たちと旅を始めた頃は、エルリレオのそういった篤い所に助けられたものだ。
「ねえ、おししょう」
徒然とそんなことを考えていると、フィノがベッドの傍へと寄ってきた。
「なんだ?」
「おねがいがあるんだけど……」
しおらしい態度で、フィノは上目遣いにユルグを見た。
珍しい様子になんだと尋ねると、彼女のお願いはこれからも麓の街に行っても良いかというもの。
「何か用事でもあるのか?」
「んぅ、そうじゃないけど……ええと、その」
もじもじと言い淀むフィノに、なんなんだとユルグは眉を寄せた。
わざとらしさは感じないが、何かを隠そうとしているのは明白だ。
……どうして今になってそんなことを言い出したのか。たぶん、今日街に行ってきた事が原因かも知れない。少なくとも師匠には知られたくないことらしい。
「街には頻繁に行くつもりなのか?」
「う、うん。ダメ?」
「構わないが……出来ればエルやミアの手伝いをして欲しい」
世話になっている以上、何かしら仕事を請け負わなければならない。ユルグはこんな状態で何も出来ないし、ミアよりも力があるフィノに率先して手伝って欲しい。なんにせよ、人手は多いに越したことはないのだ。
「じゃあ、てつだいがおわったら!」
「うん、それなら良いんじゃないか?」
「やった!」
ユルグの快諾に、フィノは小躍りしそうなくらい喜んでいる。
何をするつもりか知れないが、彼女なりに何か考えがあってのことだろう。何よりも、自分からこうしてユルグの元を離れていくというのは喜ばしいことだ。
「ミアのてつだいしてくるね!」
上機嫌なフィノは今しがた戻ってきたばかりだというのに、すぐに外へと出て行った。
相変わらずの溌剌さに苦笑しながらその後ろ姿を見送っていると、ベッドの傍に置いてあった椅子の上にマモンが飛び乗る。
「何があったか、お前は知っているのか?」
『心当たりがないと言えば嘘になるなあ』
ニヤニヤと笑みを浮かべるマモンに、自然と表情が固くなる。
そんなユルグの様子を眺めてから、満足したのか。マモンはおもむろに話し出した。
『お主の役に立ちたいと言っていたぞ』
「……それが街に行くのと何の関係があるんだ」
『さあな、己も詳しくは知らん。だが……いじらしいじゃないか』
思わぬマモンの台詞に、ユルグは目を見張った。彼がこんなことを言うとは思っていなかったのだ。
「お前……少し気持ち悪いぞ」
『失敬な。いつも邪険にして当たり散らすお主よりはマシだ!』
僅かに声を荒げたマモンに、ますますユルグの脳内は混乱を極めた。
……彼はここまでフィノを贔屓する奴だったろうか?
もしかしたらアリアンネが居なくなったことで寂しくなったのか?
無粋な考え事をしていると、嘆息したマモンはぽつぽつと話し出した。
『何でも金を稼ぐのだと息巻いておった』
「……何の為に?」
『それは教えられんなあ』
肝心なところではだんまり。
しかし、金を稼ぐとなれば街に行って何をするつもりなのか。ユルグも薄々感づいてきた。
「ギルドで依頼を受けるつもりなのか?」
フィノが手っ取り早く金を稼ぐならこの方法が一番だ。
麓にあるメイユの街にも冒険者ギルドはある。黒死の龍を斃したことで街に人が戻りつつあるのならば、彼女が受けられる依頼だってあるはずだ。
一度、一緒に依頼を受けてこなした事もあるし、どうすれば良いかも知っている。可能性としてありえない話ではない。
真剣な顔つきで思案しているユルグに、マモンは多少なりとも驚いた。
彼は曲がりなりにもフィノの師匠であるが、ここまでの旅で彼女への気遣いを見せたことはなかったと記憶している。
マモンの居ないところではどうだったかは知れないが……今しがた垣間見たユルグの様子はマモンにとって興味深いものだった。
『それにしても、いつも邪険にしているというのに。やはり多少は心配にもなるのか?』
「……黙れ。独り立ちしてくれて清々する」
『素直じゃない奴め。心配なら心配だと言えば良いものを』
「余計な事に首を突っ込まないか心配はしているな」
捻くれた物言いにマモンは再度、溜息を吐いた。
そういえば、この元勇者はアリアンネと滅法ソリが合わなかった。思いやりに欠ける人間である。そんな奴に真っ当な返事を望むのは酷なこと。
今一度そのことを再確認したマモンは、彼にこんなことを言うのは気が乗らないながらも提案する。
『気になるのなら、己が着いて行ってやろうか?』
「お前がそうしたいならすれば良い」
『どうあればそんなにも性根がねじ曲がるものか……まったく』
捨て台詞を吐いてマモンは椅子の上から飛び降りると、外へと出て行く。
煩いのが居なくなって清々したと、ユルグは右腕の訓練を再開した。
マモンはああ言っていたが、フィノについては何の心配もしていないのだ。
旅の道中で稽古を付けた時に感じたが、フィノはユルグよりも戦闘センスがある。伸びしろもある。経験を積んでいけば師匠よりも強くなるだろう。
これはお世辞でも何でも無い。ユルグの本心だ。
実際、今のユルグではフィノには勝てないかも知れない。怪我が治っても、右腕を満足に動かせないというのは相当なハンデだ。それに加えてあの異常なまでの魔法のコントロール力はかなり応用も利く。
出会った時ならいざ知らず、もう何も心配することなど無いのだ。




