大穴の底に潜むモノ
室内から退散したマモンは、シュネー山の山腹を見つめて物憂げな顔をする。
どうしても気がかりな事が一つあるのだ。取り越し苦労ならばそれに越したことはないが、いずれにしても確かめる必要はある。
幸い、今日は天気も良く絶好の散歩日和でもある。気晴らしに登山するのも良いだろう。
黒犬から鎧姿に変わったところで、遠くからこちらに歩いてくる人影が見えた。
「――マモン!」
雪を踏みしめて向かってくるのは、街へと行っていたフィノだった。
しかし彼女の傍にはエルリレオの姿はない。
『おお、戻ったか』
「うん、ただいま!」
『あの老人はどうしたのだ?』
「エルはアルのところにいるよ。とまっていけって」
『ふむ……だったら今日は戻らないということか』
「あしたむかえにきてって、たのまれたの」
息を切らして走ってきたフィノは、額の汗を拭って青空を見上げる。
まだ昼を少し過ぎた時間帯だ。太陽は真上にあって、彼女はそれに目を眇めた。
「マモンはなにしてたの?」
『二人きりにした方が良いと思ってな。退屈しのぎに散歩がてら山に登ろうかと思っていたところだ』
小屋を後ろ手で指してフィノに説明すると、彼女は一瞬だけ複雑な表情をした。
アリアンネほど目聡いわけではなかったが、マモンもフィノがユルグの事を好いているのは知っている。内心思うところもあるだろうが、彼女はそれをあからさまに表に出すことはしない。
確かに事あるごとにスキンシップは激しいし、構って欲しいという気持ちはひしひしと感じるがそれ以上でも以下でもないのだ。
きっとフィノなりに遠慮しているのだろう。マモンはそう考えた。
その証拠に、彼女はこれから山を登ろうとしているマモンにこんなことを言い出したのだ。
「フィノもついていってもいい?」
『今しがた街から戻ってきたばかりだろう。疲れているのではないのか?』
「ううん、だいじょうぶ!」
笑顔を貼り付けて答えるフィノに、なんとも健気でいじらしいではないかとマモンは嘆息する。
叶わない想いを抱える気持ちは彼も十分に理解しているのだ。であれば、ユルグのようにフィノを邪険にする必要などどこにも無い。
『それでは共に行こうか』
「うん!」
元気よく頷くと、フィノはマモンの隣に並んで歩き出す。
少し歩くと林の中に足を踏み入れた。そこで彼女はふと足を止めて、木の根元を掘り返す。
『何をしているのだ?』
「こーいうところに……あった!」
フィノが引き抜いたのは雪の下に埋まっていた薬草だった。
しかし、マモンが見てもそこら辺に生えている雑草と区別は付かない。
『うむ……見分けが付くのか?』
「うん、エルにおしえてもらった」
曰く、葉の先がキザキザと尖っているモノが薬に使える植物なのだという。
「あとね、ちょっとあまいにおいがするの」
そう言って、匂いを嗅ぐと葉先を口に含んで、途端に顔を顰める。
「それと、たべるとすっごいにがい! ううーっ!」
唸り声を上げて手に取った薬草を放り投げると、フィノは口に雪を含んで吐き出した。
マモンには生物が持つ感覚は備わっていない。匂いも味も感じる事が出来ないので、フィノが言う甘い匂いも食べると苦いも分からないのだ。
けれど、さっきの表情からとてつもなく苦かったことは見てとれた。
『それにしても、教えてもらってすぐに分かる物なのか?』
「ううん、エルもむずかしいっていってたよ」
何でも似たような毒草もあって、判別には難儀するのだという。
その証拠に、昔ユルグに指南したときも彼は覚えられなくて断念したのだと。
『そういえば、フィノは覚えが早いのだったな。ミアも褒めていたか』
「ん、そうみたい」
採った薬草を背嚢にしまって、フィノは立ち上がった。
けれど、マモンの言葉に彼女は少しも顔を綻ばせない。
「でも……それだけじゃダメなんだよ」
珍しく彼女にしては弱気な言葉を吐く。
そのことにマモンは驚いて、どうしてだと尋ねた。
『何か不満でもあるのか?』
「ううん、ないけど……フィノにできること、なにもないから」
それが何に対してか、問わなくても分かりきったことだ。
彼女はユルグの身を案じている。それはマモンがアリアンネを想っているのと同じ。
俯いて悔しげに唇を噛むフィノの姿に、マモンは背を丸めて跪いた。
『そんなことはない』
「……え?」
突然のマモンの発言に、フィノは目を円くした。
それはマモンも同じだった。こんなことを、彼女に話すつもりなどなかったのだ。
けれど、黙って見ているには忍びないと……そう思ってしまったのだ。
きっと、これを知ればユルグはマモンを責めるだろう。
彼が何を思っているのか、真意は知れないが自分の置かれている状況にフィノを巻き込むつもりは微塵もないはずだ。
それを知っていて、マモンはフィノへと話す決心をした。
『あやつは既に勇者ではない。魔王の器と成った。それは薄々感じているな?』
「う、うん」
『成ってしまったのなら、そこから解放する手段はない』
「でもアリアは……」
『アリアンネの時は特殊な状況だった。双方の利害の一致だ。しかし、今回の場合はそうはならない』
厳しい口調で問いに答えるマモンに、フィノは意味が分からなかった。アリアンネとユルグとで何が違うのか。
それを問い質すと、マモンは一から説明してくれた。
第一に、マモンが生物に乗り移るのは彼の意思で行うこと。魔王の譲渡には依代となっている器の意思は関係ないのだ。
だから、誰が何をしてもマモンの一存でどうにでもなってしまう。
「……っ、じゃあユルグはしんでもいいの!?」
『あやつはアリアンネの恩人だ。己も出来れば解放してやりたいが……難しいだろうな』
激昂したフィノに、マモンは冷静に返答する。
仮に今のユルグから他の誰かに魔王を譲渡するのならば、結果だけを見るならば可能だ。しかしそうした場合、瘴気の毒に冒されているユルグはまず助からない。
黒死の龍が溜め込んでいた瘴気は、マモンが想像していたものよりも遙かに莫大だった。本来なら五年前、アリアンネが魔王となった時点で浄化すべきものをここまで放って置いたのだ。
つまり、今代の魔王にはそれらのツケが回ってしまうということ。
今のユルグがああして生きていられるのは、マモンが彼の身体に宿っているからだ。魔王の器である限り、生物における寿命は在って無いようなもの。
『死なせたくないというのなら、現状を維持するより方法は無い。しかし、そう悠長に構えている時間も無いのだ』
「どういうこと?」
『今のアレは死ねないが……人として生きていられる時間は多くはない。もって五年というところだ』
「……ごねん」
それを聞いて、フィノは絶句した。
しかし、それが普通の反応なのだ。ましてや自分の命の期限を宣告されて、冷静でいられるユルグがおかしい。
マモンが思うに、彼は自分の命に執着はしていないのだろう。むしろ死に場所を探しているようにも思えてしまう。今はどうかは知らないが、マモンが彼と出会った当初はそうであった。
マモンでさえこう思うのだ。彼を慕っているフィノには、分かりきったことだろう。だから、こうして彼女はユルグの身を案じている。
自分を助けてくれた恩人であり、師匠であり。好意を抱いている大切な人。
だからこそ、マモンの話を聞いてただ黙っていることなど出来ないのだ。
「……もうだいじょうぶだって、そうおもってたのに」
『本来なら秘密にしておくべき事だった。あやつも、お主に話すつもりはなかったはずだ。やはり知らない方が――』
「いいの。これでいい」
マモンの言葉を遮って、フィノは涙で腫れた目を擦った。
その眼差しは何かを決意したように力強いものだ。
「マモンは、どうしてフィノにそのはなしをしたの?」
確かにフィノはユルグの事が好きだ。大切に想っている。けれど、たったそれだけの理由でマモンがこんな大事なことをペラペラと話すとは思えない。
衝撃の事実に絶望しかけたフィノが気づいた微かな光明。
何か……自分にしかできない何かがあるから、マモンはこうしてフィノに打ち明けたのだ。
『お主はログワイドの縁者だ。であれば、ユルグよりは可能性はあると己は思ったのだ』
「……かのうせい?」
『この世界を根本から変えられる力を持った者のことを、奴は特異点または変革者と呼んでいた』
「フィノもそれになれるってこと?」
『どうだろうなあ。未知数ではあるが、無理だと断じてしまうのは早計だろう』
いきなりのマモンの話に、フィノは要領を得なかった。
唐突に『特異点』だの『変革者』だの。そんなことを言われても意味が分からないというのが本音だ。
けれど、マモンの本題はここからだった。
『だがな、その異名はログワイドが自分で吹聴していたものではないのだよ』
「……え?」
『奴はそれの二番手だと言っていた。しかし、そんな荒唐無稽な存在をどうやって奴は知り得たと思う?』
マモンの言葉は酷く懐疑的なものだった。
とはいえ、彼に問われたその答えをフィノは持ち合わせていない。
「う……わからない。だれかにきいたの?」
『ふむ……なかなかに鋭いではないか。その通りだ。ログワイドは、ある人物にそれを聞いたのだと言っていた』
……ある人物。まったく見当も付かない。
それ以前に、ログワイドはマモンが創られた二千年前の人物である。その知識を誰かしらに教授させられたとしても、その人物がこの時代まで生きているなど考えられない。
けれど、マモンはフィノのそんな憂慮をはね除けて、思ってもみないことを言い出した。
『ソレは、あの大穴の底に潜んでいるのだよ』




