戦いの後
話が一段落したところで、ようやっと自分が今置かれている状況に目を向ける。
今居るこの場所がどこかは分からないが、外に見える景色は雪一色の殺風景なものだ。
シュネー山の周辺一帯はどこもかしこもこんな景色だが、雪山から戻る際にフィノが話していたことを思い出す。
たしか、シュネー山に住んでいる薬師がいると、そう言っていた。
ミアの話も踏まえると、その薬師がエルリレオだったのだ。
なんとも上手い話だと思わざるを得ないが、彼は足を負傷していた。そのせいでユルグを追いかけることも出来なかったのだ。
であれば、一年間ここで弟子の訪れを待つという選択を取るのも頷ける。
きっと黒死の龍を斃すなんて無謀なことには、彼も反対したはずだ。むざむざ命を散らす真似はするなと。
「それにしても、まさかあやつを斃してしまうとはなあ。アルベリクも喜んでいたよ。これで麓の街にはまた人が集まるだろう」
新しく淹れた茶を啜って、エルリレオはしみじみと嘆息する。
「師匠としては馬鹿な事をしたと叱るところだが……本当に無事で良かった」
「かろうじてだけどね」
マモンも言った通り、あんな強烈な爆発に巻き込まれてこの状態で済んでいること自体、奇跡なのだ。
右腕は動かないが、四肢は欠けていないし歩くことだって出来る。流石に怪我が治りきるまでは満足に動けはしないが、十分すぎる程に幸運な結果だ。
「ユルグよ……お主の怪我のことだが、あまり無茶はしないことだ。儂が何を言わんとしているか、わかるな?」
「わかってるよ」
神妙な面持ちで釘を刺したエルリレオの言葉に頷いて、右腕に視線を落とす。
包帯で覆われている内側……そこは瘴気の毒素でまっくろに変色している。
マモンが吸収する瘴気の毒は、普段大気中に微量に漂っているものとは比べものにならない程に高濃度な代物だ。なんせあの黒死の龍の体躯をズブズブに腐食させるほど。それほどまでに強力な毒ならば生身の人間には耐えることなど出来ない。
幾らマモンを介しているとはいえ、その影響は魔王の器となった人物の肉体に多大な影響を及ぼす。
一時的に痛覚の遮断および身体機能の強化は出来るが、それでもデメリットの方が圧倒的に大きい。
黒死の龍相手には無茶をしたが、むやみやたらにあの力を行使すればさらに取り返しの付かない事になるのは目に見えている。
そのことは事情を深く知らないエルリレオも察しているのだろう。だからこうして警告したのだ。
「こいつは動くようになるかな」
「ふむ……神経が深く傷ついているから指先の細かな動きは難しいだろうが……療養して訓練すれば腕を動かすくらいは出来るようになるだろうよ」
「……そうか」
「とはいえ、右腕以外の怪我も酷いものだ。しばらくは安静にせんとな」
言って、エルリレオは口元に笑みを刻んだ。不安を与えまいと努めて明るく振る舞っているのだろう。
そんなところも昔と変わっていない。彼と旅をしていたときもこうした気遣いに助けられたものだ。
それに安堵して窓の外へと視線を向けた直後――小屋の扉が荒々しく開かれた。
――バンッ、と音を立てて侵入してきた人物はフィノだった。
今まで外にいたであろう彼女は、頭と肩に雪を積もらせたままズカズカと室内に入り込んでくる。積もった雪を払うことなく一直線に向かってきたのは、今しがた絶対安静であると念押しされたユルグの元だった。
「ゆ……ユルグぅ」
ベッドの上で起き上がっていたユルグに抱きつくと、フィノは胸元に顔を埋めて泣きじゃくった。
いきなりのことに困惑しながら、のし掛かってくる重みに自然としかめっ面になる。
「おま……っ、冷たいんだが」
「そんなこといわないでえぇ」
「せめて雪を払ってから……おい、なんなんだ」
動かせる左手で押し返そうとするがそれを拒絶するかのように、フィノは縋り付いてくる。
体力が弱っているユルグには彼女を引き剥がすのは難しい。諦めて大人しく胸を貸しながら、ユルグは一つ息を吐いた。
「すぐには死なないから安心しろ」
「……っ、そうじゃないの」
「……はあ?」
師匠の言葉をフィノはにべもなく否定した。
あまりにも普段の彼女とは違いすぎる態度に、こちらのペースが崩される。
てっきり大怪我を負ったユルグを心配してこうして泣いているのかと思ったが、そうじゃないとフィノは言うのだ。
「じゃあ、なんで泣いてるんだ?」
「だって、ユーリンデが」
フィノの断片的な言葉だけでは何が何やら、状況が掴めない。
困惑しているユルグに、フィノの後に小屋の中へと戻ってきたミアが説明してくれた。
「アリアとティナが国に帰るから荷馬車を持って行ったのよ。ユルグの怪我が治るまではどこにも行けないし、雪道じゃ使い勝手も悪いじゃない。使い道もないから譲ったんだけど……フィノはユーリンデのこと、可愛がってたからね。お別れが辛いのよ」
「なんだ、そんなことか」
「むっ、そんなことじゃないもん!」
ユルグの一言に、フィノは癇癪を起こしてポカポカと叩いてくる。
怪我人であることを考慮して威力は抑えてくれているが、怒りは納まらないらしい。
「そんなに別れが悲しいなら着いていったら良かったんだ。お前の実力ならどこでだって生きていけるし、困る事なんて無いだろ」
「そーいうことじゃないの!」
「……どういうことなんだよ」
もはや彼女が何に怒っているのか。ユルグには判然としなかった。
相手をするのも疲れるし、なおも離れていかないフィノを放ってミアへと尋ねる。
「二人だけで戻るって、大丈夫なのか?」
「街で冒険者に警護を依頼するって言ってたから大丈夫だとは思うけど……心配だなあ」
友人二人の旅の無事を祈って、ミアは憂慮を浮かべる。
「ユルグは大怪我して戻ってくるし、アリアは目覚めないし。色々ゴタゴタしちゃってちゃんとお別れ出来なかったから、怪我が治ったら会いに行こうよ」
「……それは」
ミアの提案にユルグは口籠もった。
おそらく、今のアリアンネの状態を彼女は知らないのだ。戻ってきてから目覚めていないのなら、その可能性は十分にある。
アリアンネに会いに行っても、彼女はミアの事もユルグの事も。この五年間の出来事は何も覚えていない。
姿は同じだが中身は別人になっているはず。そんな友人に会わせるのは、ユルグとしても心苦しい。
どう答えようか悩んでいると、そんなユルグを置き去りにしてミアは続ける。
「そうだ。ティナからユルグに伝言預かってたんだ。ありがとうって伝えてくれって」
「……そうか」
アリアンネを魔王の縛りから解放する。それは当事者であるマモンの願いでもあるし、ティナの望むところでもあった。この結末に彼女は何の不満もないのだろう。
これから先、色々と大変だろうが主人の御身を第一に想っているティナならば、全身全霊をかけてアリアンネを支えていけるはずだ。
「さて、ユルグも目覚めた事だし儂はそろそろ仕事に取りかかろうかの。アルベリクに薬を街まで卸してくれと頼まれておるのでな」
「私も何か手伝うよ」
「それでは、お嬢さんらには夕餉の支度でもお願いしようか」
「そっか、もうそんな時間かあ」
ミアは既に陽が落ちつつある窓の外を眺めて、分かったと頷いた。
腕を捲り、いつまでもユルグに引っ付いているフィノを引き剥がす。
「ユルグ怪我してるんだから、そういうのは治ってからやりなさい」
「ううっ、でも……」
「話なら私が聞いてあげるから。ほら、しゃんとして」
被っている雪を払ってやって立たせると引っ張って行く。
……なんだかフィノの扱いが上手すぎる気がするんだが。フィノもフィノで、ミアの言うことには素直に従うらしい。
師匠としてはなんとも疑問が残る展開である。
「ユルグは夕飯まで大人しく寝ててね」
「そうさせてもらうよ」
各々が作業のために散っていったのを確認して、ユルグは起こしていた上体をベッドに沈めた。
窓の外に見えるしんしんと降り積もる雪景色を穏やかな心持ちで眺めて、静かに目を閉じるのだった。




