馬鹿げた決断
暴風を引き連れて三人の目の前に現れたのは、巨大な漆黒のドラゴンだった。
しかしその風貌は、ただのドラゴンと言うにはあまりにも禍々しいものだ。
長いこと瘴気に冒されていたためか、半開きになった口からはダラダラと黒色の体液を垂らしている。
普通の生物ならば致死量に近い毒素を溜め込んでも、いまだ生きているのはこの生物が魔物であるが故。
あの漆黒の体表も、おそらく瘴気に冒されたせいで変色してしまったのだろう。
何もかも一年前と変わらない姿に、ユルグは恐怖よりも先に微かな歓喜を感じて口元を緩めた。
その背後では慌てふためくアリアンネの金切り声が聞こえてくる。
「マモン!? そういうことはもっと早くに言ってください!」
『いやあ、どうせ相対するのなら然程関係ないと思っていたものでな』
「そっ、そんなことを言っている場合ではないでしょう!」
ひょいっとアリアンネを担ぎ上げながらマモンは飄々とした態度で軽口を言う。
それを聞いてますます憤慨するアリアンネだったが、そんな彼女には目もくれずユルグは黒死の龍の面前から身動きすらしない。
逃げの一手の二人に対してそんな素振りは見せず、あろうことかその手が剣の柄に伸びているのを見て、アリアンネは叫び声に近い絶叫をあげた。
「ゆっ、……勇者様!?」
「わざわざ山頂まで登らずに済んだんだ。有り難いことだろ」
今まさに剣を抜いて斬りかかろうとしているユルグに、アリアンネは担がれたまま目を見開いた。
「一度引くと言っていたではありませんか!」
「お前はこの状況でアイツがそう易々と逃がしてくれると思っているのか?」
「逃げるのと立ち向かうのとでは話が違います!」
声を張り上げるアリアンネに見向きもしないで、ユルグは黒死の龍を睨み付ける。
何を言っても彼はあの強大な敵へと立ち向かっていくつもりだ。たったいま、敵わないと結論づけたばかりなのに、どういう心積もりなのか。
アリアンネにはユルグの考えが全く読めなかった。
「マモンも見ていないで説得してください!」
『しかしなあ、あの状態で説得に応じると思うか?』
「やる前から諦めてどうするのですか!」
がっしりとマモンに担がれたまま彼の身体を叩く。しかしそうしたところでマモンにとっては痛くも痒くもない。猫がじゃれてくる程度にしかならないのだ。
いまいち緊張感に欠けるやり取りをしている二人の面前、こちらを頭上から眺めていた黒死の龍は、深く息を吸い込んだ。
胸部が倍近くに膨らんだのを見留めて、ユルグは咄嗟に引き抜いた剣を地面へと突き刺した。
そうして、それを境界として防護の障壁を張る。
――〈プロテクション〉
次の瞬間、まっくろな口から吐き出された炎が透明な壁によって遮られた。
初手で焼け死ななかったのは、ひとえに昔の教訓が活きたからだ。ユルグにとっては黒死の龍と相対するのはこれで二度目。
注意深く観察して相手の出方を見極めれば、どれだけ敵が手強かろうが遅れを取る事はない。
とはいえ、相手にこちらの攻撃が通らなければ防戦一方になるだけだ。何かしらの突破口を見出す必要がある。
吐き出された灼熱をやり過ごしている所へ、ユルグの背後へと避難していたマモンが戦闘の邪魔にならないように手短に尋ねてきた。
『何か勝算はあるのか?』
「アイツの左頭部が見えるか」
『……ふむ』
ユルグの指摘に、マモンは黒死の龍をまじまじと観察する。
彼の言う通り、あの魔物の頭部――正確には左方、左目に深々と刺さっている何かが見える。
『あれは、剣のようにも見えるが』
「えっ、な……なんですか!?」
背中側を向くように担がれているアリアンネには、黒死の龍の姿は見えない。
もぞもぞと暴れている彼女を押さえつけて、マモンはさらに注意深く観察した。
傍目から見ればあれは剣であるが、はたしてあれはいつ刺さったものなのか。それが一番の疑問点である。
「あれは、一年前にはなかったものだ」
『……ということは、その後に受けた傷ということか』
「どうだろうな」
マモンの発言に、ユルグは曖昧な答えを返す。
断言しないということは、まだ疑問が残っているということだ。おそらく、ユルグだけが気付ける何かがあったのだろう。
「確かめたい事がある。上手く行けばアイツを斃せるかもしれない。でもその為には近付く必要がある」
「……っ、危険すぎます!」
「そうだ。だから、援護してほしい」
ユルグの頼みに、アリアンネは一瞬言葉に詰まった。
明らかに分が悪い賭けだ。それに進んで挑むなど正気の沙汰とは言えない。けれど、説得する時間もそれに応じる可能性も低い。だったら何を取れば良いか。
逡巡している間にも、刻一刻と時間は過ぎていく。
答えを出せないまま黙ったままのアリアンネを一瞥したユルグは、炎の吐息を防ぎきったのを見計らって剣を握りなおすと、答えを聞かないまま黒死の龍へと向かっていった。
「マモン、降ろしてください」
『……逃げないのか?』
「わたくしだけが逃げ帰る訳にはいかないでしょう。こうなったら最後までとことん付き合ってあげます!」
その後ろ姿を見つめて、アリアンネは無謀とも言える馬鹿げた決断をするのだった。




