過ぎ来し方
シュネー山の薬師に会いに行こうと山に入った途端、微かに天気が荒れてきた。
身体に吹き付ける風に抗いながら、荷馬車の先頭。周囲に気を配りながらフィノは足を止めることなく進んでいく。
「少し雲行きが怪しいですね。吹雪かないと良いのですが……」
空を見上げてティナが心配そうに呟く。
彼女の心配事は、無事に薬師のところまで辿り着けるか。それと、この山の頂を目指して入山していった二人を想ってのことだろう。
「だいじょうぶだよ」
そんな彼女にフィノは努めて明るく振る舞った。
もちろんティナと同様に心配ではあるが、ユルグにミアの事を頼むと言われた。それだけは何としてでも成し遂げなければ!
ユルグの頼みは言外に着いてくるなと言っているようなものだ。けれどそれを理解してもなお、へこたれず気丈に振る舞っているフィノを見て、ティナは口元に笑みをこぼした。
「そうですね」
穏やかな声音で答えたティナの背後――前方の荷馬車の垂布からアルベリクがひょっこりと顔を出した。
「雪で埋もれちゃって山道は隠れてるけど、ここをまっすぐ行くと小屋に着くよ」
指を差した方向を辿って視線を移すと、上空に灰色の煙が上がっているのが見える。あの真下に薬師の小屋があるのだろう。
ぴょんと荷馬車から降りたアルベリクは、我先にと足早に進んでいく。
それを追う形で辿り着いた山小屋は、なんとも殺風景な場所だった。
こんな過酷な環境の山中にぽつんと建っているのも然り。それに加えて、小屋の裏手には誰かの墓らしき墓標も建っている。
ユーリンデと荷馬車を適当な場所に寄せたついでに、周囲を散策していたところ特に目立っていたのがそれだった。
おそらく、この小屋に住んでいる薬師の大事な人でも眠っているのだろう。
どこの誰かも知らないけれど、名前も彫られていない簡素な墓標に積もっている雪を払ってあげてから、フィノも先に中へと入っていった三人に続いて室内へと足を踏み入れた。
===
「……だから何度も言っているだろう。儂はここから動くつもりはない」
身体に纏わり付いた雪を払って、温かな室内へと入ると何やら重苦しい雰囲気が漂っていた。
驚いて入り口で固まっているフィノを置き去りにして言い争いをしているのは、アルベリクとこの小屋の主であるエルフの薬師の老人だった。
「こんなところに住んでたら危ないから言ってるんだよ! 俺も母ちゃんも心配してるんだ!」
「それは知っているよ。しかし、儂にも譲れないものがある。こればかりは諦めてくれ」
どちらも一歩も引かない状態に、部屋の中央にあるテーブルに腰を落ち着けていたミアとティナはふたりして顔を見合わせている。
「……どうしたの?」
彼女たちの後ろからそっと声を掛けると、ティナが状況を説明してくれた。
「あの御老体がこの小屋に住まう薬師殿なのですが、アルベリクがこの小屋から離れて街に行こうと説得して……結果はご覧の通りです」
アルベリクの母親――ティルロットも言っていたが、この老人はとんでもなく偏屈らしい。というよりは、頑固者と呼んだ方がしっくりくるように思えるけれど、何はともあれ一癖も二癖もある人物というのはひしひしと伝わってくる。
「今はあちらにかかりっきりで、早く薬を用意して欲しいのですが……もう少し待つ必要があるみたいですね」
コソコソと耳打ちをしながら話し込んでいると、急に言い争いが収まった。
三人の面前で口論していた二人は、落とし所を見つけたようには見えない。双方とも険しい表情をしながらそっぽを向いている。
どうやら交渉は決裂したらしい。
「この……っ、分からず屋の頑固じじい!」
見事な捨て台詞を吐いて、アルベリクは傍観していたティナの元へと走り寄ってきた。
その眼は薄らと潤んでいて、悔しいのか悲しいのか。今にも泣き出してしまいそうである。
そんな少年の頭を撫でながら慰めていると、そこでやっと老人の眼差しがこちらに向く。
「お見苦しいところを見せてしまった。して、お主らは何用でこんな場所まで来たのかね?」
「彼女が風邪を引いてしまって、何日も熱が下がらないのです」
「ふむ……どれ」
椅子に腰掛けていた老人は杖をついて立ち上がった。
よく見ると彼の片足は膝から下がなくなっている。杖をつきながらひょこひょこと歩く姿は何とも不便そうだ。
そんな彼の様子を間近で見て、フィノはふと疑問に思った。
どうしてこの人はこんな雪山で、一人で暮らしているのだろう?
五体満足だったとしても、こんな雪深い山奥に一人暮らしとなると難儀するはずだ。
薪集めも、薬師を生業にするにあたっての薬草集めも。どれをとってもあの老体には堪える作業に思える。
それを心配してアルベリクも街で暮らそうと提案しているのだ。
しかし、何を言われても首を縦には振らない。その理由がフィノにはさっぱり分からなかった。
「この様子なら心配はせずとも、二日も温かな寝床でじっくり身体を休めれば熱も納まるだろう。どれ、いま薬湯を用意してやるのでな」
「ありがとう」
ミアの謝意に、老人はにっこりと柔和な笑みを浮かべた。
暖炉の火で湯を沸かして、そこに煎じた薬草を入れる。そうして出来た薬湯を老人はミアの前に差し出した。
「熱いのでな。気をつけて飲むと良い」
「いただきます」
冷ましながら口に含んだミアだったが、途端に眼を白黒させて黙り込んでしまった。
その様子を見た老人は、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべる。
「にっ、にがいぃぃ」
「良薬口に苦しと言うだろう。儂が手ずからこさえた薬だ。効き目は抜群なのでな、残さず飲むことだ」
「これ、ぜんぶ……」
絶望した面持ちで、ミアはマグの中身を見て溜息を吐いた。
それでも泣き言を言わずに薬湯と格闘している彼女を尻目に、フィノはティナへと耳打ちをする。
「これからどうするの?」
「……そうですね。ミアの体調が戻るまではここに滞在させてもらった方が良いでしょう。しかしそうなるとどうやって誤魔化すか、ですね」
ティナはそう言って難しい顔をして考え込んだ。
彼女の懸念事項は、シュネー山の奥へと入っていった二人のことだ。
ユルグとアリアンネは、別れた後のフィノたちの行方を知らない。無事に目的を終えて戻ってきてもすれ違いになる可能性がある。
それと、ミアには人捜しのため別行動を取っていると嘘を吐いている。一日二日、戻ってこないとなると、流石に怪しまれてしまうはずだ。
「んぅ……どうしよう」
ティナもすぐには答えを出せないのだ。フィノも知恵を絞ってみるが全く妙案が浮かばない。
二人揃って顰めっ面をしていると、老人は人数分のマグを取り出した。
「どれ、お客人に茶でも淹れてやらねばな。アルベリクも飲むだろう?」
「……うん」
目尻に浮かんだ涙を拭って、アルベリクは椅子に腰掛ける。
子供らしい拗ねた表情に、老人は笑みを深めて温かな茶を淹れてくれた。
差し出されたお茶を、フィノも十分に冷まして飲んでみる。すると、一口含んだだけであまりのおいしさに目を見開いてティナと顔を見合わせた。
野営時に飲んでいた茶もかなり美味かったが、これはそれを越えるうまさだ!
上手く言い表せないけれど、様々な茶葉を配合して考え抜かれたブレンドなのだろう。普通に店に売りに出せばたちまち人気商品になること間違いなし!
「じいちゃんの淹れるお茶はすっごい美味しいんだよ! 薬じゃなくてこれ目当てで街から来る人も居たくらいなんだ!」
まるで自分の事のように自慢げに話すアルベリクは、先ほど口論していた事など忘れてしまったかのように笑顔を振りまいている。
「確かに、これは美味ですね」
「すっごいおいしい!」
「わ、私も飲みたい」
「お嬢さんは薬湯を全て飲み終えてからだ」
「そんなあ」
ぐったりとテーブルに突っ伏したミアの手中にあるマグの中身は少しも減っていない。
こんな調子ではどれだけ時間が掛かることやら。
「皆、貴女の事を心配しているのですから、あまり駄々を捏ねないでください」
「それは分かってるけど……これ、ものっすごい不味いんだよ!?」
「子供みたいなことを言ってないで、一息に飲み干してしまえば良いのですよ」
「……他人事だと思ってさあ」
ぷりぷりと怒っているミアは荷馬車で揺られていた時よりも体調は良さそうに見える。何よりもこうして怒る元気があるのだ。
これなら、薬師の老人が言っていたように二日も休めば完全に治るはずだ。
腹を立てながらも、ミアは意を決して薬湯を飲み干した。口直しに急いで茶を啜る。
すると、驚きに目を見開いた。先ほどのフィノとまったく同じ反応だ。
「すっ……すごいおいしい」
「そんなに褒めても何も出せんよ」
褒めちぎる一同に、やはり悪い気はしないのだろう。
老人は嬉しそうに笑みを作って自分の茶をマグに注いでいく。
「ユルグとアリアもここに居ればなあ」
ぽつりと呟いたミアの言葉に、フィノはどきりとした。きっとティナも同じような心境だろう。
なるだけ目を合わせないようにマグの中身を凝視していると、直後――視界の外で大きな物音が響いた。
驚いて物音の鳴った方向を見遣ると、そこには凍り付いた表情で呆然とする老人の姿があった。
そこには先ほど見せた笑みはどこにもない。
倒れたマグを片付けるもしないで震える手で対面しているミアの腕を掴んだ。
「いま言ったのは真実か?」
「……え?」
「ここに、勇者が来ているのか!?」
怒るように声を荒げて問い質す彼に、ミアは無言で頷いた。
突然のことに、それを傍で見ていた二人にも何が起こったのか理解出来ない。
しかし、不可思議な老人の態度にフィノはあることが気になった。
どうして彼はユルグのことを『勇者』だと知っているのだろう?
勇者という存在は誰でも知っているが、それが誰かなど一部の者しか知り得ないはずだ。けれど、彼は断言した。まるで昔の顔見知りのような――
「……そうか。戻ってきてしまったか」
ミアの腕から手を放すと、彼は消え入りそうなほどか細い声で呟いた。
その様子に驚いているのは、初対面の三人だけではない。顔なじみであるアルベリクも同じだった。
「じ、じいちゃん。どうしたんだよ」
普段と違いすぎる態度に、及び腰でアルベリクは尋ねる。しかし、それどころではないのか。じっと考え込む素振りを見せて無言を貫く老体に、切り込んでいったのはミアだった。
「おじいさんは、ユルグの事を知っているんですか?」
「そうともなあ……知っているよ。よく知っている」
彼の返答に、ミアは記憶を掘り起こす。
ユルグのことをよく知っている人物。
――エルフの老者。
この条件に当て嵌まる人の話をミアはユルグから聞いた事があった。
「もしかして――エルリレオ?」
半信半疑で尋ねたミアの問答に、薬師の老人――エルリレオは静かに頷くのだった。




