空ぶる指先
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遙か上空からこちらを見下ろすドラゴンの存在に、この場にいる全員が息を止めた。一瞬にして辺りを緊張と静寂が支配する。
そんな中、頭上に現れた黒死の龍を睨めつけながら、ユルグは胸中で悪態を吐く。今の状況は考え得る中でも最悪のものだ。
――もしここであのドラゴンに襲われでもしたら。
最悪の事態が瞬時に脳裏を過ぎって、肝を冷やした直後。
眼下に佇む矮小な生き物を一瞥したかと思えば、突如上空から飛来したドラゴンはシュネー山の頂へと飛び去っていった。
「……っ、死ぬかと思ったよぉ」
アルベリクは、腰が抜けたのか。どっさりと雪の上に尻餅をついた。
そんな彼には目もくれず、ユルグは黒死の龍が去って行った山頂を見つめる。
「襲われなくて良かったですね。それにしても今のような事は良くあるのですか?」
「う、うん。度々山の麓に降りてくることも珍しくないんだ。だから皆この街に見切りを付けて出て行っちゃったんだけどね」
アリアンネに手を引かれて立ち上がったアルベリクは、ズボンに付いた雪を払い落として答えた。
「私も今のは生きた心地がしませんでした」
「んぅ、たべられなくてよかったね」
ほっと息を吐いたティナの安堵の声と、フィノの気の抜けた声音が前方から聞こえてくる。
「いつまたアイツが戻ってくるか分からないから、早くここから離れた方が良いね。俺の家はすぐそこだから着いてきてよ」
そう言って、アルベリクは荷馬車の前を歩いて先導する。
その声に従って足を進めようとしたところ、ふと感じた違和感にフィノは足を止めて後ろを振り返った。
「……どうしたの?」
じっと山の頂を見つめているユルグに声を掛けると、そこでやっと彼は視線をフィノへと向けた。
微かな異変に気づいて、注意深くユルグの言動を探っていると彼は先に進んでいく荷馬車を見遣る。
「お前に頼みたいことがある」
再びフィノへと目を向けたユルグは、そう切り出した。
ユルグがフィノにこうして頼み事をするのは滅多にない。珍しい発言に疑問に思いながらも、口を挟むことなく耳を傾ける。
「ミアのことを守ってやってくれ」
「……え?」
それだけを言うとユルグは再び、面前に聳える雪山を見据えた。
その目が何を示しているのか。フィノにはすぐに分かった。ここで引き止めてもそれを振り切って行ってしまうことも。
「まっ、まって!」
それでも手を掴もうと伸ばした指先は、届くことはない。
足を取られかねない雪をものともせず、ユルグは後ろを振り返ることもしないで駆けていった。
その背中を追おうと足を浮かせたフィノだったが、しかしすぐにそれを思い留まった。
敬愛するお師匠に大事な頼み事をされたからというのもある。けれど、それ以上にフィノの足を留めたのはあの眼だった。
既にユルグはフィノの事など見てもいない。彼の頭の中にあるのは、もっと別のことだ。
きっと大事なもの、何もかもを切り捨てないとそれには辿り着けないのだろう。優しい彼がそう決断したことに、フィノが水を差せるわけなどなかった。
ユルグの去って行った方向をしばらく見つめて、フィノは先に進んでいた荷馬車へと戻っていく。
不安もあるし、心配もしている。けれど、あの約束をした限り必ずユルグは戻ってくる。そう信じることしか今のフィノにはできないのだ。
===
アルベリクの案内で彼の家へと向かっている最中。
アリアンネは先ほど遭遇したドラゴン――その異変を悟られないようにいつもの調子を装って、荷馬車の中へと潜り込んだ。
「ミア、具合はどうですか?」
「うん……今は暑いくらいかな」
荷馬車の中で横になっているミアは何枚も毛布を掛けられた状態で、アリアンネの問いに微かに笑って答えた。
彼女の身体と毛布の隙間に挟まっているマモンを抱きしめながら、熱で火照った吐息を吐き出すと、胡乱な眼差しを垂布の隙間から覗いている外の景色へと向ける。
「今に休める場所へ着くので、もう少し辛抱してくださいね」
「……ごめんね」
「気にしないでください」
『病人は大人しく寝ておれば良いのだよ』
「……うん」
ひやりとしたマモンの身体をぎゅっと腕に抱いて、ミアは力なくそれに頷く。
明らかに元気のない彼女の様子に、マモンはなるだけ刺激しないように慎重に言葉を選んだ。
『――アリアンネ』
「はい?」
本題を口に出すことなく、マモンはミアの腕の中から抜け出すとアリアンネの影の中へと潜っていった。
対面を気にしてマモンはこうして犬の姿を取っているが、魔王の器であるアリアンネと話すには本来こうして姿を現わさなくても可能である。
しかしそれはマモンが一方的に彼女へと語りかける場合のみだ。マモンへの返答はアリアンネの口から言ってくれなければ魔王であっても知ることは出来ない。
だから開口一番、彼はアリアンネへとこんなふうに語りかけた。
『耳を傾けるだけで良い。返答もいらない。ミアには絶対に気取られないようにしてくれ』
前置きをしてマモンは続ける。
『たったいま、勇者がこの場から離れていったようだ。向かった方角を考えるなら、おそらくシュネー山だ。追いかける必要がある』
マモンからの情報を得たアリアンネはそれに顔色を変えることなく、にっこりと笑顔を作った。
「ティナと話をしてくるので、ミアは寝ていてくださいね」
「……うん」
彼女の言葉にミアは頷くと静かに目を閉じた。
それに安堵して荷馬車を出ると、数メートル後方からフィノがとぼとぼと歩いてくるのが見えた。
どうやらマモンの情報は正しいようだ。フィノのあの表情を見れば何があったかは想像に難くない。
確信が持てたところで、アリアンネは御者を務めているティナの元へと向かった。
「ティナ、少し良いですか」
「お嬢様、どうなされましたか?」
「わたくしはこれから勇者様を追いかけます」
「……え? それはどういう」
「マモンが着いているのでわたくしの心配は無用です。くれぐれもミアのことを頼みましたよ」
足を止めずに手短に小声で語りかけると、そのまま返答を聞かずにアリアンネはユルグの後を追った。
懸命に雪の中を進むが、今まで荷馬車に揺られてきた身である。雪に足を取られて思うように進めない。悪戦苦闘していると、そんなアリアンネを見かねてマモンが影から飛び出してきた。
そんな彼の姿はいつもの黒犬ではなく、鎧姿のヒト型であった。
『そのような蝸牛のような歩みでは日が暮れてしまう。己が背負っていくからしっかり掴まっていろ』
「うっ、ひゃあああ!」
か細い悲鳴を上げてマモンに背負われたアリアンネは、黒死の龍が住まうシュネー山へと足を踏み入れるのだった。




