不穏な気配
「……つかれた」
廊下に出たユルグは肩を落として首を振った。
温泉など最初は興味も無かったが、せっかくこうして滞在することになったのだ。であれば皆に倣って羽を伸ばすのも一興だと考えを改めたのだが、あの調子では余計に疲労がたまりそうだ。
ほとぼりが冷めるまで、街の中を散策しよう。
そう思い立って足を浮かせた直後、隣の部屋の扉前に黒い影が見えた。
「そんなところで何をしているんだ?」
まるで番犬のように、どっかりと腰を下ろして丸まっている黒犬のマモンに声を掛ける。
すると、くああ、とでかい欠伸を零して、彼はユルグを見上げた。
『二人で湯浴みをするので、それの邪魔になるから出て行けと言われてしまったよ』
「そ、そうか」
きっとマモンを追い出したのはティナの仕業だろう。
アリアンネならば気にはしないだろうが、主人の貞操は何としても守りたいといったところか。
「お前も色々と苦労しているんだな」
『お主ほどではない』
ユルグの疲れ切った表情を見て察したのだろう。マモンはにやりと笑みを浮かべた。
『それで、お主はこれからどこに行こうというのだ?』
「少し街を散策しようと思う。調べておきたいことがあるんだ」
ラガレットには一年ぶりの来訪となる。あの時よりも状況は変わっているはずだ。
これから黒死の龍を討つというのに、それの情報が全くないのではお話にならない。
『ふむ、では己も同行しよう。ここにいても暇を弄ぶだけだ』
「好きにしたら良い」
マモンを後ろに連れ立って、ユルグが向かった先は地元住民に愛されるパブ。
宿の店主に尋ねたら、ここならば色々な情報が入ってくる、とのことだった。
カウンターの椅子に腰を下ろして、適当に飲み物を頼んだ。
一緒に着いてきていたマモンは、ユルグの膝上に乗っかって身体を丸めて大人しくしている。
こういう酒を出す店に入ることは何も初めてのことではない。仲間たちと旅をしていた時は、たまにグランツに付き添って訪れた事もある。
あれは付き添いというよりも、強制的に付き合わされていただけかもしれないが。
出された酒精を嚥下すると、かなりのキツさに無意識に顔を顰めてしまう。
こんなものをグランツは浴びるように飲んでいたのかと思うと、正気の沙汰とは思えない。
喉を焼きながらチビチビと口を付けていると、微かな話し声が耳に入ってきた。
「シュネーの麓のメイユもやばいって話だ」
「あそこはもうダメかもしれんな。あのバケモンが出るって言って誰も近寄らなくなっちまった」
「あいつさえいなくなっちまえば人は戻るだろうが……難しいだろうなあ」
憂いを帯びたその話し声は、酒の席にはふさわしくないもののように思う。
しかし、今話題に出たメイユという街は、ユルグが目指しているシュネー山脈の麓にある。このティブロンから向かっても二日と掛からない距離だ。
次はここが襲われるかもしれないと不安になるのは当然のことだろう。
ユルグが予想していたものより、状況は芳しくはないようだ。
不幸中の幸い。黒死の龍はまだ斃されてはいないみたいだ。生きて、あの山を根城にしている。
それがわかっただけでも、こうして好きでもない酒をあおった甲斐があったというもの。
「んでも、公王サマもようやっと重い腰を上げて討伐隊を寄越してくれるらしいじゃないか。上手く行けばこれ以上怯える心配もねえよ」
「……そうなってくれりゃあ良いがなあ」
客の会話は、ラガレット公国の公都サノワから黒死の龍を討伐する為に討伐隊が編成されたというものだった。
おそらく冒険者ギルドにも国からの依頼は上がっていたのだろうが、ドラゴンスレイヤーとして名を挙げる英雄は現れなかったらしい。それに痺れを切らして、正式に国の軍隊を投入して事態の沈静化を図ろうとした。そんなところだろう。
しかし、隣国のアルディア帝国が睨みを利かせている中、国の兵力を削っての魔物退治はリスクの方が大きい。公王も断腸の思いで決断をしたはずだ。
今は魔王の存在によって、暗黙の領域で冷戦状態が続いている。しかしそれが崩れれば必ずアルディア帝国はラガレットを落としに掛かるだろう。
そう考えると、別の意味で勇者というものは世界の平和に貢献しているとも言える。
それが何の犠牲もなく終えられたのなら良かったのだが、物事はそう簡単には進まないのだ。
「……討伐隊ねえ」
規模がどれほどの物かは知れないが、それであの黒死の龍が斃されるとは思えない。
何よりも、あれは普通の魔物とは違うのだ。
物理攻撃も魔法も、あれの体躯を傷つけるには至らなかった。加えて広範囲に及ぶ、灼熱のブレス。一際、目を見張るような巨躯である。
対峙して、その攻撃を防ぐだけでも至難の業だ。
この国の民には悪いが、討伐遠征は失敗に終わるだろう。
そうなってくれなければ、ユルグがここまで足を運んだ意味がなくなってしまう。
あいつは、この手で殺すと決めた。その為なら何を犠牲にしたって構わないのだ。




