安息のひととき
一部、加筆修正しました。
薄暗い山道を抜けた頃には、ユルグは既に疲労困憊の体であった。
真上にあった太陽は既に沈みかけている。
ふと前を見ると、山道の出口には荷馬車が停まっていた。
『先の話は他言無用だぞ』
「わかっている」
傍らのマモンの耳打ちに頷いて荷馬車へと近付くと、荷台から降りてきたミアは目を円くした。
それもそうだ。今のユルグの姿を見れば誰だってそんな反応をする。
「……どうしたのよ、それ」
「これは、その」
頭からつま先までびっしょりと血に塗れたユルグに、彼女は近付こうと浮かせた足を止めて後退った。
気持ちは分からなくもない。けれど、そんなにビビることはないじゃないか。
「うわあ……」
「これは凄いですね~」
ほんの少し心にダメージを負ったところに、フィノとアリアンネの声が重なる。
どちらも心配ではなく余計な好奇心から出たものである。
しかし、そんな口元を引きつらせる前に言い訳くらいは聞いて欲しい。
「俺は何も悪くない。こいつのせいだ」
横に突っ立っているマモンを指差して断言する。
けれど、ヒト型から黒犬もどきに戻ったマモンは涼しい顔でのたまった。
『己は何もしていないぞ』
「だろうな。お前は何もしなかった」
恨みがましく文句を言って、ユルグは先ほどの出来事を想起する。
渓谷の狭間へと落ちて、シャノワールを撃退してからここまで辿り着くのに一時間ほど掛かった。
その間、何事もなかったのかと言われるとそんなことはなく。あれから何十体という魔物を、襲ってくるモノ片っ端から斬り伏せてきたのだ。
しかしなぜか襲われるのはユルグのみ。彼の隣を歩いているマモンには一切魔物は寄り付かなかった。おまけに荷物を背負っているからだのなんだのと、手助けもなしだ。
元々そんなお願いをするつもりもなかったが、あそこまではっきり言われては逆に清々しい。
……と、愚痴を言うのは格好が悪い。借りを作らなかっただけマシである。
「……近くに水辺がありますので、まずはそこに向かいましょうか」
ユーリンデの手綱を握ったまま告げたティナの提案に、ユルグは仏頂面をしながら頷くのだった。
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この日の野営の不寝番は、少し奇妙な事が起こった。
「んぅ、ねちゃったね」
フィノの視界の先には、敬愛しているお師匠の寝顔があった。
彼は普段ならこの時間はまだ起きている。下手したら明け方近くまで寝ないことも稀である。
先刻まで読んでいた魔法書を閉じて、まじまじとその顔を見つめながら思うことは、やっぱり少し顔色が悪いかな、といった事である。
何にそんなに苦心しているのかフィノには分からないが、どうやら最近は殆ど寝られていないようだし、弟子としては心配なところであった。
「今日は色々あったし、疲れたんだよ」
火かき棒で篝火をかき混ぜて、ポットの湯を沸かしていたミアの小声が届く。
言外にそっとしておいてやれと言っているのだろう。
ちょっかいを出すことなく大人しく身を引いたフィノは、静かに眠っているユルグの隣に腰を下ろして再び魔法書を開いた。
今日の不寝番はフィノとミアの二人である。
これは帝都を出発するまえに組み分けされており、明日はアリアンネとティナ、その次はユルグ……といったように順繰りに回ってくる。
たまにユルグが二日続けて不寝番することもあり、本人も疲れていないから大丈夫だと言うものだから甘えてしまう時もあるが、あんなのは嘘っぱちだとフィノは見抜いていた。
けれど、そこには深く詮索せずに黙ってやるのが親切心というものである。
きっとユルグも独りになりたいときがあるのだ。
――などと考えていると、丁度お湯が沸いたみたいだ。
ミアが街で買った高い茶葉で入れたお茶を、フィノへと寄越した。
マグを両手で持って、十分に冷ましてから口を付ける。
「……ん!」
「どう? 美味しいでしょ」
一口飲んでぱっと顔を上げたフィノを見て、ミアは微笑んだ。
それに言葉なく頷いて、再度口に含む。すうっと口の中に広がる清涼感と、その後に遅れてくる微かな甘み。
こんな美味しいものがあるなんて、思いもしなかった。
きっと、ユルグと二人きりで旅をしていては、味わえない一品だっただろう。彼はこういった嗜好品は嗜まないし、フィノが欲しいと言ってもそんなものはいらないと突っぱねられること確実である。
ほどよく冷めたお茶をグビグビと飲み干していると、不意に焚き火のそばに座っていたミアから声が掛かった。
「フィノに聞きたいことがあるんだけどね」
「んっ、……なに?」
「あの時……その、死なないって約束したって言ってたじゃない」
篝火の炎が爆ぜる。
それに混じって聞こえてきた声は小声で少し聞き取り辛かったけれど、微かに震えているようにも思えた。
フィノと同様に、ミアもユルグを好きな事は知っている。
あんなことを聞いてしまっては不安になるのはもっともだ。口を滑らせてしまったかなとヒヤッとしたけれど、ここであの時のことを隠してしまうのは、はたして正解なのだろうか。
「私、幼馴染みなのにユルグの事はたぶん、何も知らないんだと思う。こうして着いていくって、我儘言って傍に居るけど、あの人自分からは何も言わないし。酷いことばっかり言うし」
つらつらと紡がれる文句を聞きながら、フィノは心の中で深く頷いた。
まったくその通りである。ユルグには何遍、心ない言葉を掛けられたことか。
「でも……でもね。とっても優しい人だってことは知ってる」
とても優しげな声音だった。
それに顔を上げたフィノの目先には、じっと焚き火に揺れる炎を見つめて物憂げな表情をするミアがいた。
それを目にして、隠す必要は無いのだとフィノは確信した。
敬愛しているお師匠のことを優しいと言ったのだ。それだけで、想いの深さは十分に伝わってくる。
「まえにね、やくそくしたんだ。いちばんになるから、しなないでって」
「……いちばん?」
「うん。そんなの、むりだっていわれたけど」
フィノの言葉の真意を、ミアはすぐに理解出来ていないようだった。けれど、それに構わず続ける。
「でも、ミアもいっしょならだいじょうぶだね」
にっこりと微笑んで告げたフィノの言葉に、ミアは目を瞬かせた。
やっぱり言葉足らずで伝わらなかったのだろうか。少しずつ勉強はしているけれど、こういった時に上手く伝えられないのはもどかしい。
瞳を伏せて焚き火を見つめていると、微かな笑い声が聞こえた。
「うん。フィノがそう言うなら、大丈夫かな」
さっきの物憂げな表情とはうって変わって、そこには笑顔のミアがいた。
どうやら彼女の心配事は吹き飛んでしまったらしい。それにフィノも安堵しながらほっと息を吐き出す。
「もう一杯、飲む?」
「うん!」
声を潜めて大きく頷くと、ミアはマグを受け取ってお茶を淹れてくれる。
温かなマグを受け取って鼻腔をくすぐる香りに深く息を吸い込むと、とても心が安らぐようだ。
安らぐといえば、こんなに静かに寝入っているユルグは珍しいと、フィノは再びその顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「んぅ、ないてないか、かくにんしてる」
それとたまに唸り声を上げることもあるのだ。
本当にたまにだし、うなされていると気づいて起こそうとすれば、それよりも先にユルグが起きてしまうから、フィノは毎回気づかない振りをしているのだが。
どうやら今晩は良い夢を見られているようだ。
それに安堵してマグに口付けると、不思議そうな顔をしてミアが尋ねてきた。
「ユルグ、泣いてたの?」
「うん、いっかいだけ。あめのせいだっていってた」
きっとユルグはあれで誤魔化したと思っているだろうが、そんなもので騙されるフィノではない。
しかし、どんな夢を見ていたのだろう。それが少しだけ気になる。
きっと良いものではないはずだ。泣いてしまうほど哀しいものだったに違いない。だったら根掘り葉掘り聞いてしまうのは間違っている。聞いたところでユルグのことだ。答えないとは思うけれど。
「……そっか」
それでも、ミアにはその意味が分かったみたいだ。何かを察したようにユルグの寝顔を見て、それから篝火へと戻っていく。
その間に垣間見えた優しげな瞳は、彼女の心の内を表しているようにも見えた。




